桂春院〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Keishun-in Temple
桂春院 桂春院
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庫裏









 桂春院 (けいしゅんいん)は、妙心寺塔頭のひとつ。境内の北東に位置する。
 臨済宗東海派、本尊は方丈に薬師如来像を安置する。 
 御朱印が授けられる。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 安土・桃山時代、1598年、武将・津田秀則により、見性院(けんしょういん、見性庵)として創建されたともいう。開祖は妙心寺73世・水庵宗掬(すいあん そうきく)による。また、設立は織田信忠二男の津田秀則ともいう。
 江戸時代、1631年、美濃の豪族・石河壹岐守(いしこいきのかみ)貞政が、水庵宗掬を開祖として創建したともいう。本堂が再建される。この際に、本堂が再建され、近江・長浜城から茶室・書院などが移築されたともいう。(寺伝)
 1632年、石河貞政は、亡父・光政の50年忌の追善供養のために見性院を得る。中興開祖・桂南守仙を請じて創建し、桂春院と改めた。(「妙心寺史」)。院号は両親の法名「天仙守桂大禅定門」の「桂」、「裳院妙春大姉」の「春」に由来し「桂春院」としたという。勧請開祖は、桂南の師・心華霊明禅師(水庵宗掬)による。(寺伝、「寺院明細書」)。以後、同氏の菩提所になる。現在の方丈、庫裡、書院、茶室などが建てられた。
◆水庵宗掬 安土・桃山時代-江戸時代の僧・水庵宗掬(すいあん そうきく、1533-1612)。美濃鏡島城主石川光成の二男。養徳院2世、妙心寺73世。心華霊明禅師とも称した。
◆桂南守仙 安土・桃山時代-江戸時代の僧・桂南守仙(けいなん しゅせん、1589-1664)。石河(石川)光成の二男に生まれる。桂春院の中興開山。
◆織田秀則 安土・桃山時代-江戸時代の武将・織田秀則(1581-1625)。美濃岐阜城主・織田信忠の次男。キリシタン大名・織田秀信は異母兄。1596年頃、キリスト教に入信し、洗礼名はパウロと称した。1600年、関ヶ原の戦では、兄・秀信と共に西軍に与し、美濃岐阜城に篭城する。戦後、豊臣家を頼り大坂城下に移る。豊臣家滅亡により京都に移った。晩年は剃髪し、宗爾と称した。
◆石河貞政 安土桃山時代-江戸時代初期の武将・石河貞政(1575-1657)。石川杢兵衛光政の子。もとは石川姓。幼くして豊臣秀吉に馬廻衆として仕え、1600年、徳川家康の会津征伐に従軍する。同年関ヶ原の戦いで戦功をあげる。豊臣秀頼に仕えた。1614年、片桐且元の暗殺の命を受けるが、高野山に上り剃髪した。大坂の役(1614-1615)で徳川方として戦い、その後旗本となる。晩年は京都の北野今小路に住み、茶道に親しんだ。法名は「桂春院殿前壱州大守安叟禅石大居士」。本人、歴代の墓は当院境内にある。
◆建築 方丈は江戸時代、1631年に建立されている。内部中央に仏間、室中の間がある。単層、入母屋造、桟瓦葺。
 「桂春院」の額は黄檗僧・天間独立の筆による。
◆庭園 方丈の東南に築山があり、三方に四つの庭がある。庭は国の史跡名勝(1931)に指定されている。
 方丈北の坪庭「清浄(しょうじょう)の庭」は、西に井筒を配し、紀州産の石、巨石による枯滝、白砂で渓流を表している。
 東の「思惟(しい)の庭」は、方丈下の窪地を利用して造られた苔庭になっている。茶室「既白庵(きはくあん)」の外露地ともなっており、飛石は「侘の庭」に続く。低地には七尊石、茶の水井戸、蒼竜池が配されている。十六羅漢石、礎石を座禅石に見立てた石も配置されている。
 南の「真如の庭」は、低地に造られている。方丈手前、犬走りツツジの刈り込み、さらにその先に段差があり杉苔庭が広がる。その先の段差をツツジ(サツキ)の大刈り込みで隠している。杉苔の中には、椿、紅葉などの低木が植えられ、さらに小さな石組が七五三形式に配置されている。これらは「十五夜満月」を表しているという。
 方丈の北、書院前庭、茶室「既白庵(きはくあん)」の露地庭の「侘(わび)の庭」は、作庭者不詳。江戸時代初期の作庭とみられ、小堀遠州の高弟・玉淵坊(玉淵坊日首、生没年不詳)作庭説もある。
 庭は苔で覆われ、中門の杉皮葺きの梅軒門(ばいけんもん)と猿戸により、内露地、外露地に分かれている。また、猿戸の外を中露地、内を内露地とした三重露地ともなる。
 『都林泉名所図会』(1799)にも、「林泉的妙境なり、壇越石河蔵人」の記載がある。
◆茶室 書院の東北隅に、江戸時代の茶人・藤村庸軒(1631-1699)好みの草庵風茶室「既白庵」がある。東部を切妻造として出庇にする。躙口上に連子窓、その上に桂南筆の「既白」の額がかかる。庇右上に刀掛が設けられている。内部は茶道口が西側南よりにあり、風呂先窓、二重の釣棚がある。天井は床前が長片天井、手前畳上が網代の落天井、躙口上に竹だるきの掛込天井になる。床の右に縁なしの襖二枚があり、板廊下は書院に通じ、給仕口に用いられる。三畳台目切席。東部は切妻造、こけら葺。
 江戸時代、1631年、江州長浜城より書院とともに移築された。また、石河貞政の江州御館より移されたともいう。囲い部分は寛保年間(1741-1743)以後に改造されている。もとは三畳敷で後に北に半間移し、床が付けられ、書院との間の板間に水屋が設けられた。大徳寺・聚光院の「閑隠の席」に類似しているという。
 境内の建物は樹木に蔽われ、書院と茶室の間は二重襖、書棚により仕切られていた。茶室は隠されるように造られている。蹲踞も土蔵壁に接し、かつては樹木に覆われていた。これらは、妙心寺の宗風として、趣味を嗜むことが排され、詩歌、香道、茶道、能楽なども邪道として禁じられていたことによる。禁を犯した者は入牢の掟があったという。
 庸軒は、京都に生まれ、茶の湯を古田織部、小堀遠州、金森宗和に学び、さらに千宗旦に師事する。宗旦門下の四天王(ほかに山田宗扁、杉本普斉、松尾宗ニ)のひとりといわれた。山崎闇斎に師事して詩文も学んだ。茶は、庸軒流としてその後も続いた。
◆障壁画 方丈の水墨画の襖絵は、狩野山楽弟子の狩野山雪(1590-1651)による。
 書院と茶室の間に狩野山楽の作品がある。
◆文化財 「無明慧性(むみょうえしょう)墨蹟」(重文)、「法雲閑極墨蹟」「古林清茂墨蹟」「大燈国師墨蹟」「寂室元光墨蹟」「大愚宗築墨蹟」。
 「高麗高木井戸茶碗」、千利休(1522-1591) の「茶杓」、千宗旦(1578-1658)の「茶杓」、藤村庸軒「茶杓」など。
◆墓 石川光政夫妻、貞政ら歴代の墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『妙心寺』『妙心寺 六百五十年の歩み』『京都・山城寺院神社大事典』『古寺巡礼 京都 31 妙心寺』『古都歩きの愉しみ』『京のみどり73号』『京都の隠れた御朱印ブック』、当院案内


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坪庭「清浄の庭」

坪庭「清浄の庭」

方丈、手前はモチノキ科のクロガネモチ(雌木)。

方丈

方丈

方丈、狩野山雪作の襖絵「金碧松三日月」。方丈
方丈


「真如の庭」、方丈が一番高く造られている。庭面は下げられ、刈り込みに挟まれた中に庭がある。その奥はさらに一段低地にある。


「真如の庭」

茶室「既白軒」

茶室「既白軒」

茶室「既白軒」
茶室「既白軒」
「侘の庭」

「侘の庭」

「侘の庭」

「侘の庭」

梅軒門

「思惟の庭」、窪地に飛び石が配置されている。の先が茶室「既白軒」。

「思惟の庭」

和紗弁財天、龍仙天空御霊神

井戸
 桂春院 〒616-8036 京都市右京区花園寺ノ中町11  075-463-6578   9:00-17:00

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