白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園 (京都市左京区)
The ruins of Shirakawa-in Temple,Hossho-ji Temple
白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園 白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園 
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白河院大門(1919年・京都市指定名勝)、唐破風




「此附近 白河院址」の碑




数奇屋造旧館


茶室「無心庵」


庭園


「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」の碑
 京都市動物園の北、岡崎法勝寺町にある平安時代の白河院跡、法勝寺(ほっしょうじ)跡は、いまは日本私立学校振興・共済事業団の所有となり、「京都白河院」という宿泊施設などに使われている。 
 敷地内に現存する庭園は、現代の造園家・7代目小川治兵衛が作庭している。
◆歴史年表 平安時代初期、白河院は、公卿・藤原良房(ふじわらの よしふさ)の別荘地だった。別荘は、その後、北家藤原氏によって代々受け継がれている。
 公卿・藤原師実(ふじわら の もろざね、1042-1101)の時、別荘は、第72代・白河天皇(1053-1129)に献上された。
 1075年、白河天皇により、この地に法勝寺(ほっしょうじ)の造営がはじまる。場所は、現在の岡崎公園、京都市動物園周辺付近一帯だったという。東は岡崎道より300m東、西は岡崎道、南は現在の動物園の南、北は冷泉通より50m南に囲まれた広大な寺域を誇った。
 後に俊寛((1143 -1179)は、法勝寺執行を務めた。
 1077年、本尊・毘廬舎那仏を安置した金堂の落慶供養が執り行われる。天台座主・覚尋を導師とする。
 1083年、池の中島に、高さ約80mという高塔、八角九重塔や、愛染堂が完成する。そのほか、講堂、阿弥陀堂、法華堂、五大堂、八角堂、常行堂などが次々に建てられた。
 1185年、大地震により、九重塔以外の建物の大半が倒壊した。
 鎌倉時代、1208年、八角九重塔は落雷で焼失する。朝廷により建仁寺開山・明菴栄西(みんなんえいさい・ようさい)に大勧進が命じられる。
 1213年、再建している。その後も、復興は続く。
 1248年、阿弥陀堂が焼失する。
 1253年、阿弥陀堂が再建された。
 1326年、山門系、律僧・円観(恵鎮)による勧進再興された。
 南北朝時代、1342年、九重塔、金堂、講堂が焼失している。
 1349年、焼失している。
 室町時代、1468年、応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。
 1531年、管領・細川高国と細川晴元の戦いでも焼失している。
 安土・桃山時代、1590年に第107代・後陽成天皇の詔勅により、法勝寺の寺籍は近江坂本の西教寺に移され廃寺になったという。
 近代、1918年、この地は、呉服業を営んだ下村忠兵衛の所有になる。
 1919年、洋館と和館などが建てられる。設計は、近代の建築家・武田五一による。現在も、数奇屋造りの旧館が残されている。
 現代、1945年以降、占領軍により九重塔基壇跡が削平される。
 1958年、私立学校教職員共済組合の宿泊施設になる。
 1972年、法勝寺の池東岸跡が金堂跡が発掘調査される。
 1975年、法勝寺の金堂跡が発掘調査される。
 1982年、和館、洋館の建物の一部は取り壊されている。池導水路跡が発掘調査される。その跡地に、新館が建てられる。
◆藤原良房 平安時代前期の公卿・藤原良房(ふじわら の よしふさ、804-872)。冬嗣の次男。826年、蔵人、嵯峨天皇皇女の潔姫を妻にした。834年参議、935年、中納言、848年、右大臣。842年、承和の変で道康親王(文徳天皇)の立太子を実現し、娘の明子を妃とした。850年、文徳天皇即位により、惟喬親王(第1皇子)を押さえ明子が産んだ惟仁親王(第4皇子)を皇太子とする。857年、太政大臣、858年、幼い清和天皇即位により、866年、摂政となった。邸宅染殿は桜の名所として知られ歌宴を催した。後の藤原北家全盛の礎をつくり、染殿、白河殿とも称された。
◆藤原師実 平安時代後期の公卿・藤原師実(ふじわら の もろざね、1042-1101)。摂政・関白頼通の子。中納言、権大納言、内大臣、右大臣、1069年、左大臣、1075年、関白。妻源麗子の姪賢子を養女として東宮(白河天皇)妃に入れ、善仁親王(堀河天皇)を生む。1086年、堀河天皇即位後師実は摂政、太政大臣、関白と進む。1094年、嫡子師通に関白を譲る。有職故実・詩歌・音楽・書に優れる。京極殿、後宇治殿と呼ばれた。
◆白河天皇 平安時代の第72代・白河天皇(しらかわ てんのう、1053-1129)。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は中納言・藤原公成の娘・茂子。1072年、20歳で即位した。1075年、法勝寺の創建に着手する。父の遺言に背き、1086年、8歳の子・善仁親王(第73代・堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を行った。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1107年、5歳の孫・第74代・鳥羽天皇、1123年、曾孫・第75代・崇徳天皇と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。「治天の君」といわれた。院御所は主に六条院とした。200か所以上の倉を有し、1077年、六勝寺の初めである法勝寺、1095年頃、白河に白河殿を建立した。熊野参詣は9度行う。延暦寺衆徒の嗷訴(強訴)に苦慮し、源平の武士を登用しその台頭を促す。
 西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)に改葬された。
◆俊寛 平安時代末期の真言宗の僧・俊寛(生没年不詳、1143?-1179?)。村上源氏源雅俊の孫、木寺法印寛雅の子。仁安年中(1166-1169)、法勝寺執行となる。1174年八条院の御堂供養を行う。後白河院の近習僧として仕 える。1177年鹿ケ谷事件では、藤原成親、西光らと共に平氏打倒計画を企てるが失敗し、清盛によって捕えられる。薩摩国・硫黄島に配流され、そこで没した。
◆小宰相局 平安時代後期の女官・小宰相局(こざいしょう の つぼね、1164?-1184) 。刑部卿・藤原憲方の娘。上西門院(第74代・鳥羽天皇皇女)に仕え、宮中一の美女として知られた。1179年頃、法勝寺の花見で上西門院にお供した際に、中宮亮・平通盛(みちもり)に見初められる。身持ちの固い小宰相局に代わり、上西門院の仲立により、小宰相局は3年越しで妻となる。1183年、平家一門は都を離れた。小宰相局は夫に同行する。1184年、一ノ谷の戦いで通盛の討死後、悲報を知り船より身重で投身した。(『平家物語』)。墓と伝えられるものが鳴門にある。
◆武田五一 近代の建築家・武田五一(1872-1938)。備後福山藩(現・広島県福山市)に生まれた。「関西建築界の父」といわれ、アール・ヌーボー、セセッションなどを日本に紹介した。設計した建物としては、京都府立図書館(1909)、円山公園(1912)など数多い。葵橋、賀茂大橋などもある。
◆小川治兵衛 近代の作庭家、庭師・7代の小川 治兵衛(1860-1933)。現在の京都府長岡京市に生まれた。通称は屋号の「植治(うえじ)」と呼ばれた。江戸時代、宝暦年間(1751-1763)より続く植木屋、「植治」を継ぎ、平安神宮を初め、円山公園、無鄰庵など庭園の作庭、修景も手がけた。
◆法勝寺 左大臣・藤原師実の別業・白河院は、その後、白河天皇に寄進された。1075年より、白河天皇の発願により法勝寺が建立される。
 当初、金色三丈二尺の本尊・ 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・胎蔵界四仏を安置する金堂、金色釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩を安置する講堂、不動尊・四大尊安置の五大堂、金色丈六の阿弥陀如来九体安置の阿弥陀堂、法華経を納めた多宝塔安置の法華堂、鐘楼、経蔵などが建ち並んでいた。その後、1083年に高さ80mという八角九重塔をはじめ、薬師堂、常行堂、北斗曼荼羅堂、小塔院なども建てられた。寺司、供僧、住学生は延暦寺、園城寺、興福寺、東寺などが担った。火災、戦乱などで伽藍焼失するたびに再興を繰り返した。安土・桃山時代、1590年に後陽成天皇の詔勅により法勝寺の寺籍は近江坂本の西教寺に移された。
◆六勝寺 白河の地には、ほかの寺院も建立されている。いずれの寺名にも「勝」の字が用いられていたことから、これらを総称して六勝寺(りくしょうじ)と呼ばれた。
 六勝寺として、第73代・堀河天皇の尊勝寺、第74代・鳥羽天皇の最勝寺、待賢門院(鳥羽天皇中宮、第75代・崇徳天皇、第77代・後白河両天皇の母)の円勝寺、第75代・崇徳天皇の成勝寺、第76代・近衛天皇の延勝寺をいう。この中で第72代・白河天皇の法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、最大の寺院だった。
◆建築 表門、玄関、和館、新館、南に新しく建てられた茶室「無心庵」がある。建築家・武田五一の設計による。当初は南北に和館、洋館が建てられ、和館は庭園にせり出し、洋館の正面に洋館が建てられていた。1982年に二館の一部が撤去され、現在の新館が建てられた。
 
数奇屋造の和館(旧館)。
 表門(大門)は、唐破風。
◆庭園 池泉廻遊式庭園は、1919年頃、7代目・小川治兵衛の作庭による。庭は作庭当初より改変が行われていない。
 水は、琵琶湖疏水から引かれ、北側より西と東の滝石組から流入する。西からは桝、切石橋、流れ、東は滝口組、滝壺、流れになり、二流は南下し、やがて合流し、段落、園池に注がれている。滝石組は大石が使われている。川床に岩石が据えられている。飛石がある。園池中央に雪見型燈籠が据えられている。
 東山を借景とし、築山があり、アカマツ、イロハモミジのほか、モミ、ヒノキ、スギの針葉樹、サツキ、アセビ、ドウダンツツジなどの低木の群植がある。紅葉も楽しめる。また、和館の傍に、あえてクロマツの大木を配することで、遠近感の演出がみられるという。
 複雑な地割、植栽、借景により、視界の拡散効果を上げている。庭園と建物の間には芝生が張られている。藤棚も造られている。2003年に京都市名勝指定になった。
◆俳人 門前に、「諸九尼湖白庵・幻阿蝶夢五升庵址」の碑が立っている。
 江戸時代の女性俳人・五外庵諸九尼(1714-1781)は、俗名をなみといった。1742年、佐賀県の庄屋・永松万右衛門の妻だったが、芭蕉高弟・野坡(やば)門下俳人・有井湖白と駆け落ちする。当初、京都に逃げ、野坡の弟子の九十九庵に匿われる。1743年、大坂に移住した。二人は、大坂俳壇で活躍し、なみの俳号は雎鳩(しょきゅう)、その後、諸九に変えた。1755年頃に京都五条に移住したという。また、九十九庵に再び戻り、野坡追善句集『窓の春』などを刊行した。1762年、夫・湖白の没後、剃髪し、諸九尼と称した。俳人・幻阿蝶夢とも親しかった。
 江戸時代の俳人・幻阿蝶夢(1732-1795)は、芭蕉復興運動の中核的な役割を担った。かつて京都寺町の阿弥陀寺住職で、1766年に住職を辞し、1768年、この地に五升庵を結んで隠棲した。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』『岡崎・南禅寺界隈の庭の調査』『京都秘蔵の庭』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えた女』『京都まちかど遺産めぐり』


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