嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓・姫明神 (京都市右京区) 
The grave of Princess Uchiko,Hime-myojin Shrine

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 落柿舎の西に隣接して平安時代の第52代・嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王墓がある。
 有智子内親王(807-847)は、初代・賀茂斎王(いつきのひめみこ)になった。女性神職である賀茂の斎王は、810年の有智子内親王から、鎌倉時代の1221年の第82代・後鳥羽皇女・礼子(いやこ)内親王まで、35代、約400年間続いた。 
◆有智子内親王 平安時代の有智子内親王(うちこ ないしんのう、807-847)。嵯峨天皇皇女、母は宮人交野女王。810年、4歳で嵯峨天皇の創始した賀茂社の初代斎王となる。洛北紫野にあった斎院で神に仕えた。823年、斎院での花宴に訪れた天皇に七言律詩を献じ、封100戸を与えられた。二品。831年ね病によって斎院を退き、晩年は嵯峨西荘に閑居した。
◆賀茂斎王 天皇即位の年に、未婚の内親王から賀茂斎王が卜定により決められた。紫野(船岡山の東)に賀茂斎院は置かれ、賀茂社の賀茂祭などの祭事に奉仕していた。
 有智子内親王が斎王奉仕になった経緯は、嵯峨天皇の同母兄の第51代・平城天皇との皇位争いによる。平城天皇は、一度、嵯峨天皇に譲った皇位復位のために挙兵する。嵯峨天皇は、この平城太上天皇の変(薬子の変)(810)の平定を賀茂の神に祈念し、事態が収拾したことから、約束どおり皇女を神に奉仕させることになった。
 810年、有智子内親王は4歳の時、初代賀茂斎院に卜定され、831年に病により退居するまで21年間に渡り奉仕した。文才に恵まれ、数少ない女性漢詩人の一人とされる。「本朝女中無双之秀才」といわれた。作品は『後日本後紀』『経国集』に所収されている。
 斎王は、鴨川で禊して御所の初斎院に入った。3年後、再び鴨川で禊を済ませ、紫野の斎院に住んだ。祭事の際には、斎院から賀茂社まで一条通を通った。この「斎王潔斎」(帰りは「還立」)には多くの見物人で賑わった。斎王は、糺の森・鴨川近くに建てられた「神館(こうだち/かんだち)」に入った。ここでは、鴨の河原に設けられた「行宮」(かりのみや、河原屋)で、「河原祓」が行われていた。
 賀茂祭では、紫野斎院から、下鴨神社、上賀茂神社でそれぞれ神事を行い、上社の神館で一泊後、斎院に戻っていた。
 有智子内親王は、823年に三品に叙せられ、その後二品となり、封百戸を賜り、41歳で亡くなっている。
◆姫明神 近代以前の俗称として、緋明神(ひのみょうじん)町の内親王墓は、姫明神(ひめみょうじん)と呼ばれていた。祭神には、内親王を祀った。
 内親王の没後、内親王の山荘が営まれていたこの地に葬られたという。後に墓上に小祠が建てられ姫明神と呼ばれる。その後、壇林皇后・橘嘉智子(786-850)の緋の袴を埋めた地とされた。
 近代、1868年に内親王墓と確定している。


*参考文献 案内板


          葵祭       葵祭・前儀式       般舟院        落柿舎          
 嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓 京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20 

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