六道珍皇寺 (京都市東山区) 
Rokudo-chinno-ji Temple
六道珍皇寺 六道珍皇寺
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「愛宕の寺も打ち過ぎぬ 六道の辻とかや 実に恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを」謡曲『熊野(ゆや)清水詣』より、「東大路や六波羅の地蔵堂よと伏拝む。頼む命は白玉の愛宕の寺もうち過ぎぬ六道の辻とかや。げに恐ろしやこの道は、冥土に通うなるものを心細鳥辺山…」


本堂








庭園


本堂の北東に祀られている猿の木像、真猿(まさる)。


「小野篁冥土通いの井戸」


「小野篁冥土通いの井戸」、井戸傍に生える高野槙


竹林大明神


「黄泉(よみ)がえりの井戸」


「黄泉(よみ)がえりの井戸」


小野愛宕大権現


「三界万霊十方至聖」の石塔婆




薬師堂(収蔵庫)


薬師堂



閻魔堂(篁堂)


閻魔堂(篁堂)


閻魔堂(篁堂)、閻魔大王像、


六道の迎え鐘 


迎え鐘


迎え鐘


地蔵尊



地蔵堂、地蔵菩薩と石仏


水子地蔵尊





水子祠堂
 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ/ろくどうちんこうじ)は、東西に通じる松原通に面している。かつての五条通であり、平安時代そのままの通りとされ、冥土への通路、六道の辻とされていた。
 「六道(寺)」「六道さん」と親しまれ、お盆の精霊迎えに参詣することで知られている。「珍皇寺」「愛宕(おたぎ)寺」「愛宕念仏寺」「鳥部(戸)寺」などとも呼ばれた。正式には六道珍皇院という。山号は大椿山(たいちんざん)という。
 臨済宗建仁寺派。本尊は薬師如来坐像。
 御朱印が授けられる。墨書のほか、特別公開時限定、六道まいり限定の紺紙金泥御朱印などが授与される。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不詳。
 古くよりこの地は葬送地であり、鳥辺野墓地の無常所があった。その後身の寺が置かれたともいう。
 奈良時代、794年の平安遷都以前、東山阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯に居住した鳥部氏族の氏寺・宝皇寺(ほうこうじ、鳥部寺)が前身ともいう。当初は真言宗だった。
 奈良時代-平安時代、延暦年間(782-806)、空海の師・大安寺の慶俊(けいしゅん)が創建した、宝皇寺(愛宕寺)を前身にするともいう。慶俊は六道の辻に愛宕寺を建立し、寺は後に、珍皇寺と念仏寺(愛宕念仏寺)に分かれたともいう。また、空海(774-835)が興し、東寺末寺になったともいう。空海が慶俊に師事し、当寺に住したともいう。東寺の所管だった。小野篁(802-853)の開祖説、篁が檀越になり堂塔伽藍を整備したともいう。(『伊呂波字類抄』)。篁が閻魔堂を建て盂蘭盆会を修したともいう。
 平安時代、承和年間(834-848)、836年とも、この地の豪族・山代淡海(やましろのおうみ)らにより、国家鎮護所として創建されたともいう。寺領は鳥部郷、八坂郷、錦部郷にあった。この頃、東寺の末寺になった。(東寺百合文書・「山城国珍皇寺領坪付案」)
 850年、「寶皇寺」は、仁明天皇法要のために遺使された、77箇寺の一つとして記されている。(『日本文徳天皇実録』)
 858年、宝皇寺(鳥部寺)が焼失している。(『日本文徳天皇実録』)。金堂、礼堂を焼失する。その後、復興され、珍皇寺に改められた。
 文慶年間(966-1046)、千観内供が中興した。以後、念仏寺といわれた。
 10世紀(901-1000)前半、『延喜式』内蔵寮式中に「珎皇寺」とあり、5月5日に菖蒲を供える15箇寺のひとつとして記されている。 
 1002年、「山城国珍天皇寺領坪付案」の記述がある。(「東寺百合文書」所収)
 永久年間(1113-1118)、焼失したという。寺は度々火災に遭い、また再建を繰り返した。
 1173年、三重塔の落慶供養が行われる。
 南北朝時代、1364年、正平年間(1346-1370)とも、建仁寺住持・聞渓良聰により再興された。臨済宗に改宗され、東寺から独立し建仁寺に属した。建仁寺塔頭・大昌院が住持を兼ねる。また、荒廃しており、建仁寺の聞渓良聡により買収され、東寺と諍いになるともいう。最盛期には、現在の八坂の塔から建仁寺境内も含まれていた。後に一時廃絶する。
 室町時代、1469年、建仁寺と共に焼失する。
 1509年、建仁寺・大昌院は、珍皇寺の余地を買得して建物を移す。
 江戸時代、1684年、当寺は「六道」と記され、この頃、六道珍皇寺の呼称があった。 (『菟芸泥赴(つぎねふ)』)
 近代、1874年、一時、建仁寺塔頭・大昌院に併合された。
 1890年、本堂を再建する。
 1910年、独立した。
 現代、1995年、山門が修復される。
 2011年、境内北の民有地跡より、小野篁ゆかりの伝承がある新たな井戸が発見される。
 2012年、新たな井戸は「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付けられ公開された。
◆慶俊 奈良時代の僧・慶俊(けいしゅん/きょうしゅん、生没年不詳)。河内国、渡来系氏族葛井(藤井)氏に生まれた。出家後、大安寺の入唐僧・道慈を師として、三輪、法相、華厳などを学ぶ。華厳講師、753年、法華寺の大鎮になる。第45代・聖武天皇(701-756)の死に際して、律師に任じられる。聖武天皇の光明皇后(701-760)、藤原仲麻呂(706-764)と親交あり、仲麻呂政権の崩壊で失脚、その後、律師に返り咲いた。
◆小野篁 平安時代初期の公卿・文人・小野篁(おの の たかむら、802-853)。岑守(みねもり)の子。野狂、野宰相などとも呼ばれた。文章生、東宮学士、834年、遣唐副使に任命される。だが、838年、3度目の出発に際して、大使の藤原常嗣と対立し、乗船を拒否したため、嵯峨上皇により隠岐に配流された。2年後召還され、847年、参議になる。武芸、和歌にも秀でた。百人一首に「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまのつりね」がある。北区の紫式部の墓の隣に墓がある。
 伝承として、篁は昼は朝廷に仕え、毎夜、冥土へ入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立会っていたという。藤原高藤、藤原良相らを蘇生させたともいう。これらの篁の冥官説は平安時代より、また室町時代に始まったともいい、江戸時代には当寺より篁が冥土に行き来したとする話が定着した。(『江談抄』『今昔物語』『元亨釈書』)
◆千観内供 平安時代中期の天台宗僧・千観内供(918-984、せんかん ないぐ)。橘公頼の子・相模守敏貞を父とする。内供とは、皇居に参内をゆるされた僧位をいう。民衆からは念仏上人と尊称された。12歳頃に比叡山に上がり、運昭につく。園城寺に入り出家、受戒。行誉(運昭とも)に師事して天台教学を学んだ。禁裏の内供奉十禅師を務めるが、空也の影響を受け浄土教になり宮中を去る。阿弥陀和讃をつくった。962年、摂津国箕面山に隠遁する。963年、勅命により祈雨を祈願したという。応和宗論の論者と して選ばれたが辞退し、摂津国金龍寺(安満寺)を再興し住した。970年、行誉から三部大法を伝授されている。
◆聞渓良聡  鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗僧・聞渓良聡(もんけい りょうそう、?-1372)。信濃に生まれた。一山一寧の法を嗣ぐ。京都・西禅寺、播磨・法雲寺、建仁寺住持となる。1364年、珍皇寺を再興した。諡号は仏海慈済禅師。
◆寺号・創立者 珍皇寺について、様々な呼称があり確定していない。『延喜式』の「珎皇寺」は珍皇寺とみられている。「珎光寺(ちんこうじ)」(藤原道長『御堂関白記』)とも記された。『日本文徳天皇実録』中の「寶皇寺(ほうこうじ)」は、俗名「鳥戸寺(とりべでら)」とされる。珍皇寺と寶皇寺、鳥戸寺は同一の寺とする説と別の寺とするもある。珍皇寺は「愛宕寺(おたぎでら)」ともされる。(『伊呂波字類抄』『諸寺略記』など)。これについても異説がある。「六道寺」との呼称もあった。
 創立者については愛宕寺を前身とし、愛宕寺の開基慶俊をあてるもの、空海(『叡山記録』)、平安時代前期の豪族・山代淡海(やましろのおおえ)(『山城国珍天皇寺領坪付案』・「東寺百合文書」)、小野篁(『伊呂波字類抄』『今昔物語』)、「鳥部寺」より阿弥陀ヶ峰山麓一帯に住んでいたという豪族鳥部氏説などがある。
 愛宕寺は、六道の西、竹林の中、建仁寺・大統院の南にあり、本尊は丈六の弥陀坐像だったという。(『山城名勝志』)。承雲の開基により、明達の時、比叡山南谷五仏院の金色阿弥陀像を遷して本尊とした。延暦寺に属した。平安時代、1123年に焼失し、その後、荒廃したという。(『坊目誌』)。かつて珍皇寺の近く、弓屋町に天台宗の等覚山念仏寺があり、愛宕寺と称した。近代、1925年まであった。現在は、嵯峨に移り、愛宕念仏寺になる。跡地には、「愛宕念仏寺旧蹟」の石碑が残る。一帯は山城国愛宕(おたぎ)郡愛宕郷だった。
◆仏像・木像 薬師堂(収蔵庫)安置の旧本尊、「薬師如来坐像」(125.3㎝)(重文)は、平安時代(藤原時代)の作になる。最澄(767-822)作ともいう。昭和期(1926-1989)、建仁寺の薬師堂に遷されている。右手は施無畏印、左掌上に薬壺を載せる。衣文は浅い。頭部以外は後補ともいう。木造、漆箔。非公開。
 脇侍に「毘沙門天像」、「地蔵菩薩像」を安置する。
 本堂に本尊「薬師如来像」、脇侍に「日光・月光菩薩像」の薬師三尊像が安置されている。京仏師・中西祥雲の作になる。
 本堂外陣長押上の小壁三面(南東西)に縦3段に多くの小仏が祀られている。
 篁堂(閻魔堂)の「小野篁立像」は、旧篁堂本尊という。等身、束帯姿であり、頭に垂纓の冠(すいえいのかんむり)、右手に笏(しゃく)を持つ。縫腋の袍(ほうえきのほう)、下襲の裾(したがさねのすそ)、飾太刀(かざりたち)姿になる。篁は6尺2寸(180㎝)の身の丈があったという。
 脇に「獄卒(ごくそつ)像(悪童子像)」、「善童子像」を安置する。いずれも江戸時代、1689年作であり、右京・法橋院達による。旧篁堂の脇立だったという。篁作との伝承もある。
 厨子内に中興とされる「弘法大師坐像」が安置されている。その後に、廣燈菴開基の嵩山居中の「大本禅師像」、中央に平安時代作という旧閻魔堂本尊の「閻魔大王坐像」は、衣冠束帯姿であり、小野篁の作ともいわれる。左に大統院開基という「仏観禅師(青山慧水)」が安置されている。
 平安時代、10世紀作の「毘沙門天像」がある。
◆建築 山門、薬師堂(収蔵庫)、閻魔堂、鐘楼、本堂、庫裡などが建つ。
◆鳥辺野・六道の辻 平安時代の中期頃まで、京都の東に位置するこの付近は、鳥辺野、また俗称として六道の辻と呼ばれ、葬送地、風送の地として知られた。冥府への入り口であり、あの世とこの世の境界地であり、冥土から戻る精霊が通る地ともいわれていた。都人の中で上京の死者は、蓮台野の引接寺(千本閻魔堂)へ、下京の死者はこの地に運ばれた。また、嵯峨野にある化野念仏寺も知られていた。
 亡くなると亡骸は柩に納められ、鴨川を渡り当寺に運び込まれた。住持は引導を渡して、霊魂を迷うことなく浄土に旅立させた。野辺送りの法要を行い最後の別れを告げると、隠坊(おんぼう)により遺体は鳥辺野へ運ばれ風葬にされていた。
 鳥辺野(鳥部野、鳥戸野)は、時代によって場所が変遷している。かつて、清水山から阿弥陀ヶ峰・東福寺の山麓が呼ばれていた。また、清水寺の東にある音羽山に川があり、清水寺の北で轟川となり、八坂庚申堂南西、六道の辻の北を通り、鴨川に注ぐ三世川が流れていた。
 六道珍皇寺は、東西に通じる松原通に面している。かつての五条通であり、平安時代そのままの通りとされ、冥土への通路、六道の辻とされていた。謡曲『熊野(ゆや)』には「愛宕の寺もうち過ぎぬ、六道の辻とかや、げに恐ろしやこの道は 冥土に通ふなるものを」と謡われた。
 六道の辻(死の六道)とは、六道珍皇寺門前町、轆轤町から新シ町、珍皇寺から西福寺角あたりをいう。「丁」字形になっており、南はかつて「六道大路」と呼ばれた。俗に「主典辻子」とも呼ばれる。仏師の居住地区になっており、「四天辻子」が転訛したともいう。中世の頃、界隈に六波羅蜜寺、珍皇寺、念仏寺、地蔵堂、縁魔堂、姥堂などが建ち並ぶ。六御堂が建てられていたともいう。
 この辺りには、夥しい数の人骨が出たという。そのため、「髑髏原(どくろがはら/ろくどがはら)」、「髑髏町」とも呼ばれた。また、転訛して「六道」「六原(ろくはら/ろっぱら)」「六波羅」「麓原」(ろくはら)とも書かれた。だが、江戸時代初期、寛永年間(1624-1645)、京都所司代・板倉宗重の命により、轆轤(ろくろ)町と変えられた。この頃、轆轤挽き職人が多く住んでいたためともいう。江戸時代末期、1864年の蛤御門の変で戦死した多くの兵も、この地に埋葬されている。この時の人骨が、近代に入った1913年に発見されている。
◆小野篁冥土通いの井戸 境内に「小野篁冥土通いの井戸」がある。
 井戸の傍に高野槙が生えている。小野篁はその枝を伝って井戸内へ入り、冥界の閻魔庁に役人として通っていたという。井戸に降りる際には、風圧により篁の裾が跳ね上がった。その様が篁の彫像、画像に表現されている。逸話は『江談抄』『今昔物語』『伊呂波字類抄』『帝王編年記』『三国伝記』などで取り上げられ、室町時代に定着した。
 この井戸は入口であり、「死の六道」と呼ばれた。出口は、嵯峨野大覚寺門前六道町にあった福生寺(現在の嵯峨薬師寺)とされる。こちらは「生(しょう)の六道」と呼ばれた。また、蓮台野の千本閻魔堂近くの井戸から這い出てきたともいう。これらの逸話は、江戸時代に定着した。
◆六道・六道詣り・盂蘭盆 六道詣り(六道さん)は珍皇寺境内で、毎年8月7日-10日の4日間に催される。「六道詣り」「精霊迎」「お精霊さん迎え」「六道さん」といわれる。精霊迎えが行われ、観音像が開帳される。珍皇寺の精霊迎えは、小野篁が高野槇の枝を使う。その穂先から冥途に入る井戸を伝い往来していたという伝承に基づく。室町時代に始まり、江戸時代に盛んになったという。
 「六道(ろくどう/りくどう)」とは、平安時代の源信(942-1017)が、985年に著した『往生要集(おうじょうようしゅう)』3巻に説かれている。人の生前の善行により導かれる冥界とされる。階層であり、①最上位の「天道(天上道、天界道)」より、②「人間道」、③「修羅(阿修羅)道」、④「畜生道」、⑤「餓鬼道」、⑥「地獄道」がある。これらの六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いからの脱却、悟りを開かない限り、人は永遠に苦渋に満ちた六道世界を彷徨うとされた。たとえ、最上位の天道ですら死を免れることはかなわず、死期が迫ると体に5つの前兆が現れるとされた。さらに、人間道には、「四苦(生老病死)」、「四苦(愛別離苦)」の「八苦」がある。これらの六道の輪廻より脱するには、念仏修行が説かれ、悟りで極楽浄土に至るとされた。
 六道を脱した「極楽」は西に在る。阿弥陀仏の浄土であり、10の幸福「十楽(じゅうらく)」が得られるとされた。①最初の「聖衆来迎の楽」は、臨終の際に阿弥陀如来などが来迎し、極楽に導く。ほかに、②「蓮華初開の楽」、③「身相神通の楽」、④「五妙境界の楽」、⑤「快楽(けらく)無退の楽」、⑥「引接結縁(いんじょうちえん)の楽」、⑦「聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽」、⑧「見仏聞法の楽」、⑨「随心供仏の楽」、⑩果たせなかった悟りに到達する「増進仏道の楽」などがあるとされた。
 地獄は、「八大地獄/八熱地獄」といわれる。地獄は城壁に囲まれ、階層になっている。各々の周囲に16の小地獄が置かれている。生前の罪の深さでより最下層に落とされる。①最上層の「等活(とうかつ)地獄」は、殺生により落とされ、罪人同士が傷つけ合い、鬼に八つ裂きにされる。その下層に、②「黒縄(こくじょう)地獄」、③「衆合(しゅごう/しゅうごう)地獄」、④「叫喚(きょうかん)地獄」、⑤「大叫喚地獄」、⑥「焦熱(しょうねつ)地獄/炎熱地獄」、⑦「大焦熱地獄/ 大炎熱地獄」、⑧最下層の「阿鼻(あび)地獄/無間地獄」は、殺生・父母・阿羅漢(聖者)殺害などにより、ありとあらゆる苦が終結し、ほかの7地獄の千倍以上の苦しみが待つという。
 平安時代以来、貴族の間で浄土信仰は広まり、鎌倉時代には絵解きも流布した。江戸時代には庶民にも拡大する。『往生要集』にはなかった三途の川、閻魔、賽の河原なども次第に脚色されていく。
 お盆、盂蘭盆とは、梵語の「ullambana、ウランバーナ」に由来し、「倒懸」という逆さ吊りからの救いを意味する。釈迦弟子の目蓮は、亡き母の所在を神通力で見てもらうと、餓鬼道に落ちて苦しんでいることが分かる。目連は釈迦の教えに従い、供養をすると功徳により母は救われたという。以後、僧が百日の修行を終え、伝道に出る旧暦7月15日頃に、祖先の霊に供物を行う。施餓鬼をすることで餓鬼道で苦しむ人々のために、善行を代わりに積み、仏の慈愛により極楽世界へと導く。
 珍皇寺の盂蘭盆会の伝承は、母の霊に遭った小野篁が、その苦しみを功徳するために、多くの供物を与えたことに始まるという。その手順は、門前で高野槙(こうやまき)の葉を買い求め、本堂前で水塔婆(みずとうば)を購入し、これに迎える先祖の戒名か俗名を僧に描いてもらう。さらに、本堂前で香炉に線香をあげ、煙を経木と体にまぶす。続いて石地蔵前の「賽の河原」に向かい、水槽に経木を浸し、または柄杓、高野槇で経木に水をかける。この水むけは水回向(みずえこう)といわれる。 
 槇が用いられるのは、この地にかつて槇の林があったためという。槇は地中でも腐らないためとも、空海の高野山金剛寺に因み、高野山の槇に因んだためともいう。
 鐘楼の「迎え鐘」を撞く。その音は冥土にまで届き、霊を現世に呼び戻すとされる。心中に故人の名を念じ、精霊を冥途から呼び寄せる。最後は、精霊が穂先を伝い冥土より返ってくるとされる、高野槇の穂先を買い求めて帰宅する。高野槇は自宅の井戸に逆さにして吊るし、13日に魂棚・施餓鬼棚・仏壇などに供え、門火を焚いて精霊を迎える。水塔婆は、送り火の翌日に僧侶により法要される。
◆迎え鐘 小野篁が愛宕寺(珍皇寺)を建立した際の、梵鐘にまつわる伝承がある。
 鋳物師は、撞く人がいなくても、一日12回、自然に鳴るように造られていたという。ただ、その完成のためには、土中に丁度3年間埋めなければならないという。鐘は一度土中に埋められたが、別当が不安に駆られ、途中で掘り返したため、以後、自然に鳴ることはなかったという。(『今昔物語』巻31、巻19)
 また、慶俊が鐘を造らせ、途中で唐に旅立った。留守の僧が、待ちきれず1年半ほどで掘り返し、試しに撞いたという。その鐘の音は唐にまで鳴り響く。途中で掘り返されたことを知った慶俊は、もはや鐘が自然に鳴らないことを悟り残念がったという。(『古事談』)。唐土にさえ鐘の音が響き渡るのであれば、十万億土の冥土にも音は響き、亡者をこの世に呼び寄せられるものと信じられた。
 
境内に、六道の迎え鐘とよばれる鐘楼が建つ。四方が壁で囲まれ、中の銅製の梵鐘(1910年鋳造)を見ることはできない。梵鐘の低く鈍い音は、十万億土のあの世(冥土)にも響くとされる。亡者はその響きに応じて、この世に呼び戻される。六道詣りでは、外に垂らされた綱を曳いて梵鐘を撞く。鐘は天井から吊り下げられており、撞き棒は綱の反対側、奥に付いている。この綱を引くと撞き棒が一端奥に下がり、手前に引き寄せられて鐘が鳴る。梵鐘の真下には甕が埋め込まれ音は共鳴する。鐘の下には井戸が掘られているともいう。 
◆六道地蔵 境内の西に石仏群が集められている。中央に、江戸時代作とみられる「地蔵菩薩立像」(像高2.5m)が安置されている。その左右に、江戸時代作とみられる4体の舟形光背の厚肉彫りの「地蔵尊」(1m)が立つ。さらにその左右に江戸時代作の6体の石仏があり、そのうちの2体(20cm)は室町時代作とみられ、「阿弥陀仏坐像」で常印を結ぶ。
◆井戸 境内東北に「小野篁冥土通いの井戸」がある。井戸の傍に高野槙が生え、小野篁はその枝の穂先から冥途に入へ入り、冥界の閻魔庁に通ったという。
 この井戸は入口専用といい、「死の六道」といわれた。出口は嵯峨野大覚寺門前六道町にあり、いまは廃寺になった福生寺(ふくしょうじ、現在の嵯峨薬師寺)であり、こちらは「生(しょう)の六道」と呼ばれた。
 篁は、当初、亡き母の霊に会うために当寺を訪れ、冥途に通じるという井戸を使ったという。大和・矢田寺の満慶もまたこの井戸を使い、閻魔庁に菩薩戒を授けに行ったという。
 2011年、寺北側の民有地開発に伴い、篁ゆかりのもう一つの井戸が発見される。以前より寺での口伝があったという。冥土からの戻り井戸とされ、「黄泉(よみ)がえりの井戸」と名付けられた。2012年より一般公開された。水面までの深さ16m、水深30-40mという。
◆真猿 
本堂の北東に猿の木像、真猿(まさる)が祀られている。肩に御幣を担ぎ頭に烏帽子を被る。北東方角の比叡山と「小野篁冥土通いの井戸」を向き、悪鬼、邪気の出入りを防ぐという。鬼門除けであり「魔去る(まさる)」の意味もあるという。 
◆白鳳寺院 現在の境内北より白鳳時代(飛鳥時代)、7世紀の軒瓦が出土している。北白川廃寺、法観寺、宝菩提院廃寺と同笵瓦であり、7世紀後半、この地に寺院が建立されていた。珍皇寺との関係については判明していない。
◆西念 近代、1906年、六道珍皇寺境内の西(愛宕郡八坂郷、東山区小松町)で、埋納物(「紺紙金泥供養目録」、青銅製「磬<けい>」の残片)が発見された。
 この地には、平安時代後期の僧・西念(さいねん、生没年不詳)の自宅があった。下級貴族の藤原氏、曽我部氏の出身ともいう。熱心な浄土信仰のため、1100年より供養を続けた。1140年に出家し西念と称した。同年、西方浄土のため供養目録を携え、四天王寺西門近くの海で入水し、失敗に終わる。1142年に自宅に墓穴を掘り、極楽往生を請い「極楽願往生歌48首」を詠んだ。その後、亡くなり埋葬されたとみられる。埋納物にあったはずの骨壺などはなかった。
 埋納物は、1910年に、土地所有者より帝室博物館(京都国立博物館)に寄贈されている。
◆竹林大明神 
鎮守社竹林大明神」は、井戸の傍にある。小野篁の念持仏が祀られているという。
◆石塔婆 「三界万霊十方至聖」の石塔婆が立つ。ここで野辺送りに先立ち、住持は引導を渡したという。霊魂は迷うことなく浄土に旅立つことができるとされた。
◆文化財 江戸時代の「熊野観心(かんじん)十界図」は、熊野信仰を広めた熊野比丘尼により講釈されてきた。上部に仏の世界と人の世界、人の一生が四季にたとえられ、下部に地獄の様が描かれている。人は赤子から成人になり、老いて死ぬ。三途の川を渡り、地獄へと入る。
 「珍皇寺参詣曼荼羅図」。
◆文学 小野篁については、『文徳実録』に記されている。『今昔物語』には、伝説化して綴られ、「愛宕寺(六道珍皇寺)」を創建したと記されている。右大臣・藤原良相の蘇生の話がある。また、『今昔物語』には、貧しい女が着衣の表地をほどき、親の供養をした話があり、「愛宕寺(六道珍皇寺)」も登場する。
 紫式部(生没年不詳)の『源氏物語』では、桐壺の更衣、第40帖「御法」巻で紫の上は、この付近「おたぎ」で荼毘に付された。また、夕霧は、友人・柏木の執が惑わないように遺愛の笛を「おたぎ」で誦経させた。
 平清盛(1118-1181)は、「おたぎにて煙になしたてまつり」(『平家物語』巻第6)とある。和泉式部(978頃-?)は、1025年、娘・小式部内侍の死去に際して、遺愛の「手箱」を「おたぎ」で誦経させた。
 中世の謡曲『熊野(ゆや)』にも、「愛宕寺(六道珍皇寺)」として登場する。
◆年間行事 特別公開(4月29日-5月8日)、六道詣り・六道さん(8月7日-10日)。 


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*一部の建物内外での撮影禁止。一部許可を得ています。
*参考文献 『大椿山 六道珍皇寺』『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』『平安京散策』『平安の都』『六道の辻 あたりの史跡と伝説と古典文学を訪ねて』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都大事典』『京都「癒しの道」案内』『京都の地名検証 3』 『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『建仁寺』『京都の寺社505を歩く 上』『新版 京のお地蔵さん』『源氏物語を歩く旅』『京都歩きの愉しみ』『京都の隠れた御朱印ブック』


  建仁寺       六波羅蜜寺      西福寺       松原橋               六道の辻(生の六道延命地蔵)       嵯峨薬師寺(薬師寺)       崇道神社      小町寺      大覚寺(大沢池)       愛宕念仏寺      矢田寺             

お岩大明神

六道詣り


六道詣りで披露される「十界之図」、地獄絵図


六道詣り、向回水と高野槙

高野槙と蓮の蕾

【参照】「愛宕念仏寺元地」の碑、旧地の東山区東弓矢町に立っている。
map 六道珍皇寺 〒605-0811 京都市東山区小松町596,大和大路通四条下ル4丁目  075-561-4129  9:00-16:00
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