桓武天皇陵(柏原陵) (京都市伏見区)
Mausoleum of Emperor Kanmu
桓武天皇陵(柏原陵) 桓武天皇陵(柏原陵) 
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桓武天皇陵参道入口


「桓武天皇御陵参道」の石碑


参道




柏原陵入口



柏原陵



「桓武天皇柏原陵」の石標



柏原陵



陵墓近くの森の巨木
 平城京より、長岡京、平安京と2つの遷都を行った、第50代・桓武天皇(かんむてんのう)の陵墓(円丘墳)が伏見山の丘陵地に築かれている。桓武天皇陵(かんむ てんのう りょう)、柏原陵(かしわばら の みささぎ)と呼ばれている。
◆歴史年表 陵墓造営の変遷、詳細は不明。
 平安時代、806年、第50代・桓武天皇が亡くなる。天皇は生前に陵墓を、宇多野(うたの)に望む。当初は葛野郡宇太野を山陵の地に定める。だが、その地の勢力が反対し、西北山、大井、比叡、小野、栗住野などに不審火などが相次ぐ。卜占により、加茂神の祟りがあるとされた。また、当初は陵墓が紀伊郡柏原(かしはら、樫原?)にあり、水害により伏見山松原に移されたともいう。(『紀伊郡誌』)
 807年、現在地に変更される。(『類聚国史』)
 867年、大納言・伴善男が伏見に建立した報恩寺が、陵墓の兆域内にあったという。(『三代実録』)
 927年、陵は「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、丑寅角に二峯一谷を加ふ。守戸五烟」とある。東西11町(1200m)、南北11町、東北に2つの峰、谷があったという。(『延喜式』諸陵寮)
 949年、旱魃の占いでこの地を実検する。(『日本紀略』)
 960年、炎旱により当陵に山陵使を遣わした。(『日本紀略』)
 公卿・儒学者・大江匡房(おおえ の まさふさ、1041-1111)が、稲荷山の南の陵墓を参詣する。(『江家次第』)
 1120年、公卿・中御門(藤原)宗忠が山稜を訪ねた。深草の南より東に入る。(『中右記』)。稲荷山の南、伏見山中にあったという。
 1180年、伏見山松原に陵墓があった。(『山槐記』)
 鎌倉時代まで、陵墓は朝廷の篤い崇敬を受け、荷前使が派遣された。国家重大事に際しては、告陵使が遣されていた。
 1274年、陵墓が盗掘される。諸陵寮の役人による報告では、陵墓は東西1丈3尺(3.9m)、南北1丈6尺(4.8m)を掘り、土を盛り塞ぎ、山陵の高さ10丈(30m)、壇の廻り80余丈(径80m)と広大なものだった。(『仁部記』)。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、陵墓の場所は不明になる。
 南北朝時代、陵墓は伏見山にあり、東辺2町(218m)ほど入る。稲荷の南の野にあるとされた。(『拾芥抄』)
 安土・桃山時代、1594年以降、豊臣秀吉による伏見城築城が始まる。陵墓が破壊されたともいう。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、陵墓は、深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決まる。
 安政年間(1854-1860)、学者・谷森善臣(平種松)が調査し、現在の紀伊郡堀内村字三人屋敷(永井久太郎屋敷跡、伏見区桃山町永井久太郎)を墓陵とした。
 1863年、津久井清影(平塚瓢斎)は、陵墓について『柏原聖蹟考』を記した。
 1867年、谷森は、陵墓について『山陵考』4巻をまとめた。
 近代、1880年、2月、谷森の調査に基づき、旧伏見城の一部、現在の柏原陵が桓武天皇陵に治定された。
◆桓武天皇 奈良時代-平安時代の第50代・桓武天皇(かんむ てんのう、737-806)。名は山部(やまべ)。柏原亭。父は白壁王(のちの第49代・光仁天皇)、母の高野新笠は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔という。皇位継承者ではなかった。764年、従五位下に叙される。766年、従五位上大学頭になる。770年、父の即位により親王宣下、四品。772年、光仁皇后井上内親王が廃后、その子・他戸親王も廃太子され、773年、立太子。781年、3月、即位、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。これらには藤原百川の画策があった。5月、藤原小黒麻呂征夷戦勝の報告を許さなかった。784年、6月、長岡遷都の工事が始まる。11月、平城京より長岡京遷都、785年、9月、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に伴い、早良親王を廃太子に追い、乙訓寺に幽閉させる。10月、親王を淡路に流す途中で親王は亡くなる。11月、安殿親王立太子。793年、葛野に行幸する。新京宮城(平安京)の造営が始まる。794年、10月、新京に再遷都した。11月、山背国を山城国に改め、新京を平安京とした。797年、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じる。800年、7月、神泉苑に行幸した。早良親王に祟道天皇を追尊した。804年、遣唐船発遣、805年、公卿に徳政相論を行わせ、造宮職を廃した。806年、3月、藤原種継暗殺事件連座者を復位させた。その翌日亡くなる。4月、紀伊郡柏原山陵に葬られた。
 百済王氏出自を官人などに重用、坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、蝦夷侵略の兵を送る。最澄や空海を保護し、既存仏教を圧迫した。
 山陵は当初、宇太野(うだの、右京区宇多野)とされたが、柏原山陵(伏見区)に改められた。
◆津久井清影 江戸時代後期の儒者・山陵研究家・津久井清影(つくい きよかげ、1794-1875)。平塚飄斎(ひらつか ひょうさい)。父・節斉に学び所司代に仕う。京都町奉行所与力、旗本。文久年間(1861-1864)、谷森善臣らと諸陵調方を依嘱された。1854年、三条実万(さねつむ)、砂川健次郎らと山陵会を創設、著の『陵墓一隅抄』を徳川斉昭に献呈した。1859年、安政の大獄に連座し、永蟄居になり、3年後に許される。1837年、天保の飢饉で、私財を投じ飢民救済する。著『聖蹟図志』など。頼山陽らとも交流し、詩文なども嗜む。
◆谷森善臣 江戸時代末-近代の国学者・谷森善臣(たにもり よしおみ、1818-1911)。京都生まれ。三条西家侍臣。伴信友(ばん のぶとも)に国学を学ぶ。1862年、山陵奉行・戸田忠至の下で山陵修補御用掛嘱託となる。大和、河内の山陵調べ、修築した。1867年、主著『山陵考』4巻をまとめた。維新後、神祇事務掛、昌平学校に出仕、1869年、大学中博士、1875年、修史館修撰。1906年、正四位に叙せられた。
 1880年、桓武天皇の柏原山陵は谷森の考証を参照して治定された。皇室系譜、南朝史、本語音韻論なども研究した。
◆山陵地 桓武天皇は、平安時代、806年3月17日に亡くなる。天皇は生前に陵墓を、平安京のある葛野郡宇太野(うだの)に望んだ。だが、その地の勢力が反対し、没後2日目の3月19日、西北山、大井、比叡、小野、栗住野などに不審火などが相次ぐ。さらに、21日、月蝕が始まり、22日には太陽の光が弱まる。兵庫では夜に鳴動もあった。23日、再び太陽の光が弱まり、平安京の各所の火災で、都には煙がたちこめ薄暗くなった。(『日本後記』)。
 安殿皇太子は、賀茂神の祟りと案じた。山陵について、神祇官の亀卜(きぼく)が宇太野を不可、陰陽寮の筮占(ぜいせん)は可としていた。このため、4月7日、宇太野を避け、紀伊郡柏原山陵を改めて柏原陵とした。10月に本葬が行われている。
 安土・桃山時代、1594年以降、豊臣秀吉による伏見城の築城に際して、山陵が完全に破壊された。
 江戸時代には、幕府主導により陵墓地の探索が行われ、複数の候補地があった。
 近代、1880年、谷森善臣の調査に基づき、旧伏見城の一部、現在の柏原陵が桓武天皇陵に治定された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『天皇陵を訪ねて』『天皇陵』『京都市の地名』『京都大事典』『桓武天皇と平安京』


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