飯室不動堂 〔比叡山延暦寺〕 (大津市)
Enryaku-ji Temple,Imurofudodo
飯室不動堂 飯室不動堂
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閼伽井、慈覚大師は不動明王の霊感により霊水を発見したという。以来、本尊などに献じる霊水として使われている。
明王水ともいわれ、諸病平癒、健康増進の功徳があるという。千日回峯行の堂入りの際には、深夜に行者が不動明王に供えるための水を汲みに来る。


閼伽井


千手堂(八角堂)、酒井大阿闍梨の発願により1994年に建立された。堂内に観音が祀られている。観音と水掛け観音、一願不動明王像の三像を巡り、8の字を描いてお百度参りする。回峯行の際には、根本中堂を中心にして各寺仏を8の字に拝みながら廻り、無動寺谷の方へ降りたことに因む。 


水掛け観音、1994年建立。


御供所、1988年建立。三千体不動尊が安置されている。


御供所、一願不動尊


御供所、一願不動明王像、開眼法要は1986年、酒井大阿闍梨の発願により、1900日の満行の際に建立した。大阿闍梨等身の像高155㎝。本堂の鎌倉時代作の秘仏・不動明王像を模し、高岡市・堺幸山作。 



御供所、大護摩殿の礎石、直径2m余りの礎石、以前は不動堂本堂の前にあった護摩壇を移した。護摩壇火炉は、仏の口であり、行者が口から発した邪気は一度仏内に入り、浄化され行者の臍に戻る。この身、口、意(心)の三密、人の三業(身、口、心)を繰り返し、仏と行者は一体となる。また、焚かれる護摩木は乳木とも呼ばれ、心の在りどころ乳の間の長さに等しい。密教護摩の起源は、古代インド(前13世紀)の民族宗教バラモン教、また、インドヴェーダ時代の火神アグニを供する祭りに起源があるという。火に供物をくべ、天の神の力により、地上の人々を救済することにある。


一願不動尊の狛犬、酒井大阿闍梨の回峯行の際に、大阿闍梨に付いてきたというラブラドル種のクロ、大廻りにも二回随行し、赤山苦行にも同行した。中国の唐獅子の置物。


コンクリートに残るクロの足跡。


一願不動尊、クロの仔犬のシロ。
  比叡山の東にある飯室不動堂(いむろふどうどう)は、横川六谷の一つで、別所飯室谷の山腹にある。横川谷は、ほかに兜率谷(とそつだに、兜卒谷、都卒谷)、般若谷、香芳谷(かぼうだに)、解脱谷、戒心谷と別所安楽谷からなる。 
 天台宗。本尊は不動明王立像。
◆歴史年表 平安時代、良源(912-985)は愛弟子・尋禅(943-990)のために、飯室谷に妙香房(みょうこうぼう)を建立した。
 985年、良源没後、尋禅は、妙香院と改称し、整備拡充する。
 990年、藤原師輔より荘園を与えられる。第66代・一条天皇の御願寺となる。(「山門堂舎記」)。この際に、不動堂が建立され、尋禅は、良源相伝の不動明王像を本尊として安置した。
 1000年、第66代一条天皇皇后・定子は、媄子内親王出産後に亡くなる。藤原成房は、無常感から飯室に出奔する。籠っていた父・入道中納言義懐が成房を訪ねる。 (『権記』)
 1002年、成房は、飯室で出家した。
 室町時代、初期、尊道親王(1332-1403)が入り、御門跡といわれた。青蓮院門跡が兼務する。(「足利尊氏氏書状」)
 1571年、織田信長の焼き討ちにより焼失し、以後、復興されなかった。
 安土・桃山時代、1590年、松禅院慶俊が、横川恵光坊流の回峯一千日を満行し、飯室回峯が確立された。その後、回峯行は途絶する。 
 江戸時代、1753年、諸堂の整備、慈忍御廟などが修復された。
 近代、1944年、箱崎文応師により、百日回峯が満行された。
 現代、1987年、酒井雄哉師は、回峯一千日を満行した。護摩堂、閼伽屋敷なども整備され、恵光坊流の回峯が復活する。
◆飯室谷 飯室谷は平安時代の天台僧・円仁(794 -864、慈覚大師)が開いたという。一つの伝承がある。
 円仁がこの地で不動明王を刻んでいると、一日に三度の食事を運ぶ給仕が現れた。円仁が彫り終わった時に誰かと訊ねると、飯櫃童子(めしびつどうじ)という。以来、この地を飯室と名付けたという。
 飯櫃童子(はんきどうじ、質月童子)は、弁財天の従者で十六童子(十五童子)のひとり、食物授与の神、本地は栴檀香仏。
◆尋禅(慈忍) 平安時代中期の天台宗の僧・尋禅(じんぜん、943-990、慈忍)。藤原師輔の10男、母は第60代・醍醐天皇皇女雅子内親王。良源の定心坊に入る。師輔没後、多くの荘園が寄進される。974年、天台宗で初めて尋禅が一身阿闍梨となり、981年、権僧正に任じられた。985年、良源のあとを受けて19世・天台座主となる。989年、隠退して飯室に移った。密教の霊力に優れ、修行と不断念仏に専念したという。
◆尊道入道親王 南北朝時代-室町時代の尊道入道親王(1332-1403)。第93代・後伏見天皇の第11皇子。飯室谷の妙香院に住した。
◆慶俊 安土・桃山時代の僧・慶俊(生没年不明)。安土・桃山時代、1590年、飯室谷での唯一の満行者という。その後、飯室回峯は途絶した。松禅院2世。
◆堀覚道 近代の天台宗僧・堀覚道(生没年不詳)。詳細不明。西南の役に政府軍で戦功を上げる。その後、妻子を残し比叡山・横川に上る。飯室と坂本の間に覚道坂を開く。不動堂、長寿院を復する。
◆観順墓
 近代の天台宗僧・観順(?-1914)は、1905年、千日回峯満行、引き続き二千日回峯行に入り、2500日目の行中に亡くなったという。現在、墓があり、行者は通る際に拝む。
◆箱崎文応 近代-現代の天台宗僧・箱崎文応(文應)(1892-1990)。福島・小名浜の農家に生まれた。酒の上で喧嘩になり投獄される。無動寺の中山玄雄に教えられ、比叡山無動寺谷に上る。1930年、比叡山の奥野玄道・小森文諦両師につく。1940年、無動寺千日回峰行を満行。1943年、飯室谷・松禅院の住職・山田恵諦の勧めにより飯室谷・長寿院住職になる。同年、手文を手がかりに飯室回峰を再興した。熊野、大峰山回峰行、木曽御嶽回峰行、1948年、比良山で横穴に籠もり百体の地蔵尊を刻む。富士山などに籠山、穴を掘り住し、草や木の実を食べて修行した。最晩年は失明し、足も不自由になるが滝行を続けた。大僧正。
◆光永澄道 近代-現代の天台宗僧・光永澄道(1935-2005)。山口県の農家に生まれた。姉の法聞寺に養子に出る。少年期は病弱で、その後、得度する。1959年、比叡山に上り、叡南祖賢師により再得度する。1970年、千日回峰を満行した。1975年、十二年籠山満行。延暦寺一山伊崎寺住職、大僧正。
◆酒井雄哉 近代-現代の天台宗僧・酒井雄哉(さかい ゆうさい、1926-2013)。大阪に10人兄弟の長男として生まれた。1944年、予科練に入隊。職を転々とし、新妻の自死後、1966年、比叡山に上がり、40歳で得度する。当初は無動寺谷・弁天堂の輪番・小林隆彰師、その後、小寺文頴師に師事、雲仙院に入る。1967年、叡山学院本科、1970年、叡山学院研究科に進む。1971年三年の籠山に入る。1972年、無動寺で百日回峰行、90日の常行三昧を行う。1973年、近代以降死者が出たため途絶していた「常行三昧」の行を達成した。千日回峯行に入る。1975年、飯室谷・長寿院に移る。1980年、満行した。さらに半年後、2度目の回峯行に挑み、1987年、最高齢で達成した。2度の回峯行を達成した者は、回峯行1000年の歴史の中でわずかに3人のみという。1974年、無動寺谷・宝珠院の住職になる。飯室谷不動堂に住し亡くなる。天台宗大阿闍梨、権大僧正。
◆本尊 不動堂本尊の不動明王立像(重文)は、鎌倉時代作、寄木造。
◆回峯行 天台行門、比叡山千日回峯行は北嶺修験ともいわれる。平安時代の僧・相応(831-918)を祖としている。また、慈覚大師(円仁、794-864)の比叡山巡礼ももとになっている。常行三昧であり、回峯行者は不動明王と一体となるための修行とされ、行者が生身不動明王の姿を表しているとされる。
 平安時代、839年、天台3代座主・円仁が遣唐使として唐に渡り、山西省五台山で修行中に、現地で行われていた五台山五峰を巡拝する行に起因するという。帰国後、円仁は弟子の相応に伝授した。さらに、「山川草木悉有仏性」(山川草木<さんせんそうもく>、悉<ことごと>く仏性<ぶっしょう>有り)の天台教義と、日本古来の山岳信仰も加わり、回峯巡拝修行法が形成された。
 三流あり、本流の無動寺総本坊・法曼院の玉泉坊流、江戸時代、1864年以来途絶した西塔の正教坊流(石泉坊流)、そして飯室谷の恵光坊流がある。
 横川の恵光坊流飯室回峯は、安土・桃山時代、1590年、松禅院慶俊が横川恵光坊流の回峯一千日を満行したことにより飯室回峯が確立された。その後、途絶する。1943年、箱崎文応師が古い手文をもとに飯室回峯の百日回峯を満行した。1980年、酒井雄哉師は無動寺谷を出峯した千日回峯を満行、1987年、今度は飯室より出峯し二千日回峯を満行した。以後、護摩堂、閼伽屋敷なども整備され、恵光坊流の回峯が復活した。
 恵光坊流飯室回峯の通常の比叡山山上山下の40kmの道程は、飯室不動堂を発し、慈忍大師廟、帝釈寺、西教寺、生源寺、里坊(滋賀院、真乗院、妙徳院、霊山院)、日吉大社、八王子山、悲田谷、東塔・根本中堂、本源寺、大講堂、戒壇院、西尊院、無動寺・明王堂、智証大師廟、阿弥陀堂、山王院、浄土院、担い堂、釈迦堂、峯道、玉体杉、横川中堂、元三大師御廟、四季講堂、恵心廟を経て飯室谷に戻る。総距離は40km、この間に260か所(255箇所とも)の礼拝所が決められている。
 現在の千日回峯行では、「12年籠山」「回峯一千日」「堂入り」の全てを満行する。
 最澄の定めた12年籠山制度は、菩薩僧を養成するためであり、初めの6年は聞慧(学問)、後の6年は思修(修行)を行う。この間、定められた浄域、結界から外に出ることはゆるされない。新聞なども読むことはできず、比叡山で宗祖に仕える行を続ける。 
 飯室回峯の出峯は、二つの滝で身を清め、不動堂での1時間の勤行の後、午前1時半に発ち、帰るのは午前9時半という。「行不退」「捨身苦行」といわれ、いかなる理由でも休むことはできない。経本、手文(新行さんの時)、杖、ローソクを携帯する。装束は、白い麻生地の浄衣(装束衣)に切袴という死装束で、手甲脚絆、素足に4本の紐があり蓮華台(うてな)を表す草鞋。右手に不動の利剣を象る檜扇、左手に羂索を表す念珠を持つ。死出紐と短刀(降魔の剣)を携え、中途で行を断念した場合には、比叡山外での自害のために用いるためという。当初は蓮葉を表す笠(檜笠)は付けず、未敷(みふ)蓮華という巻いた笠を持参する。400日目より笠を頭に被ることができる。照明には小田原提灯を使用する。
 回峯一千日の1年目(百日回峯行)から3年目は、比叡山中の40kmの道程を、各所を巡拝しながら連続100日間行う。無動寺谷の回峯行より10km長い。4年目と5年目は連続200日間、6年目は京都市内の赤山禅院までの往復が加わり、一日約60kmの行程を連続100日行う。7年目は前半100日は京都市内各寺社を巡拝往復する一日84kmの「京都大廻り」、後半100日を山中約30kmを廻る。7年間で1000日の回峯により満行となり、総計距離は約4万km、地球を一周するに等しい。700日までの行は、己自身のための「自利行」とされている。
 800日以降は、生きた不動明王として加持を行い、衆生を救済する「利他行」とされている。
 堂入りは、生きたまま出堂できるかわかららないため、親族、一山の僧と別れの儀式「生き葬式(斎食儀)」をし、不動堂に9日間籠る。一切の食事、水一滴すらも絶つ。これは、眠らず横臥せずの「断食断水不眠不臥」と呼ばれている。内陣で一日に3回の法華経の読経、外陣籠もりで禅定の姿勢を通し、不動明王の陀羅尼を10万回唱え、不動明王と一体になる。5日目の午後に、脇息が使える。午前2時の閼伽井への取水は、お供えの水を自ら汲みに行く。
 堂入りを満じて出堂すると「当行満」となり、衆生に不動明王仏の功徳を伝えることが出来る「阿闍梨」(サンスクリット語のアジャアリア、高僧、師匠の意)の称号を受ける。念珠を人々の頭や肩に触れ、真言を唱えて慈悲の行いをする「お加持」を行うことができる。
 千日回峯を満行した行者は、満行後2、3年以内に自ら発願し、「10万枚大護摩供」を行う。前行として、100日間、米、麦、粟、豆、稗の五穀と塩、果物、海草類が禁じられる「五穀断ち」を行う。大護摩供では、7日間の断食・断水で10万枚の護摩を焚く。護摩の炎熱により火あぶり地獄といわれている。
 葛川夏安居(かつらがわげあんご)(7月16日-20日)は、回峯行の始祖相応の行の跡を偲ぶ。
 千日回峯行を終えた阿闍梨は、京都御所への土足参内(かつては草履履き、現在は白足袋)が許され、御簾越しに玉体加持を行う。
常行三昧 90日間堂に籠もり、念仏を唱え、阿弥陀仏を廻る。一日20時間以上歩き続ける行。座臥することなく、1m四方の縄床で2時間の仮眠のみが許される。
◆慈忍和尚霊廟 慈忍和尚霊廟は、杉の巨木立つ、飯室谷の鎮守の森にある。伝承がある。森に、一眼一足法師、大きな一つ目と一本足の慈忍の幽霊が出るという。幽霊は鉦を打ち金縛りにさせるというので、若い僧はこれを畏れ修行に励んだという。
 比叡山の三大魔所(ほかに東塔東谷・天梯権現社<てんだいごんげんしゃ、天梯権現祠>、横川・元三大師<良源>御廟)のひとつとされている。また、東塔・狩籠丘(かりごめのおか)も加え四魔所ともいう。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『千日回峰行』『回峰行のこころ わが道心』『北嶺のひと 比叡山・千回峰行者 内海俊照』『二千日回峰行 大阿闍梨酒井雄哉の世界』『阿闍梨誕生』『比叡山延暦寺一二〇〇年』『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』『劇画 比叡山千日回峰』 


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護摩堂・拝殿、1992年に拝殿が増設された 

護摩堂、1983年建立。

鐘楼堂

不動堂

不動堂

不動堂の裏、酒井大阿闍梨が2000日に渡る回峯行で履いたという草履が床下に吊り下げられている。回峯行により、草履は一日ですり減るという。これらの草履は、「坂本の山田のばあちゃん」が作っていたという。

仏足跡

赤山明神

長寿院、不動堂の輪番寺、酒井大阿闍梨の居間、執務室、応接室などがある。 

長寿院

不動の滝、箱崎文應が行を行っていたという滝。

酒井大阿闍梨の師・箱崎文應大和尚の詩文碑「天日不老 語萬象 過去 道心老」。

箱崎文應大和尚の碑、比良修験道の根本道場を開き、比良八講の再興を果たした。

箱崎文應の辞世碑文「連れて来て また連れて行く 御仏の 行方は易き 法の道かな」

飯室弁天堂、厨子内に飯櫃童子、弁財天、宇賀神が祀られている。

回向三昧堂、18年改築 54年築三昧堂拝殿阿弥陀如来像、大日如来、厨子内に陶器製の不動明王像を祀る。

回向三昧堂、253世座主・山田恵諦筆。
 現代の天台宗の僧・山田恵諦(1895- 1994)は兵庫県に生れた。10才で得度、14才で比叡山に入り、天台宗教学部長、天台宗勧学院院長、延暦寺本坊滋賀院門跡となる。1974年、第253世天台座主に就任以後20年務めた。日本宗教代表者会議名誉議長、全日本仏教会会長などを歴任。1987年、比叡山開創1200年を記念して比叡山宗教サミットを主催し、世界の七大宗教の指導者が比叡山に集い、世界平和を祈願した。

加行(けぎょう)の滝(弁天滝)、酒井大阿闍梨は毎朝4時に起床し、約1時間、滝に打たれる。その後、新水を弁天堂、三昧堂、不動本堂、長寿院仏間に供え勤行する。滝は、大阿闍梨が自ら石垣を積んで造ったという。大阿闍梨が得度した際に自ら刻んだ弁財天像が祀られている。 

一行三昧院大行満先達・大僧正文應大和尚位 



玉広弁才天

地蔵堂、十数年前に地蔵堂が建てられた 

地蔵堂の地蔵、鎌倉時代作の擁護地蔵は行者を護る地蔵といわれる。かつては奈良坂の分かれ道に祀られていたという。明治の初めに、掘覚道師が覚道坂を開き、不動堂に遷された。飯室回峯手文にも記されているという。以前は、現在地の下の小川の畔に祀られていた。酒井大阿闍梨が飯室回峯の際には、まずこの地蔵に参り、慈忍廟に詣でてから出発していた。行の帰りもまた、地蔵に参ってから、廟へ向かっていたという。
 

大杉大明神、樹齢500年以上という大杉の切株に祀られている。逸話が残されている。 1962年、1963年頃、大杉が枯死して倒木の危険があり、切倒すことになった。だが、飯飯谷は魔所として畏れており、人々は尻込みした。坂本のある材木業者が伐ることを名乗り出る。だが、切倒した一週間後に材木の下敷きになり亡くなったという。その後、当時の住持・箱崎文應師は、切株に線香をあげて慰霊した。1977年頃、酒井大阿闍梨により祠が建てられ祀られた。

稲荷明神

稲荷明神

日吉権現十禅師

日吉権現十禅師

飯櫃童子霊石

酒井雄哉大阿闍梨像

静寂の坂、

境内高台からの琵琶湖の景色

魔王権現堂、天狗の姿に化身した毘沙門天が祀られている。かつて、慈忍廟の鎮守の森が台風、枯死などで樹木が被害を受け荒廃していた際に、箱崎文應大和尚が祠を建て、太鼓とともに祀ったことに始まる。2004年に新築された。魔王権現祭(5月23日)。

魔王堂

納経塔



松禅院


松禅院

松禅院、行者堂

松禅院

慈忍和尚霊廟、横川飯室谷の鎮守の森には天狗が大杉の梢の上に棲むという。比叡山の三大魔所(ほかに、元三大師(良源)御廟(みみょう)
東塔東谷・天梯権現社)のひとつとされ、草木が大切に保存されてきた。

慈忍和尚霊廟、廟の脇に栢坂が、横川・恵心僧都廟まで通じている。

慈忍和尚霊廟

「浄刹結界跡」

「横川本坂」への道標

「横川 元三大師堂道」への道標、西教寺から不動堂までを奈良坂、不動堂から横川、覚超僧都廟を経て、元三大師堂までを中尾坂といい、約5.1km、2時間半の行程。

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map 延暦寺・飯室不動堂 〒520-0116 大津市坂本本町飯室谷  0775-79-2004
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