安楽律院跡(比叡山延暦寺・横川飯室谷別所) (大津市)
The ruins of Anrakuritsu-in Temple

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山門


玄門智勇筆の「秘蔵窟」の扁額








石段の参道



現在の本堂






堂内に安置されている坐像
 安楽谷(大津市坂本)にある安楽律院(あんらくりついん)は、横川飯室谷(よかわ いむろだに)の別所になる。比叡山横川元三大師堂の東の麓に位置している。 
 江戸時代中期、天台宗の教学刷新を目指した四分戒律兼学(4つの小乗律戒法)の寺として隆盛を極めた。その後、廃寺になり、いまは山門、小堂などがわずかに残る。 
◆歴史年表 平安時代、945年、「天台安楽院」と記されている。(『日本紀略』)。ただ、当院ではないとみられている。
 985年、藤原師輔一門の僧、叡(睿)桓、範好、忠正、延久、惟慶ら5僧により念仏道場として建立された。(「高山寺文書」中、996年の「僧範好等連署起請文」)
 986年、恵心僧都(942-1017、源信)が念仏結縁の行法を行う。恵心僧都も隠棲していたともいう。念仏会の縁起草案は慶慈保胤(寂心)によるという。
 996年、叡(睿)桓、範好、忠正、延久、惟慶ら5僧は「首榜厳院安楽谷起請文」を撰し、当院八か条の起請が制定された。
 室町時代、1571年以前、阿弥陀堂に阿弥陀如来を安置し、鐘楼、菩提樹、源信建立の二十五菩薩の石仏が描かれていた。(『比叡山三塔図屏風』、三千院蔵)
 江戸時代、1693年、輪王門跡・公弁法親王は、「大戒旧跡再興」の令旨を発し、安楽院を四分律兼学の律院とした。安楽律という厳格な戒律を唱え、妙立慈山の弟子・霊空光謙が住した。師・妙立慈山を中興の祖とした。
 1697年、幕府により寺領が寄進されている。
 1698年、妙立の墓を北白川より当院に遷した。
 1699年、霊空光謙が戒律復興を唱え、「開山堂侍真条例」を定めた。以後、比叡山御廟浄土院の12年籠山制が確立する。
 1706年、玄門智幽が引き継ぐ。正殿が完成し、公弁法親王より「弘律場」の書を贈られた。
 1723年、東叡山浄名院を改め律院とした。
 1729年、日光山に興雲律院が建立される。
 1739年、輪王門跡・公遵法親王は、一紀12年の籠堂を終えた比丘は、国宝(山上にとどまり子弟教育をする菩薩僧)以外、当院での四分戒律を兼学することを命じた。
 同年、霊空が没し、弟子・智幽が継いでいる。
 1758年、安楽寺騒動が起きる。輪王門跡・公啓法親王により、兼学律が停められ、安楽院、末寺は大乗寺に改められている。安楽院住持には、安楽寺派を批判していた円耳が就いた。安楽寺派は、寺を去り、園城寺の華光院、妙蔵院などに移った。また、泰巌ら7人の僧は、江戸幕府に訴えた。
 1747年、公啓法親王が亡くなる。その後、公遵法親王が輪王子門主に還補することになった。
 1765年、泰巌ら安楽寺派7人の僧が、脱衣追放の刑に処せられている。
 1782年、幕府により今度は円耳が追放される。兼学律復帰となり、安楽寺派が復活した。
 以後、幕府は兼学律に反することを禁じたが、安楽寺も律受学を強要することはなかった。寺勢は次第に衰え、一律院に留まった。
 現代、1949年、放火により釈迦三尊像を安置していた本堂などを焼失した。
 現在、廃寺になっている。
◆安楽律 安楽律院の安楽律は、江戸時代の停滞した比叡山に、最澄の12年籠山の制を復活させた。籠山後も、奈良仏教の小乗戒律を守らせるものだった。厳格な戒律により教学刷新した。だが、過度な小乗戒は、批判を浴び、やがて衰微、廃絶する。
 これを契機として比叡山の12年籠山制度が復し、東塔・浄土院の籠山僧・待真(じしん)の制度が始まった。
◆叡桓 平安時代の僧・叡桓(睿桓、えいたん)。母も往生者で釈妙といった。藤原師輔一門の僧、985年、叡桓ら5僧が安楽院を開く。安楽律院の住侶、往生者だった。飯室上人、安楽上人と呼ばれた。
◆妙立慈山 江戸時代の僧・妙立慈山(1536-1690)。美作国に生まれた。17歳で山城国・妙心寺派、花山寺の雷峯に師事、出家した。遊行の後、1664年、比叡山、泉涌寺、槇尾山西明寺の智本律師を経て、坂本に戻り、1635年、自誓受戒して比丘になる。梶井宮盛胤法親王の帰依を得た。1678年、比叡山より、大乗信者を惑わすとして追放される。園城寺、山城、摂津に移り、1680年、梶井宮の請により、小野に移った。東山・有門庵で没した。
 天台僧の頽廃を糺すために、教学刷新を訴え、小乗戒の戒律に律して四分律の戒を受具し、戒律兼学することを唱えた。
◆霊空光謙 江戸時代の僧・霊空光謙(1652-1739)。筑前に生まれた。1665年、14歳で福岡・松源院の豪光により出家、光瞬と称し、その後光謙に改めた。1668年、比叡山の正覚院、観泉坊などに住した。1634年、西塔・星光院に移る。1678年より、妙立の門に入る。1682年、城西泉谷に移った。1706年、弟子・玄門に安楽寺を譲り、伊勢、摂津、播磨などを教化した。
 厳しい戒律主義による僧風の刷新を掲げ、趙宗四明の天台学教学を取り入れた。
◆玄門智幽 江戸時代の僧・玄門智幽(1668-1752)。伊勢に生まれた。15歳で比叡山西塔・喜見院に入り、1684年、妙立、その後霊空に師事した。1706年、安楽院院主となる。東叡山浄妙院、日光山興雲院にも住した。1714年、伝心院に移り、そこで没した。
◆円耳 安土・桃山時代-江戸時代の僧・円耳真流(1711-?)。伊勢に生まれた。比叡山横川・禅定院の智涛に師事した。1729年、禅定院の住持となる。戒壇院に大戒を受ける。一紀籠山後も四分戒律を兼学せず、安楽寺派を批判をした。曼殊院門跡公啓法親王に乞い、兼学律が停止されると、1758年、安楽院住持、浄土院別当となる。だが、1782年、安楽寺派の復活により追放された。以後、南禅寺の旧庵に移った。
 小乗律に偏した兼学律は最澄の主旨に背くとし、その廃止、大乗律への復帰を主張した。
◆仏像 かつて本堂に恵心僧都(源信、942-1017)作という阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を安置していた。1949年に焼失している。
 千手観音像(重文)を安置する。
◆文化財 鎌倉時代、13世紀の絹本著色「阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図」(重文)(125.4×63.5㎝)には、阿弥陀仏、15体の菩薩が描かれている。阿弥陀仏らを乗せた雲は、左上よりS字に弧を描いて下り、左下の往生者を迎えようとしている。阿弥陀仏は右足を下げた半跏をとる。
◆墓 北奥に叡桓、妙立、霊空、玄門の墓がある。
 『今昔物語』に登場する恒舜の墓があるという。
 定家峰に、比叡山を愛しこの地に隠遁したという鎌倉時代の公家・歌人の藤原定家(1162-1241)の爪墓がある。近くにその歌碑が立つ。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献、『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』『週刊 日本の美をめぐる 45 平等院と極楽往生』


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山の中腹に石垣が組まれ、境内は広い。往時には多くの伽藍が建てられていたのだろう。

参道、杉林の中に立派な石段が残されている。

参道

藤原定家の歌碑(京極黄門定家碑)、「ふむだにも縁なるてふ此山の土となる身はたのもしきかな」と側面に刻まれている。近代、1889年に建立。

定家が愛したという定家峰。

おそらく藤原定家の爪塚、定家が愛したという地、定家峰の裾にある。

墓石、詳細不明。

境内北にある墓地

妙立大和尚塔

霊空大和尚塔

玄門大和尚塔

叡桓大禅師塔

宝篋印塔

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安楽律院 〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町
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