為因寺(為因庵) (京都市右京区) 
Iin-ji Temple
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本堂


本堂、「為因寺」の扁額


宝筐印塔(重文)、日本では最も古い形という。高山寺がそれに次いで古い。三段の基礎、塔身が長大、笠石の隅飾が大きい。最上部に相輪が立っている。


笠四隅の突起(隅飾突起)は別石がのり、長大で、内側の孤線が一孤、また外側の線が直立(直線状)している。


消えかけているが正面に「阿難塔」と刻まれている。鎌倉時代、「文永二年(1265)」の銘もある。
 周山街道沿いの梅ヶ畑の高台に小寺、為因寺(いいんじ)はある。為因庵(いいんあん)とも呼ばれた。近世まで高山寺境内にあり、廃寺になった善妙寺(ぜんみょうじ)(旧善妙寺村)の寺跡を継いでいる。山号は、十方山という。
 浄土宗知恩院派の末寺、本尊は阿弥陀如来。 
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 鎌倉時代、1221年、第82代・後鳥羽上皇による鎌倉幕府倒幕の承久の乱で、刑死した中御門宗行の妻(戒光)が、夫の弔いのために建立したという。西園寺公経が援助し、本尊・釈迦如来、阿難、善妙神を安置する。当初は華厳宗だった。寺には、尼僧禅恵(藤原光親の妻、開基ともいう)を初め、戦で未亡人になった上皇方の身寄りのない多くの女性が集まる。高山寺の明恵が朝廷方の妻妾救済のために建立した比丘尼(びくに)寺ともいう。
 1223年、高山寺別院として華厳宗、尼寺の善妙寺(善妙尼寺)が建立される。禅恵を開基としたともいう。女人成仏、女人救済の善妙神像が祀られた。(『高山寺縁起』『雍州府志』) 
 1230年、境界は東は東峰、西は砥取山峰尾筋、南は大覚寺堺横路、北は大道内にあったという。(「太政官牒」・「高山寺文書」)
 その後、早くに廃寺になる。
 安土・桃山時代、1577年、1579年とも、実念により、浄土宗の為因寺が再興される。
 近代、1868年、阿難塔は神仏分離令後の廃仏毀釈後により、破壊を恐れ善妙寺境内(高雄小学校)に埋められていたという。
 現代、1956年、小学校の建設工事に伴い、土中より阿難塔が発見され当寺に移されたという。
◆戒光 鎌倉時代初期の尼僧・戒光(かいこう、生没年不詳)。公家・中御門宗行の後室。1221年、承久の乱で夫が公家方首謀者のひとりとして駿河国で刑死した。栂尾高山寺の明恵上人のもとで出家した。1223年、善妙寺を建立する。
 寺には明達ら少なくとも9人の尼がおり、いずれも夫や子が承久の乱で京方に加担し、身寄りのない女性だった。戒光は尼僧の指導的存在になる。書写した『華厳経』の一部が『尼経』と呼ばれ高山寺に伝わる。
◆明達 鎌倉時代初期の尼僧・明達(?-1232)。武将・佐々木広綱の妾。1221年、承久の乱で夫が殺され、捕えられた14歳の子・勢多伽丸の免罪を求め六波羅に嘆願するが子は斬首された。夫と子も失い、桂川に身投げしたものの助けられる。高山寺の明恵により剃髪し、善妙寺に入る。1232年、師・明恵没後、清滝川に入水し果てたという。
◆善妙 唐の美貌の女性善妙と美男の留学僧・義湘についての悲恋伝承がある。
 善妙は、港町に住む長者の娘だったという。ある時、托鉢に訪れた新羅の僧・義湘(ぎしょう、625-702)を見初める。華厳宗を開いた義湘は、自らは僧の身であり、それに応えることはできないとして、仏法を支えるようにと諭した。
 義湘が帰国の途に就くとき、善妙が港へ行くとすでに船は沖に出航していた。善妙は、義湘のために私財を投じ、取り揃えた仏具の箱を船に投げ入れた。自らは海に身を投げ、龍身となって義湘の航海を守護したという。
 高山寺中興の祖・明恵は、夢中に善妙と遭い自らを義湘に喩えた。承久の乱の犠牲になった公家の夫人たちを寺にかくまい、仏法を支え華厳擁護者になった善妙を説いた。
◆阿難塔 為因寺境内の宝筐印塔(ほうきょういんとう)である「阿難塔」(重文)は、善妙寺の遺構といわれている。塔は、鎌倉時代、1265年に造られた。阿難は、釈迦の十大弟子の一人で、阿難が釈迦仏を説得し、初めて女人(釈迦の姨母・大愛通)の出家を認めさせたという。この逸話に因み、善妙寺の尼僧たちが供養して塔を立てたという。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈後により、破壊を恐れ善妙寺境内(高雄小学校)に埋められていたという。1956年の建設工事に伴い、土中より発見され当寺に移されたという。
 基壇は三段あり、いまは下部を失う。相輪も一部が残る。笠四隅の突起(隅飾)が一孤、別石で長大、外側の線が直立する。高山寺の宝筐印塔とともに、日本で最も古い様式といわれている。花崗岩製、高さ2.1m。 
◆宝篋印塔 宝篋印塔は、下から基部、塔身(月輪)、笠、相輪(露盤、伏鉢、九輪)などからなる。相輪以外は方形になる。笠の四隅に特徴的な角状で内に円を描く突起(隅飾突起、すみかざりとっき)が見られる。
 宝篋印塔は、インドのアショカ王(?-前232?)が建てた八万四千の塔(銅・銀・鉄製の方形小塔)に倣い、中国の呉越王・銭弘俶(948-978)が金銅製の塔を造り、内部に一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(宝篋印陀羅尼経)という呪文を納めた。また、無病息災、安穏長寿を祈念し諸国に配ったのが始まりという。日本には中国から帰国した留学僧により伝えられた。鎌倉時代から使われたともいう。塔の中に宝篋印陀羅尼経、法華経、舎利を納めたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『明恵上人』『京の石造美術めぐり』『京都大事典』『昭和京都名所図会 4 洛西』 


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