粟田神社 (京都市東山区)
Awata-jinja Shrine
粟田神社 粟田神社
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参道にある「粟田焼発祥之地」の碑








旧社号の「感神院新宮(かんじんいんしんぐう)」の扁額。


参道





御神馬(ごしんめ) 銅馬、1911年奉納。


拝殿





本殿



本殿



本殿



拝所、幣殿、本殿






 粟田神社(あわた じんじゃ)は、華頂山の北西の山腹にある。京都の東の出入口である粟田口にあり、参道は東山道・東海道に面している。古くより、旅人の旅立ち守護、道中安全を祈願する社として信仰を集めていた。 
 かつて、「感神院新宮(かんじんいんしんぐう)」、「粟田天王宮(社)」、「粟田八大王子社」などともいわれた。感神院祇園社(八坂神社)、祇園祭との関わりも深い。
 祭神は、中央に建速素盞嗚尊(たけはやすさのおのみこと、牛頭天王<ごずてんのう>)、大己貴命(おおなむちのみこと)。左座に八大王子命(はちだいおうじのみこと)、八嶋士奴美神(やしましぬみのかみ/やしまじぬみのかみ)・五十猛神(いたけるのかみ)・大屋彦神(おおやひこのかみ)・大屋媛神(おおやつひめのかみ)・抓津媛神(つのつひめのかみ)・須勢理媛神(すせりびめのかみ)・大歳神(おおとしのかみ)・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)。右座に、奇稲田比賣命(くしいなだひめのみこと)、神大市比賣命(かむおおいちひめのみこと)、佐須良比賣命(さすらひめのみこと)。右座外殿に竹生嶋社・猿田彦社・度会社・天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・加茂社・日吉社・和歌三神・手力雄社(たぢからおのやしろ)・崇徳天皇が合祀されている。
 京都十六社朱印めぐりの一つ。朝日天満宮は菅原道真を祀り、京洛二十五社の一つ。
 御霊、旅立ち守護・旅行守護、病気平癒、厄除、医薬、安産、縁結び、夫婦和合、経営守護などの信仰がある。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、876年、第56代・清和天皇は兵災、疫病に対して勅願を発し、出羽守・藤原興世は、勅使として感神院祇園社(八坂神社)で祈願を行った。その際に、夢枕に立った大己貴神に従い、牛頭天王(素戔鳴尊)に縁あるこの地に社を建て、神霊を祀ったという。
 永久年間(1113-1118)、天台座主・東陽坊忠尋大僧正が再建したともいう。(社伝)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失する。
 1500年、幕命により10代将軍・足利義尹(義稙)の産土神として、吉田神道・吉田兼倶に命じ、感神院祇園社から新たに勧請した。
 1567年、粟田祭の風流灯呂(灯籠)のことが記されている。(『言継卿記』)
 1579年、再建される。
 江戸時代、1624年、天王祭で、岡崎天王社(岡崎神社)との間で喧嘩が生じ、以後、岡崎天王祭は、祭日を一日ずらした。(『華頂要略』)
 1805年、焼失した。
 1816年、再建される。
 1823年、修復される。
 1845年、重修になる。
 1861年、第120代・仁孝天皇皇女・和宮は「公武一和」のための降嫁の行列の際に、祈願のため当社に立ち寄った。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、粟田神社の本地仏・薬師如来が撤去となり、青蓮院で祀られた。粟田神社と改称された。
 現代、1995年、粟田祭「れんけん」の祭事が復活した。
 2000年、神輿渡御が復活し、神輿は青蓮院の四脚門を通るようになる。
 2009年、拝殿屋根が葺き替えられた。
◆藤原興世 平安時代の官人・藤原興世(生没年不詳)。従五位上、出羽守。旱魃飢饉に伴う、878年、元慶の乱で、夷俘(蝦夷)が蜂起し秋田城を急襲、出羽守の興世も逃れた。
◆忠尋 平安時代後期の天台宗の僧・忠尋(ちゅうじん、1065‐1138)。東陽房。佐渡国に生まれた。源忠季の子。曼殊院に住し、比叡山北谷東陽院に移る。覚尋により出家、西塔に住み、顕密を長豪、良祐に学んだ。永久年間(1113-1118)、感神院新宮(粟田神社)を再興する。1115年、里坊の東山・十楽院を建立した。1118年、権律師、1124年、権少僧都、1130年、権大僧都・天台座主、6ヵ条起請を定めた。鞍馬寺を東寺末より延暦寺西塔末寺とした。1131年以降、最勝寺、尊勝寺の結縁灌頂大阿闍梨を務める。1132年、権僧正、1137年、大僧正。大谷座主とも称された。門流は東陽院流と称された。
◆吉田兼倶 室町時代後期の神道学者・吉田兼倶(よしだ かねとも、1435-1511)。吉田神社の卜部兼名の子。吉田神道の大成者。1467年、侍従兼権大副となる。1470年、「宗源神道誓紙」を定めた。1473年、神祇斎場所の勅許を得、1484年、神楽岡に斎場所大元宮を創建、自邸内斎場所を吉田社境内に遷した。全国諸社は当斎場所より遷ったとし、「神祇管領長上」を自称、神社の組織化をはかる。大元宮北方に葬られ神竜大明神と称された。
◆湛海 江戸時代初期の僧・湛海(たんかい、1629‐1716)。宝山律師。伊勢国に生まれ。18歳で出家、諸国を巡り、大和生駒山に入山、般若窟で苦行を続けた。粟田神社初代別当。1678年、生駒山中腹に宝山寺を中興し、歓喜天を祀った。不動像などの彫刻で名高い。
◆神坂雪佳 近現代の日本の画家・神坂雪佳(かみさか せっか、1866-1942)。吉隆。京都栗田口生まれ。京都御所警護武士・神坂吉重の長男、弟に蒔絵師・神坂祐吉。1881年、16歳で円山四条派の日本画家・鈴木瑞彦(ずいげん)に師事、1890年、図案家・岸光景に師事。この頃、琳派の研究を始めた。1901年、イギリスのグラスゴー国際博覧会の視察、渡欧中にアール・ヌーヴォーに接した。京都美術協会に参加、京都市立工芸図案調製所主任。1907年、佳美会(後の佳都美会、佳都美村)設立。1913年、光悦会の発起人になる。光悦、琳派の研究論文を執筆し、染織、陶芸、漆芸、室内装飾、庭園なども手がけた。晩年は嵯峨野に隠棲した。図案集に『百々世草』(1909-1910)。
 1919年、粟田神社神楽殿能舞台の鏡板を奉納した。祭礼の菊鉾、橘鉾の見送りの図案も手がけた。
◆神仏習合 粟田神社は、近代以前までは神仏習合の色合いが濃い。牛頭天王を祭神とし、神院新宮(かんじんいんしんぐう)、粟田天王宮(社)、粟田八大王子社などといわれた。青蓮院の鎮守社ともいう。
 別当を歓喜院(かんきいん)と呼び、坊舎の歓喜院は境内の参道中腹にあり、真言宗高野山・金剛峯寺に属していた。江戸時代、湛海(たんかい、1629‐1716)が中興し、参道脇に不動堂、観音堂、歓喜天堂、聖天堂などが建ち並んでいた。近代に入り、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈によりこれらの堂舎は破却され、神像なども遷された。
◆神像 摂社・出世恵美須神社は、かつて三条蹴上の夷谷に祀られていた。源義経(1159-1189)が奥州下向の際に祈願したという。以来、「出世恵美須」、「門出恵美須」と称された。室町時代、蹴上の山崩れで社が流出する。社殿が止まったところが現在の三条神宮道付近(東山区夷町)になる。当社北西の夷町(恵美子町、蛭子町)には、天台宗の青蓮院に属した金蔵寺があった。その境内に中世(鎌倉時代-室町時代)、蛭子社が祀られ、神像が安置されていた。恵美須社の小祠と神像を寺の境内に遷したものという。神像は、平安時代、最澄(767-822)作とされる恵美須像であり、釣り上げた鯛を抱え、口を開けて笑う。日本最古の寄木造の恵美須神像、坐像(2尺)という。現在は剥落しているが、当初は彩色されていたという。神像は、1868年に金蔵寺の廃寺に伴い、粟田神社摂社・出世恵美須神社に遷され祀られた。1997年に解体修復が施されている。粟田祭では、夷町が夕顔鉾をもって奉仕していた。
 江戸時代、当社参道中腹の別当坊前には聖天堂が建てられていた。摂社・聖天社には、当社の初代別当で天台僧の湛海(たんかい、1629‐1716)が刻んだ「聖天像」が祀られていた。湛海は当社の別当職を務め、後に辞して、1678年に生駒・宝山寺(生駒聖天)を建立している。当社の聖天堂は、近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により破却される。聖天像は、現在、当社本殿内に遷され安置されている。
◆建築 「本殿」は、拝所、幣殿と続、本殿と繋がる。棟札により江戸時代、1823年に建立されたという。
 「拝殿」(京都市有形文化財)は、江戸時代、1703年の再建になる。2009年に檜皮葺に葺き替えられた。
◆文化財 粟田祭で渡御する神輿は、江戸時代、1862年作造による。京御輿と呼ばれるもので、台輪(台座)は1.41m、重量は1.2tあり、京都市内の中でも重量級になる。擬宝珠を載せ、四角の御厨子で、瓔珞も飾られている。
 刀鍛冶・三条小鍛冶作という絵馬「刀剣」が奉納されている。
 近現代の日本の画家・神坂雪佳(かみさか せっか、1866-1942)は、1919年、移築された粟田神社神楽殿能舞台に鏡板(老松図、竹の絵)を奉納している。祭礼の菊鉾、橘鉾の見送りの図案も手がけた。
◆粟田郷 粟田神社は、かつてこの地、山代国愛宕郡下粟田郷を治めていた粟田氏の氏神として創建されたともいう。粟田郷は、粟田口周辺を中心にして、北は北白川、南は七条辺りまでをいう。
 粟田氏は、第5代・孝昭天皇(B.C.475-B.C.393)皇子・天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと、生没年不詳)を祖とするとされ、鉱物を穿ち、粟や瓜を主食としたという。熱田神宮の創建後はその地へ移ったとされる。一族には、飛鳥時代に遣唐使として渡唐、中納言となった粟田朝臣真人(あわた の まひと、?-719)がいる。
◆粟田口 当社は、かつての旧東海道・東山道に面し、「京の七口」の一つ、粟田口にあたっていた。粟田口は、三条大橋、蹴上付近にも置かれた。街道は、三条街道、近江路とも呼ばれた。
 軍事上の要衝地であり、室町時代には関所も置かれた。付近で合戦なども度々行われた。旅人は旅の安全を当社で祈願している。江戸時代末期、1861年、仁孝天皇皇女・和宮は「公武一和」のための降嫁の行列の際にも、祈願に立ち寄っている。
◆刀工粟田口派 鎌倉時代には、粟田口に、宗近三条派の刀工・粟田口派が住んだ。宗近は、名工の誉れ高く、稲荷神社使いの狐と合槌を打ち、名刀「小狐丸」を作ったという伝承が残る。境内には摂社・鍛冶社が祀られている。
 江戸時代前期、粟田焼という陶器の窯場として栄えた。
◆北向稲荷神社 境内の摂社・北向(きたむき)稲荷神社の祭神は雪丸稲荷他三座になる。
 古くより粟田神社境内に祀られていた。白狐の雪丸稲荷は、平安時代末期の名刀匠・三条小鍛冶宗近が、一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打ったという。
 なお、陶芸職・楠部家には、屋敷神の太郎兵衛(たろうべえ)稲荷があり、火防のために祀られた。1951年に粟田神社境内に合祀され、末社・稲荷になった。
◆粟田祭 粟田祭(粟田神社大祭、粟田口祭)は、千年の歴史を持つ。室町時代、祇園祭が齋行されなかった際に、粟田祭が祇園御霊会の代わりとされていた。
 現在の粟田祭(大祭)は、出御祭(おいでまつり)(10月体育の日前々日)、粟田祭・夜渡り神事(れいけん祭)巡行(10月体育の日前日)、粟田祭・神幸祭・還幸祭(10月体育の日)、粟田祭・例大祭(10月15日)による。
 伝承が残る。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、旧暦9月14日の夜、知恩院境内の常在光院(じょうざいこういん)の東、瓜田より光が差して天王社を照らしたという。門主がその地を訪ねると、石の上に瓜の蔓があり、瓜の上に「感神院新宮」(八坂神社、粟田神社の旧社号とも)の牌扁があった。このため、瓜鉾を造らせ、五文字を扁額として掲げたという。(「粟田地誌漫録」)。また、大石の上に瓜が覆っており、御金札が光り輝いていた。金札には「感神院新宮(粟田神社旧社名)」と銘があり、粟田の大神の降臨であるとして、この金札は神社に納められた。石は「瓜生石(うりゅうせき)」と名付けられ、現在も知恩院西の石段下に祀られている。(「金札事件」)。
 以来、粟田祭には、18本(もとは17本)の鉾が出て、東分木町(ひがしぶんきちょう)の阿古陀鉾(あこだぼこ、瓜鉾)は神宝とされた。阿古陀とは瓜のことであり、金冬瓜、紅南瓜とも呼ばれた。鉾の旗には「感神院新宮」の五文字が書かれた。室町時代、1441年、八坂神社より鉾が納められ、後に焼失する。祭礼では、阿古陀鉾と地蔵鉾が「夜渡り神事」という行列を行う。瓜生石の周りを3度巡拝する「れいけん(霊験)」の神事は、江戸時代に途絶し、1995年に復活している。
 「神幸祭」は、祇園祭の山鉾の原型とされている。平安時代、1001年に始まったとされる。旧暦9月9日の夜、一人の神童が祇園社(八坂神社)に現れ、神人(じにん)に「今日より7日後に祇園社の東北の地に瑞祥が現れる。そこに神幸すべし」と告げた。7日後、お告げの通りに光が現れたため神幸が行われた。その瑞光の地が当社とされ、粟田祭の始まりになった。
 神幸祭には、御輿渡御、剣鉾巡行が行われる。剣鉾とは、祭礼の神輿渡御の先導を行うもので、神の渡る道筋を予め祓い清めて悪霊を鎮める。このため、剣鉾を手持ちの「鉾差し」により垂直に差される。その後を、神輿が氏子町内を渡御していく。剣鉾の一時の中断を経て、1997年に「粟田神社剣鉾奉賛会」が結成され、剣鉾が復活した。2000年に41年ぶりに神輿渡御が復活した。
 剣先は真鍮の鋼製で薄く、歩行に伴い前後にしなる。額には「南無天王八大王子」「感神院新宮」「粟田社」、梵字、年号などが記されている。
 剣鉾は重さ40-60kg、長さ7-8mあり、剣差しは腰に差し袋という棹受けを付け、ここで棹を受け、剣先を前後にしならせ、揺れにより下げられた鈴音をたてながら進む。江戸時代には、剣鉾で細い橋を渡るなど「曲持」といわれるものに関心が集まっていた。剣鉾は講中(鉾仲間)、町中(鉾町)で守護されており、現在は18基、44本の剣鉾があり、そのうちの5、6本が祭りに参加している。
 江戸時代中期より前夜には、「十二灯」という造り物の灯籠が出て御輿を先行していた。拝殿を潜るなどの曲持も行われた。大正期末に途絶し、2008年に夜渡り神事に大灯篭の風流灯籠、山車「粟田大燈呂」が復興している。
 神輿は、1959年以来途絶えていた。2000年に復興され、2001年には「粟田神社神輿会」が発足している。神輿は江戸時代、1862年製造であり、台輪(台座)は1.41m、重量は1.2tある。神幸祭では200人以上の舁き手により渡御する。青蓮院の四脚門から入御し、当社宮司が当社の旧本地仏であり、明治期に青蓮院に遷された薬師如来に献幣する。その後、青蓮院門主が加持を授ける。
 「例大祭」には、本宮・八坂神社より幣帛供進のため神職が招かれる。近隣社寺よりの来賓を迎え、本殿で舞楽の奉納などがある。
◆花木 白椿の「名月」がある。紅葉が知られている。◆京都十六社朱印めぐり 京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)は、1976年に始まり当初は14社だった。古社16社を巡拝し、各社より朱印を授かる。すべての神社を参拝すると一年間のあらゆるご利益が得られるという。専用の朱印帳で期間中に全てのご朱印を受けると干支置物が授けられる。
◆年間行事 歳旦祭・元旦祭(1月1日)、出世えびす祭(えびす神像特別公開、先着で甘酒接待)(1月9日-11日)、京都十六社朱印めぐり(1月1日-2月15日)、節分祭・古札焚上神事(2月3日)、北向稲荷神社初午祭(2月初午日)、祈年祭・湯立て神事(2月17日)、大祓式・茅の輪くぐり(6月30日)、納涼ビアガーデン(7月最終土曜日)、鍛冶神社祭(8月第1日曜日)、粟田祭・出御祭(おいでまつり)(10月体育の日前々日)、粟田祭・夜渡り神事(れいけん祭)巡行(瓜鉾、地蔵鉾、十二灯により氏子地域を清める。)(10月体育の日前日)、粟田祭・神幸祭・還幸祭(宝輦が出る。)(10月体育の日)、粟田祭・例大祭(10月15日)、新嘗祭・火焚祭(11月23日)、除夜祭(12月31日)。 
 月次祭粟田祭(粟田神社大祭)(毎月1日、15日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の地名』『京都府の歴史散歩 中』『京都の寺社505を歩く 上』『史跡探訪 京の七口』『京都琳派をめぐる旅』『京の寺 不思議見聞録』『百々世草』『京都 神社と寺院の森』『稲荷信仰と宗教民俗』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』 『京都のご利益めぐり』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』、当社サイト


  粟田口      青蓮院   合槌稲荷明神      金蔵寺跡(東山区)      八坂神社      三条大橋      祇園祭      白川        

絵馬、剣鉾の形、瓜鉾

光格天皇御胞衣の松」の石標

第119代・光格天皇(1771-1840)胞衣の松、現在は枯死しており近くに楓が植えられている。

神楽殿能舞台

神楽殿能舞台、神坂雪佳の鏡板

絵馬堂

絵馬堂

摂社・北向稲荷神社

摂社・北向稲荷神社

摂社・北向稲荷神社、祭神は雪丸稲荷他三座。
 古くより粟田神社境内に祀られていた。雪丸稲荷は平安末期の名刀匠・三条小鍛冶宗近が一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打った稲荷という。

摂社・北向稲荷神社

摂社・北向稲荷神社

摂社・太郎兵衛神社

摂社・太郎兵衛神社

摂社・太郎兵衛神社

摂社・太郎兵衛神社
青蓮院の御門の西に祀られていた土地の守り神を遷した。陶芸家・楠部彌弌(くすべ やいち、1897-1984)が信仰した。

末社・吉兵衛神社

末社・吉兵衛神社

末社・吉兵衛神社

末社・吉兵衛神社
三条神宮道辺りにあった青蓮院の御門の東に祀られていた土地の守り神が遷された。

末社・出世恵美須神社
 かつて三条蹴上の夷谷に祀られていた。源義経(牛若丸)が奥州に旅立つ時、源家再興の祈願をした恵美須神といい、出世恵美須、門出恵美須と呼ばれた。室町時代の蹴上の山崩れにより流出し、現在の三条神宮道付近に止まったという。夷町の金蔵寺に永くあり、1871年に粟田神社摂社として遷された。恵美須の神像は伝教大師の作という。家運隆盛、商売繁盛の信仰がある。

末社・出世恵美須神社

末社・出世恵美須神社

末社・大神宮

末社・大神宮、八幡神、春日神
 大神宮はかつて、青蓮院の坊官・鳥居小路家の旧宅地の鎮護神だった。鳥居小路家先祖・貴族の高階師尚(864-916)は、母・恬子内親王(848?-913、文徳天皇皇女)が第31代・伊勢の斎宮だった時に在原業平との密通により生まれたという。このため、伊勢神宮の怒りに触れ、伊勢参宮に際して、病気、災難により参詣がかなわなかった。そのため、大神宮を邸内に勧請したという。明治期に当社に遷された。

末社・大神宮

末社・大神宮

右より末社・多賀社、朝日天満宮
 多賀社は多賀大社の分霊を祀る、縁結び・長寿の神。朝日天満宮は、菅原道真を祀る学問の神様、京洛二十五社の一つ。

末社・鍛冶神社

末社・鍛冶神社

末社・鍛冶神社

末社・鍛冶神社
祭神に粟田口の平安時代の刀工・三条小鍛冶宗近、鎌倉時代の刀鍛冶・粟田口藤四郎吉光、作金者(かなだくみ)の祖・天目一筒神(あめのまひとつのかみ)を祀る。鍛冶の神。

末社・鍛冶神社

末社・鍛冶神社

末社・鍛冶神社、第122代・明治天皇御製「真心をこめて錬ひしたちこそは乱れぬくにのまもりなりけれ」


境内より北に比叡山、愛宕山、北山が見える。五山の送り火は、船形、左大文字、右大文字の一部が見える。

神幸祭、剣鉾

神幸祭、神輿は青蓮院の四脚門をくぐる。


【参照】瓜生石(知恩院黒門の西、路上中央)。
 粟田神社 〒605-0051 京都市東山区粟田口鍛冶町1  075-551-3154   6:00-17:00
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