山城国分寺跡 (恭仁宮跡) (木津川市)
The ruins of Yamashiro-kokubun-ji Temple,Kunikyu
山城国分寺跡 (恭仁宮跡) 山城国分寺跡 (恭仁宮跡
50音索引  Home 50音索引  Home

「史跡山城国分寺跡」石標


礎石群






礎石








恭仁宮大極殿跡



恭仁宮大極殿跡基壇



「山城国分寺跡 旧恭仁宮跡」石標
 京都府南部、木津川市加茂町の瓶原(みかのはら、甕原、三日原)盆地に、山城国分寺跡(やましろこくぶんじあと)、恭仁宮跡(くにきゅうせき)がある。古代、この地には第45代・聖武天皇の恭仁京(恭迩京、久迩京)が遷され、その後、山城国分寺が建立された。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 飛鳥時代-奈良時代、この地に第43代・元明天皇(661-721)の離宮が営まれた。
 奈良時代、740年、第45代・聖武天皇により、平城京より恭仁京に遷都が行われる。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも呼ばれた。長堂院、周囲を取り巻く回廊などが移築される。
 741年、聖武天皇の発願により、諸国に国分寺を建立する詔が発せられた。
 743年頃、山城国分寺は建立されたとみられている。その場所、規模については不明だが、加茂町河原、山城町上狛付近だったともいう。正式には金光明四天王護国之寺、また大養徳国金光明寺と呼ばれた。開基は行基(668-749)ともいう。
 744年、難波宮に遷都となり、恭仁京は廃都になる。
 746年、山城国分寺は現在地の恭仁京跡に移転したとみられる。恭仁宮大極殿が寺に施入され、金堂として使用された。七重塔、境内鎭守社(旧御霊神社)などが整えられた。(『続日本紀』)
 882年、焼失する。
 昌泰年間?(898-901、昌泰9年ともされるが昌泰は4年までしかない?)、再建されたという。奈良・興福寺の末寺となり、本尊を薬師如来とし、僧坊12宇、鎮守社があったという。(『興福寺官務牒疏』)
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、本尊を阿弥陀如来とし、瓶原の河原村東二町(218.1m)に再興され、浄土宗の僧が守ったという。(『山州名跡志』)
 現代、1957年、「山城国分寺跡」として、国の史跡に指定された。
 1973年、発掘調査により大極殿の遺構が発見される。
 2007年、史跡指定範囲拡大により、「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更された。
 2015年、朝堂院跡南側より新年を祝う儀式「元日朝賀」に用いる旗、幟を立てたとみられる柱穴の跡が発掘された。奈良時代、741年、742年の正月のものと見られ、国内最古とされる。
◆元明天皇 飛鳥時代-奈良時代の女帝、第43代・元明天皇(げんめい てんのう、661-721)。第38代・天智天皇の第4皇女、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。679年頃、草壁皇子の正妃となる。皇子没後、子の珂瑠皇子が第42代・文武天皇に即位した。707年、天皇病没後、初めて皇后を経ずに自ら即位した。708年、和銅に改元、和同開珎を鋳造する。藤原不比等を重用し、701年、制定の大宝律令を整備、運用した。710年、平城京遷都する。712年、古事記が献上され、713年、風土記が編纂される。715年、律令制下の地方行政組織郷里(ごうり)制が実施された。同年、譲位した。
◆聖武天皇 奈良時代の第45代・聖武天皇(しょうむ てんのう、701-756)。第42代・文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。724年、藤原氏の協力により即位する。不比等の娘・光明子を妃、県犬養広刀自を夫人とするが、後継に恵まれなかった。729年、対立した長屋王と子を自殺に追い込む。740年、藤原広嗣の乱後、741年、恭仁京遷都を行う。右大臣後の左大臣の橘諸兄と遷都で対立した。仏教信仰篤く、741年、国分寺建立を詔した。743年、墾田永代私財法により墾田政策を推進する。749年、譲位する。大仏造営を発願し、752年、開眼供養となる。遺愛品は皇太后により献納され、東大寺正倉院宝物となる。
◆恭仁京 奈良時代、740年9月、北九州で起きた左遷に不満を持つ藤原広嗣の乱の後、12月に聖武天皇の勅命により、平城京から遷都となる。天皇は東国行幸の後、平城京に戻らず恭仁京に入る。
 遷都は平城京の藤原不比等に対して、左大臣・橘諸兄が自らの本拠地だった相楽に都を遷し、権力回復を目指す意図があった。また、この地が選ばれたのは、木津川の水運を利用でき、平城京よりも交通の便が良かった。古くから離宮が営まれる風光明媚の地だった、「四禽図に叶い、三山鎮を成す」風水の地でもあった。
 741年、木津・加茂・山城にまたがる地に左京、右京が定められ、「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と称された。平城京からは大極殿(基壇跡は東西53.1m、南北28.2m、建物は東西9間(44.7m)、南北4間(19.8m))、朝堂院(東西125-133.8m、南北323mの長方形)、回廊などの建物が移され、大宮垣、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、南北750m、東西560mの規模があった。南に流れている木津川には大橋が架けられたという。
 742年、天皇は朝賀を受ける。だが、743年、造都は突然に中止になり、天皇は近江紫香楽宮に移る。恭仁京はこの地に、わずか3年しか置かれなかった。744年、難波京に遷都になる。さらに、地震など多発し、不穏なことが相次ぐ。745年に平城京に戻されている。この間、恭仁京、紫香楽宮、難波京、平城京と4つの都間で揺れ動いた。天災、事故が起こり、財政も悪化した。
 2016年、発掘調査により、朝集院の南東、南西、北西角が確認された。これにより、区画一辺は東辺124.8m、西辺125.8m、南辺133.7m、北辺134.6mと判明した。
◆山城国分寺 南北3町(330m)、東西2町半(275m)の広大な寺域を有していた。金堂の東側は国分寺の鎮守社・御霊神社の境内だったとされる。
◆遺跡 恭仁小学校の北に恭仁宮の大極殿跡の基壇が残る。山城国分寺の金堂礎石でもある。大極殿は平城宮より移築され山城国分寺金堂になった。
 小学校の東に、山城国分寺の七重塔跡の礎石も残されている。
◆元日朝賀の柱穴跡 2015年、京都府教育委員会は、恭仁宮跡朝堂院跡南側(大極殿跡より250m南側)で、奈良時代、741年、742年の新年に儀式「元日朝賀」で用いた旗、幟を立てた宝幢(ほうどう)柱穴跡を発掘したと発表した。儀式は、元旦に天皇が大極殿で役人より祝賀を受けたもので、即位式と同等の重要な儀式だった。
 穴は3つ(幅約3m、奥行1-1.5m、深さ0.5-0.8m)あり、楕円形で一直線上に等間隔に空けられ、内部に旗竿柱痕と2本の支柱痕があった。平城京、長岡京遺跡に次いで3例目になり、国内最古例と見られている。
◆鹿背山 鹿背山(かせやま)は、木津川を隔てて現在地の南西にある。布当山(ふたぎやま)、大野山とも呼ばれた。恭仁京は、この山を隔てて右京、左京に分けられていたという。
 歌枕にもなっている。「鹿背の山木立を繁み朝去らず来鳴きとよもすうぐひすの声」(『万葉集』雑歌、田辺福麻呂、一〇五七)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『南山城の古寺』『京都・山城寺院神社大事典』『相楽歴史散歩』『京都の地名検証』『京都の地名検証 3』


  関連・周辺蟹満寺     関連・周辺高麗寺跡    関連・周辺和銅開珎鋳銭所跡(木津川市)       周辺      関連正法寺(和束町)       関連六角井戸・井手頓宮(井手町)        

礎石

礎石

礎石

御堂

一帯の航空写真、中央左やや上に「太極殿跡」、中央右に「塔跡」、説明板より
 山城国分寺跡(恭仁京宮跡) 木津川市加茂町例幣(れいへい)
50音索引  Home   50音索引  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光