向日神社 (向日市) 
Muko-jinja Shrine
向日神社 向日神社
  Home   Home







神額は「正一位向日大明神」と掲げられていた。


参道、直線で200mある。


参道と舞楽殿


舞楽殿






徳川葵紋も見える。


拝殿、本殿




勝山稲荷社


勝山稲荷社、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、商売繁盛の信仰を集める。さらに北に元稲荷社が祀られている。



天満宮社、菅原神、大歳神、屋船神、学業成就の信仰。





五社神社、大己貴神、武雷神、別雷神、磐裂神、事代主神



祖霊社
 向日神社(むこう じんじゃ)は、明神さんとも呼ばれる。旧向日町の産土神として崇敬された。
 境内は、向日丘陵地にある。隣接する勝山公園には、前方後円墳が遺されている。地名の向日(むこう)は当社に由来する。 
 祭神は、向日神(むかひのかみ)、火雷神(ほのいかづちのかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、初代・神武天皇(じんむてんのう)の四神を祀る。旧府社。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「乙訓郡十九座 大五座 小十四座」の「乙訓坐大雷神社」の「火雷神社」、「向神社」に比定されている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 年代不詳、かつて向津日山(向日山)には、山城国乙訓郡向神社(現在の向日神社)、乙訓坐火雷神社(角宮神社)の二社が鎮座した。向神社、火雷神社は、それぞれ「上ノ社(上社)」、「下ノ社(下社)」と呼ばれた。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬篤い神社だった。(『向日社略記』)
 奈良時代、718年、養老年間(717-724)とも、向神社(上ノ社)の社殿を改築し、玉依姫命、神武天皇が合祀されたという。また、同年、火雷神社(下ノ社)は、社殿新築にあたり、玉依姫命と神武天皇を合祀したという。(社伝)
 平安時代、物集女街道の敷かれた際に、遷座されたともいう。
 859年、従五位下の神階を受けた。(『三代実録』)
 927年、『延喜式』神名帳に「向神社」とある。
 1165年、山城国で松尾社と並び「向社 随仰事」とある。(永代文書「神祇官諸社年貢注文」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、境内は地域の一揆蜂起の場となる。
 鎌倉時代、1221年、第82代・後鳥羽上皇が、鎌倉幕府討幕のために挙兵し敗れた承久の変により、下ノ社の社殿は焼失した。そのため下ノ社は、神宝、古文書などを上ノ社に預ける。
 また、1275年、社殿が荒廃し、下ノ社の再興はなされなかった。上ノ社に向日神、火雷神、玉依姫命、神武天皇が併祭されたともいう。下ノ社は上ノ社に合祀され相殿に配祀されたともいう。
 室町時代、1418年、現在の本殿が建てられた。(棟札)
 1422年、本殿が上棟になる。(棟札)
 1480年、境内は、徳政土一揆の蜂起の場になる。(『山科家礼記』)
 1484年、現在地に下ノ社は再興され、井ノ内の産土神として祀られる。その後、上ノ社、下ノ社で神宝をめぐる対立が起こる。
 1497年、乙訓郡の国人を代表国とする西山惣国(1487年結成)の会合が度々行われた。(「東寺百合文書」)
 安土・桃山時代、1585年、羽柴秀吉は朱印状27石を与えた。(「向日神社文書」)
 1592年、豊臣秀吉の文禄の役の際に、京都を出発した兵の最初の休憩地となる。当社で秀吉は秀次に馬印を渡した。
 近代、1883年、ご神体は下ノ社(角宮社)に遷されたという。ただ、火雷神の荒御魂は、向日神社の西端の境内末社・増井神社にいまも祀られており、ご神体は井戸になるという。
 現代、1960年、元稲荷古墳の発掘調査が行われた。
 1970年、元稲荷古墳の発掘調査が行われた。
◆六人部是香 江戸時代の向日神社祠官・六人部是香(むとべ よしか、1798/1806-1864)。山城国生まれ。向日神社の神職(忠篤)の三男。伯父・向日神社祠官・六人部節香の養子になり、職を継いだ。1823年、江戸の平田篤胤門に学び、篤胤の神道思想を受け継ぐ。第121代・孝明天皇に進講し、国学校の創立にも関わる。晩年、京都三本木に神習舎を開く。弟子に、坂本龍馬、副島種臣、中岡慎太郎などを輩出した。国学者、神道家、歌学者。著『産須那社古伝抄』。
◆伝承 祭神にまつわる二つの伝承がある。
 大歳神(おおとしのかみ)の子、御歳神(みとしのかみ)が、峰に登り、向日山と名付けた。神は永く鎮座し、田作りを奨励したという。やがて、御歳神を向日神というようになった。社は、山城国乙訓郡向神社と称されたという。なお、『古事記』上巻には「大年(おおとし)神」が「白日神」とあり、これは「向日神」の誤記ともいう。江戸時代の本居宣長(1730-1801)以来、主張されてきた。また、白日神とは新羅の神の子、志呂志(しろし)神ともいう。現在、灰方(はいがた、西京区)に大歳神社が祀られている。その子神であり、出雲系の神になる。
 火雷神社は、神武天皇が大和より山城国に移った時、この向日山麓に社を建て、火雷大神を祀ったものという。火雷大神と玉依姫命の間に、賀茂別雷神が生まれた。(『山城国風土記』逸文)。ただ、近代、『神名帳』中の乙訓坐火(大)雷神社の元宮とは、現在の角宮神社(すみのみや、長岡京市)と比定され、火雷神社は、中世初頭に向日神社に遷座されたという。
◆長岡京 奈良時代、784年-794年、第50代・桓武天皇の勅命により、山城国乙訓郡に長岡京が遷された。
 2010年、境内東200m地点で、長岡京第一次内裏の遺構の一部が発掘された。かつての境内地は、南北数百mの規模を有していた。建都の際に、境内の一部を差し出したとされる。その際に、桓武天皇は丹波地方の土地を寄進したともいう。現在の福知山には当社歴代宮司・六人部(むとべ)家に因む、「六人部」(福知山市字長田、大内、三俣)の地名も残されている。
◆座 室町時代、諸豪族の潜入に対して、近郷の農民は、田畑の収奪を恐れ、神社に施入れし、それを阻止しようとした。
 その後、神社への感謝のために、農民の組織「座(惣)」が作られる。土地を出し合い、その収入を財源とし組織を維持していた。最長老は「総一老」と呼ばれた。4月1日には、村の行政も決定し、自治組織的な意味もあった。
 1478年、乙訓地方に入る細川政元家臣に対して、それを阻止するために、国人、地侍により乙訓郡の国一揆が起きる。1498年、政元の夫役の要求に対し、向日神社において惣の寄合が行われている。当時、「惣国」内では、「国」の寄合が開かれ、年寄衆という指導者がいたという。 
 400年以上も経た現在もなお、座は存続している。向日神社の「特殊神事」を司る。各座の長老5人が本殿に招かれる「年頭祭(ねんど)」、神前に舌餅(小判形の餅)と「花平」(はなびら、薄い円形の餅)を供える「索餅祭(さっぺ)」の神事がある。
◆勝山稲荷社 境内に勝山稲荷社が祀られている。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)になる。江戸時代、1711年に創建された。当初は、前方後円墳後円部の上に祀られていた。(「山州名跡志」)。その後、古墳前方の現在地に遷された。祖霊稲荷になる。商売繁盛の信仰を集める。
◆六人部家 六人部(むとべ)家は、平安時代以来、代々にわたり向日神社(上ノ社)の宮司を務めてきた。それ以前は、下ノ社の宮司を務めていた。
 鎌倉時代、1221年の承久の変で下ノ社が焼失し、六人部家は一時丹波に逃れている。その後、上ノ社の宮司を務めたという。
 六人部家に六人部是香(むとべ よしか、1798- 1864)がある。幕末の向日神社の神職であり、国学者だった。
◆建築 本殿覆屋内に本殿、幣殿、拝殿が連結している。
 「本殿」(重文)は、棟札により、室町時代、1418年に建築され、この時代の流造を代表する。蟇股に雲竜、牡丹などの透彫りがある。垂木、桝組、虹梁などの木割に室町時代の特徴がある。なお、1920年に創建の明治神宮の本殿は、当社本殿を1.5倍に拡大し設計された。三間社流造、檜皮葺。
 「拝殿」は、江戸時代、1625年に建立された。中央に1間の唐破風、檜皮葺の車寄(向拝)がある。5間2間。一重、入母屋造、本瓦葺。
 「舞楽殿」は、江戸時代、1625年に建立された。3間四方。
◆文化財 平安時代、904年の識語を持つ紙本墨書粘葉装の『日本書紀 神代紀下巻』(重文)は、藤原清貫(ふじわら の きよつら、867-930)筆と奥書に印されている。ただ、室町時代の書写による。清貫は、901年の昌泰の変、右大臣・菅原道真の追放に関わったとされる。930年、清涼殿落雷事件で直撃を受け即死した。道真怨霊の祟りと噂された。
 安土・桃山時代、1583年の六人部宗重撰「向日神社二所御鎮座記」。
 平安時代の小野道風(894-967)筆という額「正一位向日大明神」。
 豊臣秀吉、徳川歴代将軍のご朱印状など。
 石鳥居は石田三成寄進ともいう。
 拝殿と幣殿の間の板壁に狩野派の板絵がある。
◆参道 大鳥居より並木の参道(200m)がある。桜、ツツジ、楓などが植えられ、四季折々の名所になっている。
◆日像上人説法石 日像上人説法石は鳥居手前、南にある。
 日像(にちぞう、1269-1342)は、鎌倉時代後期-南北朝時代の日蓮宗の僧であり、下総国の出身だった。日朗、日蓮の弟子になり、京都で布教した。比叡山の圧迫により、3度都より追放された。1321年に四条櫛笥に妙顕寺を建立する。洛中を追放された日像が西国に赴く途中、向日神社の前に差し掛かかった。明神が鳩や老翁になり現れ、教えを請うたという。日像は村人に説法を行った際に、この「説法石」に腰かけたともいう。
 かつて参道の中程にあり、その後、現在地に移された。
◆増井 向日山西麓に「増井(ますい)」という井泉があり、いまも湧水している。向日神の供御水とされた。
◆元稲荷古墳 境内に隣接して勝山(かつやま)公園があり、前方後円墳「元稲荷古墳」が保存されている。かつて、向日神社の本殿は、古墳を背景にしていた。(『都名所図会』)。墳上には末社・稲荷社が祀られていた。
 古墳時代前期、4世紀(301-400)初頭の前方後円墳であり、乙訓では最も古いという。向日丘陵の尾根に南北に築かれている。墳墓は葺石が貼られ、後方中央の竪穴式石室からは、鉄製武器、工具手、土師器が出土した。前方部墳丘中央には、円形埴輪と壺型埴輪が立てられていた。
 弥生時代の終わり頃の古墳の形を伝え、前期古墳の中で、最も古い様相を示しているという。全長94m、前方部、二段築成、高さ3m、幅46m。後方部、三段築成、高さ7m、一辺52m。
◆向日山・勝山 向日山(むこうやま/むかいやま、63.6m)は、境内の背後にある。弥生時代の高地性集落遺跡「北山遺跡」がある。歌枕としても知られた。
 明神山であり、入会山でもあった。江戸時代、1634年の近郷11村代表による「定書」には、樹木伐採などを厳しく禁じている。
 勝山の呼称について伝承がある。羽柴秀吉が、朝鮮出兵に際して神前を通過した際に、社殿のある山の名を尋ねたという。社人が「勝山」と返答した。秀吉は大いに気に入り、以後、山は勝山と名付けられたという。(『山城名跡志』)
◆自然 本殿の北側の古墳周辺にカシなどがある。1997年、京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「向日神社」として選定された。
 ソメイヨシノなどのサクラがある。
◆鶏冠木・鶏冠井 境内に「鶏冠木(かえるで)の苑」の跡地が残されている。この鶏冠木とは、楓(かえで)の古名という。
 また、当社の「神出(かみいで)」の伝承が、「かいで」になり、向日の古代地名「鶏冠井(かいで)」に繋がったともいう。「かえるてい」「かいて井」「かてい」とも記された。
 また、鶏冠樹(かひるでのき)が楓なのは、鶏冠(とりさか/とさか)よりの連想ともいう。ほかにも、鶏冠井は清泉の傍らにあった老木の楓に因むとも、鶏が井筒にとまり水に映ったことに因むなどともされた。
◆年間行事 念頭(ねんど、座の祭り)(4月15日)、例祭(3日前、神幸祭「おいで」では、本社から鶏冠井(かいで)御旅所、上植野御旅所へ、還幸祭では上植野御旅所から本社へ戻る)(5月第2日曜日)。夏越祓(7月31日-8月1日)。
 索餅(さっぺい)祭(神前に餅を供える)(毎月6日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 下』『洛中洛外』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『稲荷信仰と宗教民俗』『京都の地名検証』『京都の地名検証 2』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都おとくに歴史を歩く』『京都の寺社505を歩く 下』『京都 神社と寺院の森』



  関連・周辺角宮神社       関連・周辺石塔寺       関連・周辺北真経寺        関連・周辺南真経寺        周辺        大歳神社               



向日神が影向したという磐倉

勝山身代不動尊

春日神社、武甕槌神、斎主神、天津兒屋根尊、姫大神

増井神社

増井神社、向日八大龍王大神   

増井神社の御神水、火雷神の荒魂神を祀る井戸がご神体となっている。

御霊神社、伊邪那岐尊、伊邪那美尊

向日大明神(右)、秀九大明神

鶏冠木(かえるで、楓の古名)の苑
170年前に本殿があり、その後、ヤマザクラと楓の森となり、戦前までは土俵もあったという。

宮司の六人部家の屋敷

六人部是継、現在の宮司は95代目に当たる。

参道200mほど緑の回廊が続くゆるやかな上り坂となっている。春には桜並木となる。

日像上人説法石、鳥居手前、南にある。

境内の大グス

勝山公園からの北の方角の眺め

境内に隣接している勝山公園の前方後円墳「元稲荷古墳」、右手が後円墳となる。

より大きな地図で 京都幕末史跡 を表示
 向日神社 〒617-0005 向日市向日北山65  075-921-0217

より大きな地図で 向日神社 を表示
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光