見真大師遷化之地・善法院跡・法泉寺跡 (京都市中京区) 
The place of Shinran's death
見真大師遷化之地 見真大師遷化之地 
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「見真大師遷化之地旧跡」の碑、かつてこの地にあった法泉寺の門前の石碑が残されている。


現在は小中一貫教育校の京都市立京都御池中学校と、隣接してそのほかの複合施設が建てられている。


「日本最初小学校 柳池校」の碑、近代、1869年、上京27番組での仮学舎による授業が開始された。1870年、日本最初の小学校となる「上京第二十七番組小学校」(富小路御池角守山町)での授業が行われている。1873年、この地に新築移転し、柳池小学校と改称した。1947年、新学制により柳池中学となる。


「京都市立堀川高等学校専修夜間部跡」の碑(左)、「日本最初の幼ち遊嬉場」の碑、市立柳池幼稚園(1875-1996)。*「ち」の漢字は表記できません。
 小中一貫教育校の京都市立京都御池中学校の地は、東本願寺では、鎌倉時代の浄土真宗の祖・親鸞(1173-1263)の入滅地とされている。
 現在、校地の西に、「見真大師(けんしんだいし)遷化(せんげ)之地旧跡」の大きな石碑が立つ。「見真大師」とは、親鸞が1876年に、第122代・明治天皇より追贈された贈名、諡号(しごう)をいう。
◆歴史年表 鎌倉時代、親鸞は、最晩年に火災により、住処を焼け出され、実弟の僧・尋有(じんぬ)が院主の坊だった「善法院」に移ったという。寺は、「押小路南、万里(までの)小路東」(『御伝鈔』)にあり、比叡山の東塔・善法院の里坊だった。
 1263年、親鸞は90歳(満89歳)で亡くなり、尋有や末娘の覚信尼(かくしんに)らが看取った。親鸞の入滅地については諸説ある。大谷派(東本願寺)では、この地に善法院があったとしている。西本願寺は角坊別院の地とした。
 その後、この地は「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになる。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、善法院跡(虎石町)に、本山懇望により親鸞を偲ぶ門徒により、法泉寺が建立された。親鸞の往生地を永く顕彰するために建立されたという。
 1864年、禁門の変により、本尊、御影像、井桁を除いて寺の記録、宝物は焼失した。
 近代、1873年、日本最初の小学校「上京第二十七番組小学校」(富小路御池角守山町)が、この地に新築移転し、柳池小学校と改称している。
 1926年、法泉寺境内南に隣接していた柳池小学校校地(中京区柳馬場通御池上る虎石町)の拡張に伴い、5年余りの京都市との折衝を経て、境内は強制収用になる。このため、法泉寺は下総町(上京区烏丸通、現北区)に移る。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都 の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れら れ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動 寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定 めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげ ん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免 され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年 長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、 阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆虎石 善法坊(中京区馬場押小路下る虎石町)境内には法泉があったという。
 親鸞が寺に止宿した際に、井戸を掘ると清水が湧き、水底に不思議な石があった。これ引き揚げると虎が臥した形に似ており、雌雄の文も鮮明だった。親鸞は「虎石」と名付けたという。親鸞は石を深く愛した。親鸞が亡くなる時、石は涙を流したという。人々は奇異に思い、虎石の名が広まる。町名も虎石町(中京区)に改められた。
 後に虎石は、伏見城(伏見区)に移され、さらに深草の宝塔寺(伏見区)を経て、東大谷祖廟(東山区)に移されたという。
 虎石の写し、法泉井の石の井桁は、火災焼失を免れ、当寺に移されている。なお、「衣掛の松」もあったという。江戸時代、貞享年間(1684-1687)に焼亡したという。(『法泉寺略縁起』『拾遺都名所図会』)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 案内板、『日本の名僧』『法泉寺略縁起』『京都歴史案内』


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 柳池中学 〒604-0955 京都市中京区虎石町45-3,御池通富小路西入  市立京都御池中学校
 
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