圓徳院 〔高台寺〕・三面大黒天 (京都市東山区)
Entoku-in Temple
圓徳院 圓徳院 
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長屋門


唐門


唐門


「岩蕗(いわぶき)の寺」としても知られている。イワブキはユキノシタの別名、タマブキの別名。






方丈、1994年、後藤佐雅夫の指導、山本長宏により解体修理された。




書院


北庭、巨石を用いた庭になっている。


北庭の石組作庭したとされる賢庭は、生没年不詳。小堀遠州が作庭時に起用した庭師で、石組の「天下一の名手」と謳われた。 三宝院(醍醐寺)、伏見城庭園、京都御所の作庭にも関わったという。


茶室、北庭



桧垣の手水、北庭、室町時代のものという。笠石を横にし、上部を凹形に切った。





方丈前庭園(南庭)、1994年、現代の作庭家・北山安夫により作庭。





南庭、森蘊博士監修、徳村宗悦作



秀吉好みという手水鉢、今川義元の親戚の西尾家に、秀吉が贈ったという。その後、当院に寄贈された。
 高台寺と「ねねの道」を隔てて、高台寺塔頭のひとつ圓徳院 (えんとくいん)がある。
 臨済宗建仁寺派。本尊は釈迦如来立像を安置する。
 三面大黒天は、出世、勝利、学問、芸術、幸福、安全、無病息災、子授け、芸能上達、家運隆盛などの信仰を集めている。
◆歴史年表 江戸時代、1605年、豊臣秀吉正室・北政所は、伏見城の化粧御殿、前庭をこの地に移築して移り住んだ。北政所の兄・木下家定は、北政所を警護するために、現在地に居館となる客殿(現方丈)を建立した。
 1606年、高台寺が建立される。
 1624年、家定の二男・利房は、北政所の住居だった化粧御殿を北政所より贈られた。御殿は、高台寺の塔頭・永興院に改める。その後、圓徳院の所管になる。
 1632年、北政所没後9年目を経て、利房(足守藩主)により圓徳院が建立された。高台寺中興の祖・三江紹益を開祖とした。高台寺の塔頭になり、利房の法号「円徳院半湖休鴎」に因み圓徳院とされた。以後、木下家の菩提寺になる。
 1789年、高台寺焼失に伴い、永興院から化粧御殿を高台寺に移す。永興院は庭園のみになり、圓徳院に吸収される。
 1863年、高台寺は公武合体派の福井藩主・松平慶永(春嶽)の宿所になる。このため、倒幕派浪士により放火され、化粧御殿も焼失している。
 現代、1978年以来、10年の歳月をかけ、現代の作庭家・北山安夫により北庭の整備が行われた。
 1994年、北山安夫により方丈前庭が作庭される。
 1996年、方丈が修復される。
 2010年、「綴プロジェクト(文化財未来継承プロジェクト)」は、長谷川等伯筆「山水図襖」(重文)全32面の高精細複製品を完成させ同院に寄贈した。
◆おね
 室町時代-江戸時代の女性・おね(1542-1624)。寧、禰々、ねね、北政所(きたのまんどころ)、高台院湖月尼。父は尾張国の杉原定利、母は朝日。織田家足軽頭・浅野長勝の養女に妹とともにになる。1561年、14歳で織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ。藤吉郎とは幼馴染であり、当時としては珍しい恋愛結婚だった。人望も厚く、福島正則、加藤清正、浅井長政、黒田長政、加藤嘉明などの諸大名にも慕われた。1588年、従一位叙 任。子はなく智仁親王を養子にする。1598年、秀吉は北政所の感謝のために醍醐の花見を盛大に催す。その後、秀吉は亡くなる。側室・淀殿とともに、その子・秀頼を補佐した。同年に亡くなった実母・朝日の菩提寺・康徳寺を建立した。1599年、大坂城西の丸を退去し、京都新城(現在の仙洞御所)へ移り、豊国社、方広寺など秀吉ゆかりの社寺の運営・供養などを行う。京都新城の破却後は、三本木(京都御苑内白雲神社東裏)に隠棲する。1600年、関ヶ原の戦いで、兄弟も東西に分かれての戦いになる。1603年、落飾し、高台寺化粧御殿に移った。第107代・後陽成天皇より高台院の号を贈られる。1605年、現在の円徳院境内地に移る。1606年、秀吉菩提のために高台寺を建立した。この時、徳川家康の多大の援助があった。徳川と豊臣の対立に際し、調停も試みたが終生沈黙し、中庸の立場を守った。1615年、大坂城落城の際、高台寺より大坂で立ち昇る煙を見ていたという。現在の塔頭・円徳院の住房(北庭)で亡くなり、翌夕、高台寺霊屋内の土饅頭に葬られた。
◆木下家定 安土・桃山時代の武将・木下家定(きのした いえさだ、1543-1608)。杉原定利の子、豊臣秀吉の正室おね(北政所、高台院)の実兄。秀吉の直臣となる。播磨、肥後守、中納言、1595年、姫路城主、大坂城の留守居などを歴任した。1600年、関ヶ原の戦では高台院を警護、その後、足守城主になる。高台寺建立に伴い、境内に居館を建て高台院を守護した。長男の勝俊は歌人・木下長嘯子。
◆木下利房 安土桃山時代-江戸時代初期の武将・木下利房(きのした としふさ、1573-1637)。若狭国の生まれ。父は木下家定、母は杉原家次の娘の次男。豊臣秀吉に仕え若狭高浜に領した。1600年、関ヶ原の戦いで西軍に属し、東軍方の大聖寺城攻略戦に援兵を出した責により改易された。1608年、父没後、兄・勝俊と遺領を巡り争い、徳川家康に没収される。1614-1645年、大坂の陣で戦功を立てる。夏の陣で高台院の監視役として豊臣秀頼との交渉を制した。1615年、備中足守大名として復活した。法号は円徳院半湖休鴎。
◆三江紹益 室町時代-江戸時代の臨済宗の僧・三江紹益(さんこう じょうえき、1572?-1650)。京都の生まれ。道号は友林、友竹。1606年、建仁寺に入山。建仁寺295世、開山として1602年、慈芳院、1604年、常光院、1608年、久昌院、元和年間(1615-1624)、円徳院、1616年、月真院、春光院、岡林院などがある。1632年、高台寺を中興した。
 北政所が帰依した。木下家定(北政所の兄)と親交があり、その子は紹益の弟子・紹叔になる。
◆賢庭 安土・桃山時代-江戸時代の庭者・賢庭(けんてい、生没年不詳)。詳細不明。醍醐三宝院の作庭に関わる。義演准后の日記中、1602年に登場する。また、後陽成院(第107代)が「天下一の上手也」と称えた。小堀遠州配下となり、内裏、仙洞御所、金地院、加賀藩前田家の作庭などに携わった。高台寺塔頭・円徳院北庭を作庭したとされる。醍醐三宝院の庭に関わった「与四郎」と賢庭は同一人物ともいう。
◆木下長嘯子 江戸時代前期の歌人・木下長嘯子(きのした ちょうしょうし、1569-1649)。名は勝俊。尾張の北政所(高台院)の兄・木下家定の嫡男。少年時代より秀吉に仕え、1587年、19歳で播磨国・竜野城主となる。小田原攻め、文禄の役などに参加。1594年、若狭国小浜城主。1600年、関ヶ原の戦で豊臣秀頼の命により伏見城の留守を預かるが、石田三成の挙兵により任務放棄、所領地の若狭小浜は没収となり、失脚、ねねの嘆願により命だけは救われた。東山に遁世した。後に洛西小塩に移る。細川幽斎、林羅山ら多くの文人と交わる。圓徳院・歌仙堂に座像が祀られている。高台寺山中に葬られる。後世の松尾芭蕉が憧れ墓参している。
◆長谷川等伯 安土・桃山時代の画家・長谷川等伯(1539-1610)。能登畠山家家臣・奥村家に生まれた。染め物屋を営む長谷川家の養子になる。義父から絵を教わる。雪舟門弟・等春の弟子・宗清に学び、信春(しんしゅん)と称し、熱心な法華信徒として仏画を描いた。1571年、本法寺を頼り妻子と共に上洛、狩野永徳に入門するが後に出る。千利休、本法寺10世・日通、大徳寺・春屋宗園らと親交を結んだ。大徳寺塔頭・三玄院事件により世に認められ、長谷川派は狩野派に拮抗した。1590年、前田玄以は等伯に仙洞御所対屋障壁画を描かせようとする。だが、永徳は勧修寺晴豊によりこれを覆す。1590年、永徳は急逝する。1591年、等伯は秀吉が愛息を弔うために建てた祥雲寺の障壁画を手掛け、長谷川派を確立した。法眼の位につき、徳川家康に招かれて江戸に着いた日に亡くなった。長谷川派の祖。
 水墨画の最高傑作といわれる「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)は、子・久蔵の死を乗り越えて描いたという。祥雲禅寺の一連の障壁画(智積院蔵)などがある。
◆仏像 本尊の釈迦如来は鎌倉時代作という。
◆建築 居館が寺に改められたため、本堂は、武家屋敷の造であり、長屋門も残されている。
◆庭園 おねが伏見城より移築し住んだ化粧御殿は、おねの終焉の地になった。その化粧御殿跡の前庭(北庭)は、伏見城より移築されている。現在、書院北庭(国の名勝)として遺されている。1978年以来10年の歳月をかけ、現代の作庭家・北山安夫(1950-)により整備された。
 枯山水式の庭は、かつて池泉回遊式であり、当初、おねは川の流れを望んだという。だが、川を再現することは実現しなかった。池は現在の3倍の大きさを有していた。作庭は賢庭ともいわれ、後に小堀遠州が修復したともいう。
 庭は、安土・桃山時代の作庭当初の原型をとどめているという。涸池に亀島(左)と鶴島(右)があり、それぞれの間は巨石の切石橋、石橋、3本が架けられている。亀島には右端に亀頭石、左端に亀尾石が据えられる。鶴島に架かる切石橋は鶴首石にもなっている。なお、鶴島、亀島が逆ともいう。
 庭の東北部には、枯滝石組があり、築山と巨石群により二等辺三角形に配置され、滝口の右手に蓬莱石組(須弥山石組)、三尊石組を見せる。また、築山には楓が植栽され、紅葉も見所のひとつになる。
 北西側に、檜垣の手水鉢が置かれている。笠石を横にし、その面を凹字形に切り取った。室町時代の宝塔という。現在の植栽は、梅、椿、ツツジ、楓など8種、緑紅葉、紅葉も楽しむことができる。
 近年、1994年に現代の庭師・北山安夫(1950-)により作庭された枯山水式の方丈前庭がある。白砂、岩組、植栽による。石組は庭園研究家・森蘊(もり おさむ、1905-1988)による。
◆茶室 北庭脇に茶室がある。
◆文化財 「豊臣秀吉画像」、「大政所画像」、「北政所画像」。
◆障壁画 方丈は創建時のもので、内部の襖には、1589年の長谷川等伯筆、32面の紙本墨画「山水図襖」(重文)(176.7×116㎝)がある。本来は絵が描かれない雲母(きら)で摺られた桐紋(太閤桐)を散らす唐紙に、雪景渓山水画が描かれた。余白が生かされ、樹林があり、雲母摺の地の文様が降りしきる牡丹雪に見たてられている。現在はデジタル複製を公開している。
 逸話が残る。大徳寺・三玄院住職・春屋宗園は、方丈は選仏の場であり風雅の席ではないとして、禅寺に絵は不要と等伯の制作依頼を受け付けなかった。等伯は、住職の留守中に、水墨により一気に描いたという。本来は36面存在した。等伯はその後、世に認められる。絵は、江戸時代後期に圓徳院に移された。
 木下育應(1944-)「松竹梅図襖」、志村正(1949-)「雪月花図襖」。赤松燎(1922-1996)の遺作「白龍」は、龍にたとえた秀吉とそれを押し上げる荒波にたとえた武将を描く。
◆墓 木下家初代以来、歴代藩主の墓が置かれた。
◆大黒天 境内の北に隣接して祀られている三面大黒天尊天は、京都御苑(京都御所)から移築した。かつて豊臣秀吉の念持仏、守り本尊であり、福徳信仰により今日でも多くの信仰を集めている。三面大黒天は、正面、向かって左面、右面と3つの顔を持つ。それぞれ福の神の大黒天、勝利・子宝の神の毘沙門天、学問・芸術の神の弁財天でありこの三天合体神とされている。一度拝すれば、福、健、徳の三つのご利益が得られるという。
 毎月3日の縁日には、秀吉に因み千成ひょうたんに願い文を書いて祈願法要されている。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『拝観の手引』『秀吉の京をゆく』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 中』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都の寺社505を歩く 上』『別冊太陽 長谷川等伯』『京に燃えた女』『京都のご利益めぐり』『週刊 古寺を巡る 30 高台寺』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』『週刊 日本庭園をゆく 22 京都洛東の名庭 3 東福寺 高台寺 智積院』


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三面大黒天尊天

大黒天

歌仙堂 

歌仙堂 

歌仙堂、ねねの兄・木下家定の長男・勝俊、長嘯子(ちょうちょうし)を祀る。 

三面大黒天尊天

三面大黒天尊天

三面大黒天尊天

三面大黒天尊天

三面大黒天尊天

【参照】圓徳院界隈の「ねねの道」

【参照】「ねねの小径」
綴プロジェクト「山水図襖
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