芳春院 〔大徳寺〕 (京都市北区) 
Hoshun-in Temple
芳春院 芳春院
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門前の石畳参道










加賀梅鉢の寺紋




















 大徳寺塔頭の芳春院 (ほうしゅんいん)は、境内最北部にある。前田家の菩提寺であり、大徳寺塔頭22院の中で唯一、女性が創建した寺になる。また、全国的に見ても、女性の法号を命名した唯一例ともいわれている。
 臨済宗大徳寺派。本尊は釈迦如来。
◆歴史年表 江戸時代、1608年、加賀藩主・前田利家の正室・松子(まつ)が、子・利長、利常とともに建立した。院号は、松子の法号「芳春院殿花巖宗富大禅宗定尼」による。開山は、大徳寺147世・玉室宗珀(ぎょくしつ そうはく)、開基は茶人・片桐石州による。
 1615年、80石を有した。(「大徳寺所領目録」)。この頃、芳春院が初めて寺を訪れる。次男・利政一家と寺で会う。
 1617年、利長は父・利家の昭堂として、玉室に呑湖閣(どんこかく)建立を依頼し、1614年に利家が没したため、その遺志を継いだ三男・年常が完成させた。横井等怡の寄進によるともいう。
 1796年、13世・宙宝宗宇(ちゅうほう そうう)の時、寛永の大火により伽藍を焼失した。
 1798年、加賀藩11代藩主・前田治脩(まえだ はるなが)により昭堂、書院が再建されている。
 1799年、再建された呑湖閣が記され、檀越は関白・一条昭良とある。(『都林泉名勝図会』)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、堂宇の大半を失う。
 1875年、再興された。旧金牛院を移築、書院が建てられた。
◆芳春院
 室町時代-江戸時代の女性・芳春院(1547-1617)。まつ、松子。織田信長弓頭・尾張国の篠原主計の娘。父没後、母は高畠直吉と再婚したため、加賀の前田利春に養育される。1558年、利春四男・利家に嫁ぎ、後に2男9女(8女とも)を産む。1583年、賤ヶ岳の戦いで、利家が柴田勝家方に与し敗走した際に、秀吉と勝家の和議を講じ利家を救う。1584年末、森城戦で夫の出陣を祝し、名を高めた。1585年、三女・摩阿姫は秀吉の側室になる。1599年、利家没後、出家し芳春院と号する。1600年、前田家への徳川家康による謀反嫌疑に際し、長男・利長を宥(なだ)め家康の要求に応じ、自ら人質となり江戸に下る。以後、松子は14年間を過ごし前田家を守る。2代・利長、3代・利常を見守った。京都で病となり金沢へ戻され、金沢城内で亡くなる。
 豊臣秀吉の正室高台院(北政所)とは懇意だった。四女・豪姫を秀吉と北政所の養女に出した。武芸、算盤、和歌に長じる。禅室に参じた。墓は金沢市の野田山墓地、大徳寺・芳春院にも分骨された。
◆玉室宗珀 江戸時代前期の臨済宗の僧・玉室宗珀(ぎょくしつ そうはく、1572-1641)。京都に生まれた。春屋宗園の甥。1577年、西賀茂・正伝寺の龍珠軒で春屋宗園の弟子に入る。法名を省珀とした。15歳で剃髪、18歳で維那を務める。23歳で2位。1607年、大徳寺147世となるが3日目で退く。1608年、大徳寺・芳春院を創建した。前田家の帰依を受ける。1622年、近江・大源院、大徳寺の三玄院も任される。江戸幕府による寺院と朝廷への圧迫、統制を謀った紫衣(しえ)事件で、1627年、沢庵らとともに幕府に連名で抗議書を提出した。1628年より3年間、陸奥棚倉に流される。1636年、大徳寺の方丈を再建する。茶の湯、書画もよくした。諡号は1620年、直指(じきし)心源禅師。芳春院に塔された。
◆前田利長 江戸時代の外様大名・前田利長(まえだ としなが、1562-1614)。加賀(金沢)藩第2代藩主・前田利家の長男、母は芳春院。1598年、家督を継ぎ、1599年、父・利家没後五大老に列した。上方を離れたため徳川家康との関係が悪化、加賀征討の動きにより自らの隠居、母・芳春院を江戸へ人質に出すこと、徳川秀忠の娘・珠姫を嫡嗣・利常の嫁に迎えることで和解した。1600年、関ヶ原の戦で徳川方(東軍)に与し、戦功により西軍に与した弟・前田利政の還付も含め加賀、能登、越中の大半を支配した。1605年、家督を利常に譲り、富山城に隠居。1609年、富山城焼失により高岡城へ移る。新田開発、1605年、越中の総検地などを行う。
◆摩阿姫 安土・桃山時代-江戸時代初期の女性・摩阿姫(まあひめ、1572-1605)。加賀殿。前田利家の三女、母はまつ(芳春院)、側室の子とも。1582年、柴田勝家の家臣・佐久間十蔵と婚約し、北ノ庄城に入る。1583年、賤ヶ岳の戦いで十蔵自害により城を脱し、前田家に戻る。1585年、秀吉の側室。1598年、醍醐の花見に加わり、「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」と詠む。秀吉没後、権大納言万里小路充房の側室となり前田利忠を産む。後、離縁、利忠とともに金沢に戻る。墓は大徳寺・芳春院にある。
◆片桐石州 江戸時代前期の大名、茶人・片桐石州(1605-1673)。片桐貞隆の長男。1627年、大和の小泉藩主片桐家2代。知恩院の普請奉行、関東郡奉行に就く。茶道を桑山宗仙に学び、石州流をひらく。1628年、将軍徳川家綱の所望で茶の作法を披露し、茶道師範となる。大徳寺の玉室宗珀に参禅した。大徳寺・高林庵、1608年、大徳寺・芳春院の開基、1663年、茶の湯・石州流の大和小泉・慈光院を創建、小堀遠州とも交流した。
◆横井等怡 江戸時代の医師・横井等怡(よこい とうい)。詳細不明。名医という。1617年、寄進し芳春院の呑湖閣を建てたという。呑湖閣の建築と作庭を行ったともいう。
◆宙宝宗宇 江戸時代の臨済宗の僧・宙宝宗宇(ちゅうほう そうう、1759-1838)。京都生まれ。大徳寺406世・則道宗軌の法嗣。大徳寺418世。芳春院13世、1818年、松月軒に隠居。1836年、諡号「大光真照禅師」を贈られる。
◆玉舟宗璠 江戸時代の僧・玉舟宗璠(ぎょくしゅう そうばん、1600-1668)。京都に生まれた。玉室宗珀に参じ法を嗣ぐ。1649年、大徳寺185世。芳春院2世。1661年、江戸・東海寺の輪番、寛永年間(1624-1644)、大徳寺に高林庵、1663年、大和・慈光院などの開山。茶の湯に親しみ茶人と交わる。1656年大徹明応禅師の号を贈られる。 
◆醍醐家 藤原五摂家のひとつ、公家・醍醐家は、一条家支流、清華家のひとつになる。
 江戸時代、第107代・後陽成天皇の第9皇子・一条昭良の二男・冬基(1648-1697)を祖とする。近代に入り、公爵となる。邸宅は烏丸通仲立売上ルにあった。菩提寺は大徳寺・芳春院になる。
◆仏像・木像 本堂に「宝冠釈迦如来」、右脇士に「文殊菩薩」、左脇士に「普賢菩薩」の釈迦三尊像、さらにその右に開祖・「玉室宗珀の木像」、左に「芳春院尼の木像」を安置する。前田家歴代霊牌も祀られている。
 呑湖閣には「菅原道真」が安置されている。道真は前田藩の祖先ともいわれる。前田家の家紋「加賀梅鉢」と北野天満宮の社紋「星梅鉢」の類似性があるとされる。
◆建築 二重楼閣建築「呑湖閣(どんこかく)」は、江戸時代、1617年、前田利長が小堀遠州に依頼して建てたという。また、医者・横井等怡が小堀遠州とともに昭堂として建てたともいう。1633年に再建されたともいう。1796年の寛永の大火により焼失し、1798年に前田家により再建されたともいう。現在の建物は江戸時代、1804年、1813年に再建されたともいう。近代の廃仏毀釈の際にも幸いに破却を免れている。
 開祖・玉室宗珀が呑湖閣と名付けた。呑湖閣から望む東の比叡山に因み、その東に位置する琵琶湖の水を呑みほすという意味がある。呑湖閣には打月橋が架けられ、玉室宗珀筆による「打月」の額を掛ける。その意味は、池に映る月に遊ぶ(打)という。「京の四閣(ほかに金閣、銀閣、飛雲閣)」のひとつとされている。呑湖閣には、開山の玉室宗珀の師・春屋宗園の木像、近衛、醍醐、青山、建部の霊牌を祀る。
 本堂北にある「書院」は、1916年に新しく建て増しされた。三代にわたり内閣総理大臣に就任した近衞文麿(1891-1945)が、京都帝国大学の河上肇教授に学んだ際に、この書院を勉強部屋として利用したという。
 近代、1868年後の廃仏毀釈により破却された高林庵が、近年再興されている。庵の開祖・玉舟宗はん(芳春院2世・大徹明応禅師)の像と、開基・片桐石州の像が祀られている。
 本堂と書院の間に渡り縁が庭の縁を廻る。
◆庭園 本堂北、西に、市内でも珍しい楼閣山水式の庭園がある。江戸時代、1617年、茶人・建築家・作庭家の小堀遠州(1579-1647)の作という。また、医者・横井等怡と小堀遠州の合作ともいう。庭園は度々改造されている。書院が建てられる大正期(1912-1926)以前は、現在よりも広く、「飽雲池(ほううんいけ)」には滝石組より水が注いでいた。現在は涸れている。杜若や睡蓮が咲く。
 二重楼閣「呑湖閣」「飽雲池」が造られている。いずれも玉室が名づけた。呑湖閣には春屋宗園の像が安置され、閣前の池には池が造られた。橋廊は打月橋と名付けられる。庭園には珍しい樹木が植栽され、奇岩怪石が配された。池には、第108代・後水尾天皇から贈られたという鵞鳥の番が放たれていたという。芳春院には、天皇、片桐石州、前田利常ら皇室、公家、武家、茶人ら60余人が集ったという。現在、池には中島があり、二つの反った切石が「く」の字形に対岸まで架かり呑湖閣に向う。
 本堂(客殿)南に、枯山水式の「花岸庭(かがんてい)」がある。「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作(1917-1995)により修復された。白砂敷きであり、大海を表している。本堂の縁までは現世を意味する。悟りの世界を表した南西(右手)の石組、岩山(蓬莱島)へ、白砂の岩舟(舟石)に乗り向かう様を表しているという。舟の先には巨石の立石があり、前の白砂に鯉魚石様の石が置かれている。全体として苔山は低くなだらかであり、左手に向かい緩やかに傾斜して続いている。かつては、庭一面に桔梗が咲き誇り「桔梗の庭」といわれていたという。
◆茶室 かつて東隣に高林庵があり、紹鷗床なし四畳半茶室などがあった。片桐石州好みの茶室とされた。近代の廃仏毀釈により破却される。庵はその後再建されている。鵬雲斎好みの「悠心軒(ゆうしんけん)」(5畳、8畳)も建てられ、2世・玉舟の像を安置する。
 6代管長・伝衣室老師(全提要宗)好みの「松月軒」(7畳向切)・「落葉亭」(3畳台目)、そのほか「迷雲亭」、「如是庵」(4畳半)があり裏千家が利用している。
◆寮舎 「高林庵」は、江戸時代、寛永年間(1624-1644)に建立された。1648年に建物が建造される。玉舟宗はんを開祖、片桐石州を開基とする。近代以降、再興され、現在も芳春院東にある。
 「通玄庵」は、義峰宗寔が開祖、中井大和が芳春院裏に建てる。江戸時代、文政年間(1818-1830)、宙宝宗宇が般若池北の草山裏に移したともいう。当院内に移したともいう。北派として護持された。
 「貞岳庵」は、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、別所主水重棟が聚光院北に創建した。後に芳春院に属した。
 「大源庵」は、江戸時代、1622年、横井氏正栄尼が玉室宗珀のため、また亡き子のために大徳寺北の上野村に創建したともいう。天室宗竺に付された。天室が開祖ともいう。
 「松月軒」は、江戸時代、寛永年間(1624-1644)、西賀茂・正伝寺裏に建てられた。溪演首座が聚光院裏に移した。一溪宗什が院内に移す。
◆文化財 絹本著色「多賀高忠像」(重文)、「大燈国師墨蹟」(重文)。
 室町時代の「芦屋闘鶏図真形釜」は、片桐石州が所持し高林庵に伝わった。
◆墓 御霊屋(みたまや)左に芳春院尼、右に長男・前田利長、次男・利政、3代・利常、4代・光高、5代・綱紀などの前田家の墓、近衛家、江戸時代の茶人・片桐石州の墓もある。13代・伏見奉行・建部政宇の墓がある。
 摩阿姫の墓がある。
 公家・醍醐家の菩提寺になる。
◆花暦 芳春院が好んだという桔梗の花がある。
◆景観 大徳寺境内は市街地にありながら高台に位置している。このため、本堂から南の景観は、現代の建築物がまったく視界に入らない。
 境内では一切の電柱などを廃し、すべて地下に埋設されている。このため、創建当時の景観が今でも保たれている。


*普段は非公開。
*大部分の建物、建物内、庭園は撮影禁止。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『京都・山城寺院神社大事典』『禅語百科』『庭の都、京の旅』『拝観の手引』『京都の寺社505を歩く 下』『京都秘蔵の庭』『京都・美のこころ』『京都隠れた史跡の100選』『おんなの史跡を歩く』『京都大事典』



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