正法寺 (京都市東山区) 
Shoho-ji Temple
正法寺 正法寺 
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山門








山門から石段が続く。


本堂(開山堂)


本堂、「流祖殿」の扁額






本堂
 急峻な坂道に続く石段を昇ると、東山(霊山)の山腹にある正法寺 (しょうほうじ/しょうぼうじ)に着く。かつて隆盛を誇った。いまは本堂(旧歯仏阿弥陀堂)、庫裏を残すのみになる。 
 霊山(りょうぜん)、霊山寺、無量寿院、また、鷲の尾寺、鷲の尾山、山号より霊鷲山(りょうじゅせん)などとも呼ばれる。
 時宗霊山派の本山、本尊は釈迦如来。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第40番札所、札所本尊は身代地蔵。
◆歴史年表 平安時代、延暦年間(728-805)、この地には、最澄(767-822)が開創した霊山寺、また、天台別院霊山寺があったという。第58代・光孝天皇(830-887)の勅願所になったという。当初は天台宗だった。
 寛平年間(889-898)、第59代・宇多天皇(867-931)が釈迦堂を建立し勅願所にした。
 治承年間(1177-1181)、名刹七十四か寺の一つに列した。
 1004年、霊山堂供養が修された。
 鎌倉時代、元久年間(1204-1206)、1205年とも、法然(1133-1212)が念仏の道場とした。正月別時念仏を修したともいう。浄土宗の影響があった。
 その後、荒廃する。
 南北朝時代、1383年、住持・光英は時宗の国阿に教化され寺を譲る。国阿は時宗道場とし、正法寺と改めて再興し、阿弥陀堂を建立する。以後、時宗霊山正法寺派(霊山派)の本山になった。
 北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇(1377-1433)、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)も帰依し、寺運は興隆を迎えた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で荒廃する。
 天文の錯乱(天文の乱、1532-1535)では、細川氏・畠山氏が戦い、荒廃した。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、諸堂が整備される。 
 1590年、天正年間(1573-1592)とも、豊臣秀吉は寺領を寄進している。
 江戸時代、山上に多くの伽藍、14の塔頭が建ち並ぶ。末寺42を数え、朱印地23石を受けた。境内地は、東は観音寺(清水寺)東谷の峰堀切、西は大道(百度大路、下河原町通)、南は清水谷(山ノ井谷)、北は雲居寺谷に及んだ。眺望がきいたことから一帯は遊所になり、僧坊では料理などを供していた。
 寛文年間(1661-1673)、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 元禄年間(1688-1704)、6坊を失う。
 1780年、当寺では「集会遊筵(ゆうえん)はこの院々を借りて饗宴す」とある。 (『都名所図会』)
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈、上知により境内の大部分、伽藍、塔頭も2つを残して廃され、以後衰微した。子院・清林院を本寺にしたという。
 1893年、1892年、1889年とも、本堂、庫裏を失火により焼失した。釈迦堂だけが残された。また、開山堂を本堂にしたという。
 現代、2010年、400年ぶりに行法「日想観(にっそうかん)」が復活する。
◆国阿 鎌倉時代-室町時代の僧・国阿(こくあ、1314-1405)。詳細不明。石堂頼房。播州橋崎庄の領主という。播磨・円教寺で当初は天台を修めた。後、託何(たくが)の弟子になり、時宗に転じた。1383年、京都の正法寺、双林寺で布教を行う。霊山派、国阿派の祖。伊勢、熊野を崇敬した。正法寺に石塔が立つ。
 なお、時宗国阿派はその後、当山、正法寺の霊山正法寺派(霊山派)と双林寺の双林寺派(国阿派)に分かれている。
◆光英 南北朝時代の僧・光英(生没年不詳)。詳細不明。浄土宗の正法寺の住持。1383年、時宗の国阿に教化され寺を譲る。その後、双林寺・無量寿院に移る。寺は後に時宗・国阿派の本寺になる。
品川弥二郎 江戸時代末期-近代の政治家・品川弥二郎(しながわ やじろう、1843-1900)。長州藩士分の弥市右衛門の子。吉田松陰の松下村塾に学び、高杉晋作らと尊王攘夷運動に加わる。1869-1870年、戊辰戦争で奥羽鎮撫使総督参謀。1869年、弾正少忠、1870年、大山巌らと普仏戦争視察のため渡欧、その後、英、独へ留学。1873年より、ドイツ公使館に勤務した。1876年、帰国し、内務大丞などを歴任。1881年、農商務少輔、1882年、大輔。1885年、駐独公使、1887年、枢密顧問官、宮中顧問官を歴任、宮内省御料局長を兼任。1891年、第一次松方正義内閣内相、1892年、第2回総選挙で選挙干渉を行い、引責辞任した。その後、枢密顧問官に再任、1892年、国民協会を結成し、副会頭。1899年、枢密顧問官に再々任。信用組合の育成者、鳥羽・伏見の戦で官軍の「トコトンヤレ節」の作詞者として知られた。子爵。
 夫婦の墓が正法寺にある。
◆仏像・木像 本堂に平安時代作の「阿弥陀三尊像」、平安時代作の「地蔵菩薩像」、室町時代作の「寝釈迦像」、ほかに「雨宝童子像」、「国阿上人坐像」、「弁財天」、「大黒天」などが安置されている。廃された塔頭の遺仏なども安置している。
◆山号 山号は霊鷲山という。背後の東山連峰の峰のひとつを霊山と称するのも、霊鷲山の略称によるという。当初は、鷲の尾山と呼ばれていた。
 霊鷲山とは古代インドのマガダ国の首都、王舎城の北東に位置し、釈迦が法華経などを説いた山といわれている。当寺の寺号も霊山に因み霊山寺とも呼ばれていた。
◆塔頭 江戸時代には14の塔頭があった。その後、衰退し、近代以降は2塔頭に減じた。そのうちの一つ永寿院が廃され、現在は清林寺が残る。
◆石造物 室町時代の「如意輪観音石仏」がある。
 「五輪卒塔婆」は、鎌倉時代、「文保二年(1318年)」の銘が入る。霊山寺遺物という。花崗岩製、1m。
 
「板碑、国阿上人の墓」がある。「板石塔婆」ともいう。鎌倉時代作になる。「京都の三板碑(ほかに紫野・西向寺、百万遍・了蓮寺)」のひとつに数えられる。蓮座、その上に梵字でキリーク(阿弥陀)、サ(観音)、サク(勢至)、中央下に「国阿上人 応永十二年(1405)酉乙九月十一日歳九十二生子剋」と刻まれている。緑泥片岩製、1.12m。
◆柏のお札 国阿は伊勢、熊野の信仰が篤かったという。伊勢へは足駄を履いて月参りしていたという。逸話が残されている。
 ある時、参詣道中で女性の遺骸があった。国阿は、穢れを避けるべきにもかかわらず、遺体を懇ろに葬ったという。これは、太神宮が国阿を試すために仕向けたものだった。神のお告げがあり、慈悲心により身の穢れに支障はないとされ、国阿は参宮を行うことがゆるされた。以来、江戸時代、伊勢参宮に際して、当寺に参り足駄を奉納して安全祈願すると、道中の忌み穢れ、足痛なども免れるとされた。
 伊勢・熊野参詣者には「柏のお札」が授けられていた。柏の葉の形の中に「伊勢熊野参詣輩」「許永代汚穢」の文言が刷られており、道中の無事を祈念するものだった。
◆日想観 西山を望むことが出来る正法寺では、江戸時代初期まで、行法「日想観(にっそうかん)」が行われていたという。極楽往生を願って西向きに座り、夕日を拝む仏教の修行をいう。『観無量寿経』に記されている。2010年10月23日に、400年ぶりに復活される。
◆墓 「国阿上人石塔」(板碑、はんぴ)があり、上人の名と「応永十二年(1405)」の示寂年紀が刻まれている。
 品川弥二郎夫妻の墓がある。
◆名水 境内には二つの井戸がいまも湧く。「鏡水(かがみのみず、鏡池)」と呼ばれている。藤原明衡(989? -1066)の詩にある「洞水」、菅原孝標女(1008-1059~?)の『更級日記』にある「山の井」とされる。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京の石造美術めぐり』『京都の寺社505を歩く 上』『旧版 京のお地蔵さん』


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本堂

鏡池(山の井)

鏡池(山の井)、境内は山の中腹にあるにもかかわらず水は今も湧いている。

鎌倉時代の板碑、国阿上人墓が納められている。

鎌倉時代の板碑、国阿上人の墓。

品川弥二郎(右)夫妻の墓

境内から見た市街地の景観、西山が見渡せる。

杉の大木
 正法寺 〒605-0861 京都市東山区清閑寺霊山町35  075-561-8194
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