蓮如上人廟所・山科本願寺跡 (京都市山科区)
Rennyoshonin-byosho(Tomb of Rennyo Shonin)

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唐門


「本願寺第八代 蓮如上人御廟所」の石標


六角形の石柵で囲まれている。さらに奥には、山科本願寺の二の丸土居の遺構があるという。




井桁


手前の石垣部分


【参照】廟所の東にある「蓮如上人御塚道」の道標



【参照】廟所の西にある「山科本願寺土塁跡」、山科中央公園


【参照】山科本願寺土塁跡(西野様子見町)、山科中央公園北東角
東西75m、南北60m、最大高9.2m。この付近は、見張りのために設けられたとみられている。



【参照】山科本願寺寺内町推定復元図(洛東高校本・西宗寺本より、『洛東探訪』より一部抜粋)、廟所は寺内町の北東、外寺内(地図のほぼ中央)になる。

 蓮如上人廟所(れんにょしょうにん びょうしょ)は、山科中央公園の東の住宅街の中にあり、周囲は緑陰に包まれている。蓮如没後、この地で火葬されたという。
 廟所の周囲には、山科本願寺遺構、西本願寺山科別院、東本願寺山科別院、蓮如が隠居した南殿跡など、蓮如ゆかりの史跡が残されている。
◆歴史年表 室町時代、1478年、蓮如は浄乗(海老名五郎左衛門)より寺地を寄進され、山科に坊舎の建立を始めた。
 1480年、完成した御影堂に親鸞の画像を安置した。大津近松より親鸞影像を遷す。
 1481年、阿弥陀堂が完成し、本尊を安置した。
 1483年、伽藍がほぼ完成し、蓮如は山科に本願寺を再興を果たした。
 1489年、山科本願寺の東側に蓮如の隠居の地となる南殿(現在の光照寺付近)が造営された。
 1495年、実如が9世に就く。
 1499年、蓮如は南殿で没する。蓮如は本願寺門傍(現在地、蓮如上人廟所)で火葬されたという。
 1525年、実如の死により、10歳の証如が10世になる。
 安土・桃山時代、1532年、近江守護職・六角定頼と法華宗徒(延暦寺衆徒)により山科本願寺が破却され、南殿も焼失した。(「経厚法印日記」)。この後、本願寺は大坂石山へ移される。蓮如の廟所は、その後もこの地に残されるが荒廃する。
 1586年、豊臣秀吉は11世・顕如に本願寺旧地一部を寄進する。
 慶長年間(1596-1615)、坊舎建立の動きは、地元民の芝地利用の理由により反対される。
 安土・桃山時代-江戸時代、1602年、本願寺の東西分立により、元和年間(1615-1624)には廟所の帰属本尊をめぐり対立が続いた。
 江戸時代、1732年、西本願寺の15世・住如は、廟所の東一丁に山科講の寄進を受け、北山御坊養源寺の寺基を移して、聖水舞楽寺(松林別院、山科別院)とした。また、住如は北山別院の旧堂と名を移して創建したという。同年、東本願寺の17世・真如は、本山寺内の長福寺を山科竹ヶ鼻に移した。
 1736年、東本願寺の大谷派山科別院の落慶法要が行われた。
 1739年、幕府は廟所を両本願寺の共有として裁定する。
 1740年、古屋敷地を巡り周辺の東野村、西野村の争論が起こる。
 近代、1882年、廟所は内務省が買い上げその後下賜される。山科本願寺旧跡は東西本願寺の共有地になる。現在も両本願寺により管理されている。
 現代、1997年以降、発掘調査が行われた。
◆蓮如 室町時代の真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415‐1499)。第7代・存如の長男として東山大谷に生まれた。母は祖母の侍女という。1420年、6歳で母が本願寺を去る。継母・如円の下で育つ。1431年、17歳で青蓮院で得度、中納言・広橋兼郷の猶子となる。比叡山、興福寺で修行したという。1442年、如了尼と結婚する。1449年、東国布教に出る。1457年、父の死により本願寺8世となる。1465年、比叡山衆徒により本願寺は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年(1469年とも)、大津近松に移り、祖像を遷す。1469年、東国に修行に出る。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年、『正信偈・和讃』開版。1474年、文明の加賀一向一揆が起こる。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科に移る。1483年、本願寺を再興し、山科での布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、大坂石山に坊舎を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。
 蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏となること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に御文(おふみ)(御文章<ごぶんしょう>)を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の御名号(おみょうごう)、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。
◆実如 室町時代の浄土真宗の僧・実如(じつにょ、1458-1525)。實如。蓮如の第8子(5男)、母は伊勢貞房の娘蓮祐尼。1467年、延暦寺より京都を追われた父・蓮如は、長男・順如の廃嫡、実如への家督継承を受け入れた。1483年、順如の没後、実如は改めて法嗣となる。1489年、父の退隠後、1495年、加賀一向一揆の指導者、管領・細川政元と対立した河合宣久粛清を容認し、9世に就く。1506年、政元の要請を受け畠山義英の討伐協力したため、摂津・河内の門徒は反発し、実如の異母弟で畠山氏の血を引く実賢を石山御坊に擁立し法主交替を求めた。この河内国錯乱を抑える。1507年、政元の養子・澄之が政元を暗殺した永正の錯乱で、山科本願寺を追放され堅田御坊へ逃れた。1509年、山科本願寺に復帰、北陸門徒に一揆を禁ずるなどの3か条の戒めを発布、本願寺の一門一家制も設けた。1521年青蓮院脇門跡に任ぜられる。
◆証如 室町時代の浄土真宗の僧・証如(しょうにょ、1516-1554)。證如。蓮如の曾孫。父は遍増院円如、母は慶寿院鎮永尼。1525年、父方祖父・本願寺9世・実如の死により、10歳で本願寺第10世になる。実如の弟で証如の母方祖父・蓮淳の後見を受けた。1527年、関白・九条尚経の猶子。1531年、本願寺教団の内部対立、「享禄・天文の乱」を抑えた。1532年、管領・細川晴元の要請により門徒を動員し、三好元長を敗死に追う。晴元は日蓮宗教団、六角定頼らと山科本願寺を焼討した(「天文法華の乱」)。証如は大坂の石山御坊に逃れる。後、晴元の養女・如春尼を長男・顕如の妻に迎え和睦した。1546年、金沢に尾山御坊を築く。
◆廟所 室町時代、1496年、蓮如は石山より山科に戻り、1499年に亡くなる。遺骸は荼毘に付された。廟所(蓮如上人御廟所)の地は、かつての山科本願寺旧地の外寺内に当たる。また、当初は寺外にあり、その後、御本寺の拡張により寺内に取り込まれたともいう。
 廟所は、現在、森の中にあり、周囲を塀で囲み、東面して唐門が建てられている。敷地に八角形の石柵がある。
山科本願寺・南殿 山科本願寺は、室町時代、1478年、本願寺8世・蓮如により創建された。場所は現在の山科中央公園付近(西野陶芸沢町など6町)に存在した。1465年の大谷破却以後、北陸の吉崎より拠点を移し、15年ぶりの再建を果たした。
 当時の山科は、交通の要衝地だった。北は北陸の門徒領国と結ばれ、南の奈良街道は、大和、河内に通じた。四ノ宮川、安祥寺川により、木津川、淀川の舟便を利用できた。有力門徒の近江金森・道西が、蓮如に再三にわたり山科での坊舎建設を進言していたという。
 山科本願寺の境内は、東西800m、南北1000mあり、周囲は土塁と濠で囲まれていた。寺内町が整えられた。山科本願寺寺内町は、計画的に構築された都市として定着した最初の寺内町と定義されている。
 第1郭「御本寺(ごほんじ)」には、御影堂、阿弥陀堂、寝殿(北殿、宗主の居所)、向所(寺務所)、女中衆御座候方、馬屋などが建ち並ぶ。
 第2郭「内寺内(ないじない、内寺内家中)」は、その北、東、南にあり、蓮如一族ら法主家族、坊官の屋敷町、仏光寺派興正寺、経豪の寺院、一家衆・直参の有力末寺の坊舎である多屋(他屋、たや)などにより構成された。
 北東の第3郭「外寺内(かいじない)」には末寺、門徒宿舎、富裕な職人・商人が住した。魚屋、絵師、餅屋、塩屋、請酒屋などが建ち並んだ。門徒のための宿泊施設も備えられた。町は活況し、掟が定められていた。暁の七ツ時(午前4時)、昼の八ツ時(午後2時)には時報の太鼓が打たれた。
 南端の第4郭には、蓮如上人御塚、在家信者の町屋が建てられた。
 これらの寺内町は三重構造をなしており、中心の御本寺を守護する形を整えていた。御本寺の北西に西宗寺があり、山科本願寺の土地寄進者・海老名氏の氏寺だった。西宗寺は本願寺の防御的な意味があったとみられている。
 山科本願寺一帯は、中世環濠城塞都市を形成した。山科本願寺は寺院であるとともに、輪郭式の平城・城郭としても機能した。そのため「構(かまえ)」「城」とも呼ばれた。築城には北陸信徒が関わる。北、東、南面のそれぞれの郭と外周に、二重の土塁と濠が廻らされ、西には防御的な意味を持つ西宗寺が配置された。横矢がかかる虎口、土塁の折邪(おりひずみ、クランク形状)などの防御面も強化された。これらは、本格的な近世の城郭が現れる、1世紀も前に先取していた。
 建設は多くの門徒の協力により進められた。河内門徒が伐り出した吉野の木材、大津からの板材、深草の木材、阿弥陀堂の瓦は、西山の土で焼き、河内誉田の瓦師が葺いた。
 1489年、蓮如は本願寺東1㎞付近に隠居寺(光照寺付近)を設け、1499年にこの地で亡くなる。また、西宗寺で亡くなったともいう。隠居寺は、本願寺の北殿に対し南殿と呼ばれた。南殿は周囲200m四方あり、土塁と濠に囲まれていた。敷地内には、園池、築山、持仏堂、山水亭、台所などを備えた。
 1532年、細川晴元、六角氏、法華宗徒により山科本願寺、南殿も破却され焼失している。在家も焼失した。六角勢は大津、柳本衆は汁谷口より侵攻し、花山、音羽、厨子奥が焼失した。1536年、京中の法華宗21本山が焼かれた天文法華の乱後、法華経の勢力は削がれる。その後、12代将軍・足利義晴は、証如を免許している。本願寺は、山科での寺内町再建を試みる。1586年、豊臣秀吉は、本願寺に寺内町旧地の20石を寄進した。だが、本願寺は山科での再建を断念する。1591年に六条堀川に本拠地を移した。
 近年、1973年、1974年に寺内町遺構である第1郭南辺の発掘調査が行われている。1997年以降の土塁南西隅の発掘調査により、土塁の構造は粘質土、砂礫、礫を交互に混ぜて積み上げていることが確認された。土塁内側にも盛土し、内部の雨水を抜くための石組みの排水路も備えられていた。東西の堀は幅5m、深さ12m、一部は幅12m、深さ4mあった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献『遺跡から見た京都の歴史』『文化財ブックス第16集』『京都古社寺辞典』『洛東探訪』『京都府の歴史散歩 中』『日本の名僧』『事典 日本の名僧』


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 蓮如上人廟所  京都市山科区西野大手先町 

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