乃木神社 (京都市伏見区) 
Nogi-jinja Shrine
乃木神社 乃木神社
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大鳥居


大鳥居、閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)の真蹟。




神門


神門、扉は継ぎ目のない一枚板が使われている。


拝殿



拝殿、絵馬額、欅の一枚板に、乃木将軍の愛馬が彫られている。後藤貞行作。



拝殿



拝殿



本殿



乃木希典、学習院院長時代の姿、小倉右一郎作。
 伏見桃山御陵(第122代・明治天皇陵)の南、陵を見上げる地に北面して乃木神社(のぎ じんじゃ)はある。 
 祭神は、陸軍軍人・乃木希典(のぎ まれすけ)である乃木希典大人之命乃(のぎまれすけうしのみこと)、希典の妻・ 静子である乃木静子刀自之命(のぎしずことじのみこと)を祀る。
 戦前までは武神として崇敬された。文才に優れた乃木にあやかり学問、受験合格の篤い信仰がある。御朱印が授けられる。
 伏見五利益(五福)めぐりの一つ。
歴史年表 安土・桃山時代-江戸時代(1595-1615)、この地には、板倉周防の守の屋敷があったという。
 近代、1912年、明治天皇が亡くなり、乃木希典夫妻は、葬儀参列後、自宅で自決した。
 1916年、実業家・村野山人が私財を投じ、4年の歳月をかけて創建した。桃山御陵の守護、英霊の慰謝のために祀られた。
乃木希典 江戸時代末-近代の軍人・乃木希典(のぎ まれすけ、1849-1912)。江戸の長府藩藩士・乃木十郎希次の家に生まれた。吉田松陰の叔父・玉木文之進の塾に入門、長州藩・学問所の明倫館文学寮でも学んだ。1865年、長府藩報国隊、奇兵隊に合流し幕軍と戦う。1871年、陸軍少佐となる。1877年、西南戦争で、歩兵第14連隊長心得として、田原坂(熊本)で西郷軍に天皇の分身とされた連隊旗を奪われた。失態に対して死を願い出たが、明治天皇に慰留される。1886年、ドイツ留学。1894年、日清戦争(1894-1895)では、第1旅団長(少尉)として旅順を陥落させた。1895年、第2師団長(中将)として台湾征討、1896-1898年、台湾総督に就任した。1899年、第11師団の初代師団長(中将)となる。1904年、日露戦争(1904-1905)で、第3軍司令官(大将)として旅順要塞攻略、203高地を占領した。なお、二子はこの時戦死し、私信に「愚父ノ面目ヲ添ヘタル」と記した。明治天皇の要請により、1907年、学習院院長に就任した。1912年、9月13日、明治天皇大葬の日、葬儀参列後、自宅で割腹殉死した。西南の役の責、旅順攻略で多くの犠牲を出した責任を取った。漢詩、和歌も250篇以上残している。
 辞世「うつし世を 神去りましし大君の みあとしたひて 我はゆくなり」。
乃木静子 江戸時代末-近代の女性・乃木静子(1859-1912)。薩摩藩医・湯地定之の4女。1878年、乃木希典と結婚。2子はいずれも戦死している。明治天皇大葬の日、夫の後を追い自害した。
 辞世「出てまして かへります 日のなしきとく けふの御幸に逢ふぞ かなしき」。
乃木勝典 近代の軍人・乃木勝典(のぎ かつすけ、1879-1904)。野木希典の長男。陸軍歩兵少尉として、ロシア軍との南山の戦いで戦死した。
乃木保典 近代の軍人・乃木保典(のぎ やすすけ、1881‐1904)。乃木希典の次男。陸軍歩兵少尉として、ロシア軍との旅順要塞203高地戦で戦死した。
村野山人 近代の実業家・村野山人(むらの さんじん、1848‐1921)。薩摩藩士の家に生まれた。兵庫県警部、神戸区長、山陽鉄道、豊州鉄道、神戸電気鉄道などを経営し、神戸商法会議所会頭、衆議院議員(当選2回)となる。1912年、明治天皇の大葬に参列し、乃木夫妻の殉死を知る。乃木希典の1周忌に京阪電鉄取締役職を辞し、全私財を投じて乃木神社を創建した。
摂社 山城えびす神社は、1927年に「静魂七福社」(しずたましちふくしゃ)として建立された。乃木静子刀自之命と七福神が合祀され、「静魂さん」と呼ばれていた。その後、摂社・静魂神社の乃木静子刀自之命は本殿へ遷された。
 創建90周年を機に社殿が改修される。七福神を祀り、蛭子皇子(えびす様)を首座に迎えた。神前には、狛犬に代わり大鯛が据えられている。
 えびす祭(1月9-11日)。
◆建築 「神門」は、近代、1916年に建立された。樹齢3000年という台湾阿里山(ありさん)の檜1幹で建てられた。扉は継ぎ目のない一枚板(1.8m以上)を用いている。施工・大林組、木造、四脚入母屋造、銅板葺。
 「拝殿」は、近代、1916年に建てられた。ロシア将軍より贈られたものという。桃山御陵に対面しており、社殿は北面する。当初は正面中央間に桟唐戸、四方に蔀戸(現在はアルミサッシ)だった。組物に舟肘木。設計・設楽貞雄(神戸建築工務所)、施工・大林組。入母屋造、銅板葺
 「本殿」は、近代、1916年に建てられた。拝殿の南にあり、桃山御陵に背は向けられないとして北面する。神殿は本来、南面か東面しているという。楠正成を祀る湊川神社(神戸市)を模している。設計・設楽貞雄(神戸建築工務所)、施工・大林組。虹梁、木鼻なども見られる。桁行梁間3間(5.5m)、正面に向拝(1.8m)。一間社流造、銅板葺
 
「記念館」は、日露戦争(1904-1905)時、中国東北部柳樹房で、日本軍の第3軍司令部として使用された民家という。乃木は一年間使った。近代、1916年、神社創建時に、村野山人が現地の民家家主・周玉徳、周金夫妻から買い上げ移築した。内部には乃木将軍の寝室(奥の間)が再現されている。オンドルの設備がみられる。現在は展示施設として公開されている。外装の腰石には、5億年以上前に形成されたという「漣痕(小波の痕跡)」模様の化石(正珪岩/石英質砂岩)が使われている。建物は石造、平屋建、当初は檜皮葺、現在は銅板葺。
 「長府乃木旧邸」が再現されている。
◆鳥居 大鳥居は、石柱の周囲2.3m。花崗岩製。閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、1865‐1945)の真蹟が掛る。伏見宮邦家(くにいえ)親王の第16王子であり、陸軍大将、元帥、参謀総長などを歴任した。
◆愛馬の像 境内には、璞号(あたらまごう)、壽号(すごう)の銅像が立つ。2頭は乃木の愛馬だった。ロシアの将軍ステッセルから贈られた白馬とその子になる。第二次世界大戦で金属供出となり、1981年に再鋳造された。
 アナトーリイ・ミハーイロヴィチ・ステッセル(1848-1915)は、日露戦争時、旅順要塞司令官であり、旅順攻囲戦では乃木希典の第3軍と戦った。当初、籠城戦により勝利したものの、203 高地を奪われるなどして降伏開城する。その責任により、1908年に軍法会議により死刑宣告を受ける。乃木の助命運動により減刑釈放されたという。その後、モスクワで茶商人などをしていたという。
名水 創建時以来、名水「勝水」が湧き、勝運の縁起水として知られていたという。その後、周辺の開発により枯渇していた。2007年に復活し、現在は、伏見名水の同じ水脈、地下80mから取水されている。
◆樹木 乃木将軍とステッセル将軍の会見の際に、旅順の北郊外にあった民家の水師営の庭に生えていたという棗(ナツメ)の樹が移植された。弾痕が残る棗の萌芽を移したという。記念館左にもある。
 1905年の水師営の会見では、旅順開城を申し出たステッセル将軍と乃木将軍は会見し、調印式が行われた。戦前の国語教科書には、この敵味方を隔てた会見の様が美談として掲載されていた。
◆年間行事 初詣(1月1日-3日)、慰霊祭(5月第3日曜日)、例祭(11月3日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『新日本ガイド京都』『京都大事典』『京都まちかど遺産めぐり』『京都の近代化遺産』『新版 京・伏見 歴史の旅』『京の福神めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』


  関連・周辺明治天皇陵(桃山陵)      周辺       関連          

村野山人像

「すべてに勝ちま栗」の絵馬



山城えびす神社

山城えびす神社、狛鯛

山城えびす神社


記念館


記念館入口と祖霊神


宝物館、乃木希典の遺品、遺墨・遺品、関連の史資料、日露戦争前後の関係資料を展示している。


宝物館、乃木夫妻像と、希典の遺品。

長府乃木旧邸、父・希次は、江戸の長府藩剣術・礼法の小笠原指南番だった。幕末、藩主の要請で藩の改革を提言したところ、快く思わない幹部により、一家は江戸を追われる。長府に閉門蟄居の身となり、家族は慎ましい生活を強いられた。

長府乃木旧邸、家計を助けるため、近所から頼まれた米を搗きながら本を読む希典少年。また、母の焼く塩煎餅を売っていたという。

長府乃木旧邸、毎朝、父・希次(左)は出仕前に、希典に家庭訓「乃木いろは」を訓示していたという。希典(右)とその奥は母・寿子の像。希典の甥にあたる彫刻家・長谷川栄作の塑像。


璞号(あたらまごう)(上)、壽号(すごう)



笑獅子、もとは板倉屋敷にあったものという。かつてこの地には屋敷に植えられていた樹齢400年というクロマツが生い茂っていた。最後の一本は、1960年に枯死した。


旧海軍将兵慰霊碑「蒼海に眠る若人の碑」と「吾妻」の主錨、 「吾妻」は装甲巡洋艦、9300t、主錨は3.8t。フランスで起工された。連合艦隊に編入され日本海戦に参戦、昭和初期に舞鶴湾に係留され、海軍兵の練習艦となる。1944年に解体された。

「乃木将軍景仰の碑」、大阪の一女史に依頼されて徳富蘇峰が揮毫したという。女性は、日露戦争後に大阪浜寺に送られていたロシア人捕虜の労苦をねぎらい、自宅に碑を建立したものを後に神社に寄進した。

乃木希典の歌碑「国のため力の限りつくさなむ身のゆく末は神のまにまに」、1912年

乃木とステッセルの会見の際、水師営の庭に生えていたという棗の樹が移植されている。

北に位置する桃山御陵を境内から望む。


乃木の名水という「勝水」、その隣にある全てに勝ちま栗の祠、ご神体は栗色の栗石。病気平癒、勝運縁起水。
 乃木神社 〒612-8028 京都市伏見区桃山町板倉周防32-2    075-601-5472  8:00-17:00
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