大黒寺(薩摩寺) (京都市伏見区)
Daikoku-ji Temple
大黒寺(薩摩寺)
 大黒寺(薩摩寺)
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本堂


本堂、「円通」の扁額


おさすり 大黒さん











 大黒寺(だいこくじ)は、薩摩寺(さつまでら)ともいわれる。山号は円通山という。
 真言宗単立の寺、本尊は秘仏の大黒天(出世大黒天)。
 大黒天は、京都大黒天霊場(京の大黒天めぐり)第6番札所。伏見五福めぐりの一つ、大黒天。出世開運、子授けなどの信仰がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代初期、真如法親王(799-865)が開基という。当初は、円通山長福寺と称した。真言宗仁和寺の院家・尊寿院に属した。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉が深く信奉し、武家の信仰も篤ったという。
 江戸時代、1615年、慶長年間(1596-1615)とも、薩摩藩主・島津義弘が寺名を大黒寺に変えた。薩摩藩邸に近い長福寺に、島津家の護り本尊・大黒天像(出世大黒天)が安置されていた。義弘自身の護り本尊であったことから、伏見奉行・山口駿河守に懇願し、薩摩藩の祈祷所にしたという。以後、薩摩寺とも呼ばれる。 
 後に、大黒寺に改められた。
◆真如法親王 平安時代初期の皇族・僧侶・真如法親王(799-865)。高岳親王。第51代・平城天皇の第3皇子。在原業平は甥にあたる。809年、第52代・嵯峨天皇即位により立太子となる。810年、平城太上天皇の変(薬子の変)で皇太子を廃された。822年、出家し真如と改め、奈良の宗叡・修円、弘法大師の十大弟子の一人となり、高野山に親王院を開いた。855年、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。862年、明州(寧波)に渡り、長安・西明寺に入る。865年、広州より海路天竺を目指し、以後消息不明になった。881年、羅越国(マレー半島南端)で亡くなったともいう。
◆島津義弘 安土・桃山時代-江戸時代の武将・島津義弘(1535-1619)。貴久の子、義久の弟。1564年、日向飯野、1585年より、肥後守護代を務めた。1587年、豊臣秀吉より大隅一国と日向国真幸院を安堵され治めた。1589年、大隅国栗野に居城を移る。朝鮮を攻めた文禄・慶長の役(1592-1598)、関ヶ原の戦(1600)にも参加した。
◆平田靭負 江戸時代の薩摩藩家老・平田靭負(1704-1755、ひらた ゆきえ)。薩摩に生まれた。薩摩藩勝手方、1748年、家老職。1753年、木曾・長良・揖斐川三川分流工事の大名御手伝普請の総奉行に就く。難工事になった木曽三川「宝暦治水」(1754-1755)は、平田以下、薩摩義士350人が参加した。わずか一年の間に行われた第一期、1755年の第二期では、堤防工事の延長距離は112kmに及んだ。大榑(おおくれ)川の洗堰と油島(あぶらじま)の締切堤防が行われている。だが、工事責任をとって切腹した者51人、赤痢に倒れた者15人、そのほかの病死者33人に及んだ。経費も300万両(見積30万両)にかさんだ。工事は幕府により、薩摩藩の勢力を削ぐ意味があった。平田は工事犠牲者の責を負い、自ら築いた堤上で、故郷の方角に三拝し切腹した。介錯は土木学者・伊集院十蔵による。
 遺体は伏見の薩摩藩邸まで運ばれ、大黒寺に埋葬されている。境内に顕彰碑も立つ。
◆有馬新七 江戸時代末期の攘夷派の薩摩藩士・有馬新七(1825-1862)。薩摩に生まれた。1843年、江戸の山口重昭の門で山崎闇斎に学ぶ。1858年、京都に入り、水戸、長州、越前の志士らと井伊幕政の打倒、暗殺を謀り挫折した。1859年、誠忠組に参加し過激派となる。平野国臣、真木保臣らと京都での挙兵計画を謀る。1862年、公武合体派の島津久光の率兵上洛に随従する。関白・京都所司代襲撃を計画し、伏見の寺田屋に移る。久光は中止を命じ使者を送るが、抵抗し薩摩藩により粛清された。
 大黒寺に墓がある。
◆伏見義民 境内本堂前脇に「伏見義挙殉難士之墓地」の碑が立つ。当地には、伏見義民(天明伏見義民、伏見義民一揆)の遺髪が納められている。伏見義民は、天明伏見義民、伏見義民一揆とも呼ばれた。
 江戸時代、1779年、3代伏見奉行・小堀政方(こぼり まさみち)が着任する。当初は善政をしく。後に愛妾・お芳に溺れ、以来、7年間に賄賂、博打、遊興により10万両(12万両とも)の御用金で私腹を肥やした。奉行所が、着船や船客から石銭を取り上げていたことに端を発し、1785年、人足の組頭や町年寄りが取りやめの沙汰を申し出る。
 1785年、7月26日、町年寄の文殊九助(刃物鍛治)、丸屋九兵衛(農業)、麹屋伝兵衛(麺製造業)、伏見屋清左衛門(塩屋)、柴屋伊兵衛(薪炭商)、板屋市右衛門(製材業)、焼塩屋権兵衛(器製造業)ら7人は、江戸幕府・松平伯耆守に直訴した。これらは死を覚悟したものだったという。彼らに関与した者は200人にものぼる。
 願書は却下になり、告発した7人が投獄された。1787年に松平定信が老中になり、町人側の訴えがほぼ認められた。小堀正方は伏見奉行を罷免され、領地没収、大久保加賀守へのお預け、お家断絶となる。7人に対して、田沼意次に代わり老中首座となった松平定信が赦免を申し渡したが、時遅く、皆、病死や牢獄死していた。
◆寺田屋事件 墓地に「伏見寺田屋殉難九烈士之墓 西郷隆盛先生建之書亦直筆也」の石標が立つ。
 江戸時代末、1858年-1859年の安政の大獄後、尊攘派は結集する。これらの倒幕の機運を削ぐために、1862年、2月11日、将軍・徳川家茂と皇女・和宮の婚儀が執り行われる。薩摩藩主父の最高権力者・島津久光は、幕府と長州藩による公武合体策の失敗後は、雄藩連合による公武合体での立て直しを謀る。3月16日、朝廷と幕府の周旋名目により、1000人の藩兵を率いて上京を決する。
 尊攘派の有馬新七ら薩摩激派、久留米の祠官・真木和泉、中山家の青侍・田中河内介らはこの動きに呼応し、降嫁責任者の関白・九条尚忠、京都所司代・酒井忠義の殺害を狙うクーデタ計画を立てた。長州藩挙兵の約束も取り付ける。薩摩藩の西郷隆盛は禁足になり、尊攘派の沈静化に失敗する。久光は4月16日に入京した。
 4月23日、有馬ら薩摩藩士10数人は、大坂の藩邸より抜け、三十石船で寺田屋に移り、真木、田中らも伏見に集結していた。久光は朝廷より浪士鎮撫の命を受ける。
 深夜、寺田屋には志士40人ほどが集結していた。奈良原喜八郎、大山格之助ら9人の鎮撫使が宿に派遣され、有馬らの暴発を防ぐために説得が行われた。会談は決裂し、奈良原が「上意」と叫び薩摩激派に斬りつけた。戦闘になり、有馬、田中謙助、柴山愛次郎、橋口伝蔵、橋口壮介、弟子丸竜助、西田直太郎の6人が殺害される。田中謙助、森山新五郎左衛門は重症を負った。翌日、2人は伏見藩邸で切腹になった。鎮撫側の道島五郎兵衛も死亡している。
 久光は、この薩摩藩士同士討ち事件後、幕政に介入する。関白・九条尚忠は辞任、一橋慶喜は将軍後見職に、松平慶永は政事総裁職に任命させた。お登勢は、犠牲者の葬儀を取り仕切ったという。大黒寺には、有馬ら9人の墓がある。呉服商・井筒屋伊兵衛は、寺田屋に手代とともに駆けつけ、志士らの遺体を白木綿で包み大黒寺に運び葬ったという。だが、当初は志士らは「上意討ち」とされ、墓石もなかった。後に、西郷隆盛は墓碑銘を書き、手厚く葬っている。
◆精忠組 精忠組(誠忠組)は幕末の薩摩藩に存在した藩内組織をいう。もとは、秩父季保が愛読した朱子学の『近思録』を輪読するために西郷隆盛、大久保利通らが結成した。藩内尊攘派が集まり、後に精忠組、誠忠組と呼ばれた。
◆仏像 本堂前脇内の金張り厨子内に秘仏の本尊、「大黒天」(24㎝)が祀られている。蓮上に乗る。「伏見大黒天」「出世大黒天」とも呼ばれている。かつて、薩摩島津藩の念持仏であり、武運長久を祈願した。かつては、60年毎の甲子の年に限り開帳されていた。現在は9月の大黒天大祭で1日だけ開帳されている。京都大黒天霊場第6番札所になる。毎月1日にはお水が供えられ、毎月7日に大日講により護摩が焚かれる。毎月15日にも護摩が焚かれる。
 御前立の「大黒天」(20cm)が祀られている。両脇に「不動明王」、「毘沙門天」を安置している。
 本堂右に「観世音像」を安置する。長福寺の旧本尊になる。
◆建築 本堂は、宝形造になる。 
 江戸時代末期、西郷隆盛や大久保利通などが国事を論じたという一室が残されている。
◆文化財 九烈士ゆかりの遺墨、歌、肖像、遺品などを所蔵する。 
◆墓 本堂脇に「薩摩義士碑」(1919)が立つ。江戸時代の薩摩藩家老・平田靱負を顕彰する。墓地に、平田靭負の墓、五輪塔がある。
 本堂前脇に「伏見義挙殉難士之墓地」の碑が立つ。伏見義民(天明伏見義民、伏見義民一揆)の遺髪が納められている。墓地にも墓がある。
 墓地に「伏見寺田屋殉難九烈士之墓 西郷隆盛先生建之書亦直筆也」の石標が立ち、左側に9基の墓石が立つ。江戸時代末期、1862年の寺田屋事件により、同じ薩摩藩士から粛清された薩摩藩内の勤王組織「精忠組(誠忠組)」の犠牲者を葬る。有馬新七(1825-1862)ほか、田中謙助(1828-1862)、橋口伝蔵(1831-1862)、柴山愛次郎(1836-1862)、弟子丸竜助(1838-1862)、橋口壮介(1841-1862)、西田直五郎(1838-1862)、森山新五左衛門(1843-1862)、山本四郎(1839-1862)の9人が眠る。
◆名水 境内に「金運清水(きんうんしみず)」が湧く。2001年に新しく掘られた。
◆年間行事 節分会(2月節分)、大黒天大祭(本尊の大黒天の開帳)(9月第日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『新版 京・伏見 歴史の旅』『京都案内 歴史をたずねて』『京都大事典』『新選組と幕末の京都』『京の福神めぐり』『平成28年度春期 拝観の手引』
 
 

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 大黒寺(薩摩寺) 〒612-8062 京都市伏見区鷹匠町4  075-611-2558
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