船岡山 (舟岡山) (京都市北区)
Mt.Funaoka-yama
船岡山 船岡山  
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船岡山(手前の小高い丘)


船岡山山頂


船岡山山頂の巨岩、磐座(いわくら)


市内の眺望、「舟岡のともべに立てる白雲の立分かるるも哀とぞ思ふ」(古今和歌六帖)




山頂の三等三角点、標高111.89m、北緯35度2分、東経135度44分


中腹、「史跡 船岡山」


中腹、かつての山城の塹壕跡、山の中腹部に300mにわたりある空堀跡


中腹、「応仁永正戦跡」の石碑
 紫野の船岡山(ふなおかやま、舟岡山、111.89m)は、独立丘状地になる。近年では「葛野(かどの、京都)三山(ほかに、吉田山、双ヶ岡)」の一つといわれている。
 かつて山の東と南は断崖であり、東には大池があった。山が海に突き出した舳先と見えたことから「船岡山」と名付けられた。船岡には、水辺に臨み人を収容する容物の意味がある。
 現在、船岡山公園と建勲神社(たけいさお じんじゃ)からなり、全域が国史跡に指定されている。
◆歴史年表 古代(奈良時代-平安時代)、船岡山は、神の降臨する磐座(いわくら)として崇敬された。
 飛鳥時代、皇族・政治家の厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)は、船岡山が後に皇城の地になると予言したという。(『日要集覧』) 
 平安時代、794年、平安京遷都の際に、船岡山は北の基点になり、四神の玄武(北方の守護神)に当てられた。山は、「大地の生気がほとばしり出る地・玄武の小山」とされ、山の真南に大極殿が置かれ朱雀大路(幅85m)が引かれた。
 平安時代、景勝の地として王朝人の「禁野(しめの)」として遊宴・遊猟なども行われた。「七野」といわれ、菜の花、山菜の名所になる。
 藤原時代(平安時代中期-後記、894-1285)、邪気を祓うため、正月初子の日に野山に出て、小松、若菜を摘む「子(ね)の日の宴」という風習も行われた。
 第53代・淳和天皇(在位823-833)の「紫野院」、賀茂社「紫野斎院」が置かれた。
 第64代・円融天皇(在位969-984)の「円融院」も置かれた。
 三条上皇(第67代、976-1017)をはじめ、多くの皇室がこの地で火葬にされた。山の南西に蓮台野火葬場(千本火葬場)が置かれ、近代に廃されるまで続く。天皇陵、庶民の墓地もあり、近代に他所へ移されるまで存在した。
 985年、円融天皇は「子の日遊」を行う。
 1000年頃、「岡は船岡、片岡、鞆岡」と筆頭に記されている。(『枕草子』)
 1156年、保元の乱では、源為義らがこの地で斬首される。 
 中世(鎌倉時代-室町時代)、丹波から長坂口を経て洛中へ入る、都の北の入口として注目された。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では、西軍・山名宗全方の軍事拠点の一つになり城が築かれた。
 1468年、東軍・細川勝元が船岡山城を攻略し落城させる。
 1511年、細川高国・大内義興と細川澄元の間で船岡山合戦(船岡山永正の戦い)が起こる。
 安土・桃山時代、1582年、織田信長没後、豊臣秀吉は信長の菩提寺「天正寺」の建立計画を立てる。だが、実現しなかった。寺地の大半は、大徳寺が領した。
 近代、1880年、信長を祀る建勲神社が建立される。
 1931年、山一帯が船岡山公園になる。
◆円融天皇 平安時代中期の第64代・円融天皇(えんゆう てんのう、959-991)。第62代・村上天皇第5皇子、母は藤原師輔の娘・皇后・藤原安子、第63代・冷泉天皇の同母弟。969年、安和の変後に冷泉天皇に代わり11歳で即位した。984年、花山天皇に譲り、太上天皇と称せられた。985年、落飾、円融院に住し風流文雅の生活を送る。969年、16年間の在位中に藤原兼通、兼家兄弟の政権争いが起こる。984年、第65代・花山天皇に譲位、985年、病により出家(法号は金剛法)。出家後も花山・一条朝に口出した。風流文雅の生活を送り、御願寺である円融寺で亡くなる。陵は後村上陵(右京区)にある。
◆三条天皇 平安時代中期の第67代天皇・三条天皇(さんじょう てんのう、976-1017)。第63代・冷泉天皇の第2皇子、母は摂政藤原兼家の娘・超子。4半世紀の東宮時代の後、1011年、即位。伯父・藤原道長は、外孫・敦成親王(後の第68代・後一条天皇)の即位実現を望み、再三にわたり譲位を迫る。1016年、天皇は第1皇子・敦明親王の立太子を条件に、道長の枇杷殿で譲位した。翌年に死去し、船岡山で火葬にされた。陵は北山陵(北区衣笠)にある。
◆源頼仲 平安時代末期の河内源氏武将・源頼仲(みなもと の よりなか、?-1156)。源為義(1096-1156)の子。1156年、皇位継承の争いと藤原氏内部の勢力争が絡んだ保元の乱では、父・為義に従い、崇徳上皇・藤原頼長方として参戦敗北する。敵方の平清盛・後白河天皇方の兄義朝(1123-1160)に降参する。義朝によって助命嘆願されるが、兄・義朝により父とともに船岡山で斬られた。
◆磐座・四神相応 船岡山山頂には、かつての祭祀の場といわれる巨岩(チャート)が露呈している。磐座(いわくら)であり、神が降臨する場所ともされた。
 船岡山は、朱雀大路(横幅84m、現・千本通)の北にあたる。平安時代、794年の平安京造営に際して、縦(南北)の線、正中線(中心軸)に当てたといわれている。この時、北の船岡山とほぼ真南に位置している甘南備山(京田辺市)の2点が線上に結ばれたとされる。船岡山は国見山として機能した。さらに、平安京の横(東西)の線は、東が神楽岡(吉田山)、西が双ヶ岡だったともいう。これら、船岡山、神楽岡、双ヶ岡を総称して近年では「葛野三山(かどのさんざん)」と呼ぶ。
 平安京造営では、安定した「平安楽土」の地として山背国の地が選ばれた。土地の選定には、地勢の吉凶を占う、当時の最新技術である「風水」が取り入れられる。風水は、古代中国の陰陽思想、五行説に基づく道教思想により生まれた。「気」の集まる理想の地には、四方に霊獣が配された。
 東に青龍(せいりゅう)の河川(鴨川)、西に白虎(びゃっこ)の大道(山陽道、山陰道)、北に玄武(げんぶ、亀と蛇の合成)の山(船岡山)、南に朱雀(すざく、鳳凰)の池泉(巨椋池、おぐらいけ)が配された。この中央、黄龍(おうりゅう)の地に宮廷を置いた。
◆御霊会 平安時代、859年、陰陽寮により、五穀を食い荒らす虫害を祓う祭りが船岡山で行われている。
 994年、都で流行った疫病退散のための御霊会が船岡山で行われた。木工寮(もくよう)・修理職(しゆりしき)の作った神輿二基に、素盞鳴命の斎をこめて山に安置された。その後、人形(ひとがた)を乗せた神輿は、難波江の海に流された。この時、都の人々は山に登り、傘に風流を施し、囃しにあわて踊った。(『日本紀略』)。これは、疫神を神威により京中から追い払う、疫神鎮送の意味があった。紫野御霊会、今宮祭、出雲路御霊堂などの起源とされている。
◆戦場 平安時代、1156年の保元の乱では、源為義(1096-1156)の子ら全員がこの地で斬首されている。
 軍事的要衝として戦場にもなった。室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)では、西軍の山名宗全方の軍事拠点のひとつになり、城が築かれた。1468年、東軍の細川勝元(1489-1520)は、西軍の留守を狙い、船岡山城を攻略し、落城した。以後、船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれる。
 室町時代、1511年、船岡山合戦(船岡山永正の戦い)は、室町幕府の政権をめぐる戦いだった。足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と、足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた。内藤貞正、大内義興らの攻勢により澄元は敗北した。
◆天正寺
 安土・桃山時代、1582年の本能寺の変後、主君の仇をとった豊臣秀吉は、船岡山で織田信長の法要を行う。一体の信長木像を焼き、灰を、新しく建立した大徳寺の総見院に埋めて菩提寺とした。
 秀吉は、船岡山と大徳寺をつなぐ長廊を造り、船岡山東麓に「天正寺」という新しい信長の菩提寺を建立しようとした。もう一体の信長木像を寺に安置する予定だった。
 1584年末、第106代・正親町天皇から、元号寺院として「天正寺」の寺号を得る。開山予定の大徳寺の古渓禅師が計画を進めた。計画は石田三成により頓挫し、古渓禅師は秀吉により博多に配流された。信長木像は現在、大徳寺塔頭・総見院に祀られている。
◆文学 平安時代、清少納言(966?-1025?)は、「丘は船岡、片岡、鞆岡」(『枕草子』)と讃えた。
 平安時代の官人・歌人の清原元輔(908-990)は「船岡の若菜つみつつ君がため子の日の松の千代をおくらむ」と詠んだ。
 鎌倉時代末期の吉田兼好『徒然草』には、葬送地として描かれている。
◆森・野生生物 現在、船岡山公園内の森は、京都盆地特有の丘陵部にアラカシなどの照葉樹の樹相が保たれている。樹種が多く、まだ、帰化植物もほとんど入り込んでいない貴重な森になる。1997年の「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「船岡山」として選定された。
 ヤマトムチゴケ(苔類、準絶滅危惧種)が見られる。
◆鴎外 森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』では、主人公が、山の西麓付近で主君・細川三斎忠興の後を追い殉死する。明治天皇の死に際し、夫婦で殉死した軍人・乃木希典(1849-1912)に物語は重ねられている。
 戦国・江戸時代前期の武将の忠興(1563-1646)は、重臣・興津弥五右衛門を長崎に遣わし、舶来した香木・伽羅を手に入れようとする。五右衛門は、同じく香木を調達に来ていた仙台藩・伊達政宗の家臣と争いになり、相手を討ってしまう。主君は、五右衛門を赦すが、五右衛門は忠興の三周忌を待って、船岡山の麓で殉職した。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都府の歴史散歩 上』『京都歩きの愉しみ』『京都大事典』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都の地名検証』『京都の地名検証 2』『京都の地名検証 3』『古代地名を歩くⅡ』


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