黄梅院 〔大徳寺〕 (京都市北区)
Oubai-in Temple
黄梅院 黄梅院 
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表門








右から、「萬松院殿・織田信秀公霊所、洞春寺殿・毛利元就公家一門霊所、小早川隆景卿墓所、蒲生氏卿公墓地」の石標





庫裏





















鐘楼
 大徳寺境内の南東に塔頭の黄梅院(おうばいいん)はある。 
 臨済宗大徳寺派大本山。本尊は釈迦如来。
 御朱印(特別拝観時)が授けられる。
歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 室町時代、1562年、織田信長は、父・信秀の追善菩提のために、京都所司代・羽柴秀吉に命じ、小庵、黄梅庵を建立させた。開祖は、大徳寺98世住持・春林宗俶(しゅんりん そうしゅく)による。庵名は、弘忍大満ゆかりの中国黄梅県破頭山東禅寺に由来する。
 また、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、小早川隆景が春林宗俶を開山として創建したともいう。没後、その法名により院号としたともいう。(『都林泉名勝図会』)
 1582年、本能寺の変で自刃した織田信長密葬後、塔所として黄梅庵が改築された。同年、豊臣秀吉は、主君・信長の塔所としては「小なり」とし、大徳寺山内に総見院を建立した。秀吉により黄梅院の本堂、唐門が造営される。
 1586年、2世・玉仲宗琇(ぎょくちゅう そうしゅう)の時、秀吉により本堂、唐門が改修されたともいう。同年を創建年ともする。小早川隆景の協力があったともいう。
 1588年、小早川隆景を開基とし、春林宗俶を開祖として創建されたともいう。黄梅庵が落成する。
 1589年、1588年とも、黄梅庵より院号の黄梅院に改称されたともいう。開祖を玉仲宗琇が辞し、師・春林宗俶が勧請開祖になる。小早川隆景の普請奉行のもとで庫裏、表門が改築され、本堂(客殿)が建てられたともいう。以後、小早川家塔頭所になり、毎年寺領100石が寄進される。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、小早川家宗家の宗家・毛利氏が外護した。
 元和年間(1615-1624)、5世・旧嶽宗容溪は法系が絶え、藍溪宗瑛を嗣法し、大慈院下になる。
 1652年頃、書院が建てられたという。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、南派独住により護持される。
 現代、1977年、本堂が解体修理される。
 1985年、庫裏が解体修理になる。
 1999年、茶室「一枝庵」が完成した。
◆春林宗俶  室町時代後期の臨済宗の僧・春林宗俶(しゅんりん そうしゅく、1488-1564)。丹後に生まれた。大徳寺の悦溪宗忢、小溪紹怤に参じ、91世・徹岫宗九を嗣ぐ。1536年、養徳院に居した。1544年、大徳寺98世となる。但州に円通寺創建、織田信長の帰依を受け、泉州堺に禅通寺を再興する。1553年、第105代・後奈良天皇より仏通大心禅師の諡号を贈られる。黄梅院が塔所になる。
◆弘忍 隋-唐時代の中国禅宗の五祖・弘忍(ぐにん/こうにん、602-675)。黄梅県(湖北省)、また、淮左潯陽(江西省)に生まれたという。東山の四祖道信の弟子となり、黄梅県の憑茂山(東山)で東山法門を発展させ、中国禅宗の下地を作った。大満禅師の諡号がある。
◆玉仲宗琇 室町時代-江戸時代の僧・玉仲宗琇(ぎょくちゅう そうしゅう、1522-1604)。日向の人。春林宗俶の法嗣、1570年、大徳寺112世。小早川隆景、今井宗久らと親交をむすぶ。豊臣秀吉の信により、1588年、山内に秀吉の母・大政所(1513-1592)のために天瑞寺を開いた。和泉・禅通寺2世。1581年、正親町天皇から仏機大雄禅師の号をおくられた。天瑞寺に塔された。
◆蒲生氏郷 室町時代-安土・桃山時代の武士・蒲生氏郷(がもう うじさと、1556-1595)。近江国、日野城主・蒲生賢秀の子。13歳の時、織田信長の人質になるが、才を買われ次女冬姫を娶る。1582年、本能寺の変後、信長の弔い合戦で戦功をあげる。1590年、小田原討伐の功で豊臣秀吉より会津拝領となる。1592年、朝鮮の役へ加わる。キリシタン大名としても知られ、利休七哲の一人。1591年利休切腹後、養子・少庵(1546-1614)を会津に匿い、徳川家康とともに千家再興に尽力した。境内に墓がある。
◆大綱宗彦 江戸時代の僧・大綱宗彦(だいこう そうげん、1773-1860)。1820年、大徳寺435世に就く。茶の湯に堪能で、当世の茶人と交流した。日記『空華室日記』77巻を記した。
◆雲谷等顔 安土・桃山時代-江戸時代の僧、画家・雲谷等顔(うんこく とうがん、1547-1618)。兵衛直治。雲谷派の祖。肥前国に生まれる。能古見城主・原豊後守直家の次男。家門絶え、上京して狩野派に入門。天正年間(1573-1592)末、安芸・毛利輝元に召し上げられた。1593年、輝元より雪舟系再興のため、雪舟の「山水長巻」、旧居雲谷軒を拝領、出家し、雲谷等顔と改めた。1600年、関ヶ原戦後、毛利氏削封の際に、毛利氏に従い萩に移る。1611年法橋、のち法眼。
 多くは水墨を残した。京都では大徳寺・黄梅院、東福寺・普門院に作品がある。連歌、茶の湯もよくした。雲谷派は山口で幕末まで続いた。
◆大曽根辰保 近現代の映画監督・大曽根辰保(おおそね たつほ、1904-1963)。千葉県生まれ。横浜高商中退。1925年、奈良・市川右太衛門プロダクション宣伝部に入る。1929年、松竹京都撮影所に移り助監督となり、衣笠貞之助らの下で修行、1934年「石井常右衛門」で初監督。1935年、高田浩吉主演の「大江戸出世小唄」、「お静礼三」(1937)、1938年の川浪良太郎主演物、「闇太郎懴悔」、「美女桜」「荒木又右衛門」などの秀作を監督する。戦後、1948年、鶴田浩二の「遊?の群れ」、1951年以降の嵐寛寿郎、美空ひばり主演の「鞍馬天狗」3部作、「花の生涯」など忠臣蔵物、幕末物の「大江戸の鐘・風雲編、開花編」(1958)などを監督した。
 大徳寺・黄梅院に墓がある。
◆天瑞寺 天瑞寺(てんずいじ)は、安土・桃山時代、1588年に豊臣秀吉の母・大政所が病になり、黄梅院の玉仲宗琇を開山として創建された。大政所の病は快癒し、玉仲に帰依して1592年に亡くなっている。
◆建築 「本堂」(重文)は、安土・桃山時代、1586年、豊臣秀吉により建立された。1977年に改修される。桁行14.8m、梁間12m。入母屋造、本瓦葺。方丈様式、室中・仏間、檀那の間、衣鉢の間、礼の間、大書院などがある。前に広縁、落縁、側背面にも広縁が付く。
 「書院」は、江戸時代、1652年頃に建てられた。益田元堯が建立し、明治期(1868-1912)に大改修された。
 本堂南の前庭東にある「唐門」(重文)も安土・桃山時代、1586年に建立されている。檜皮葺。
 「庫裏」(重文)は、安土・桃山時代、1589年、小早川隆景の寄進による。1986年に解体修理された。日本に現存する禅宗寺院の庫裏としては最古という。切妻造、板葺。火番寮、典座(てんざ)寮、納所(なっしょ)寮、知客寮、旦過(たんか)寮などの室があり、かつて70人の雲水が寝起きしていた。切妻造、板葺。桁行12.8m、梁間15.1m。
 「表門」は、安土・桃山時代、1589年、小早川隆景の寄進による。兜型門。
 現在の「鐘楼は、益田玄播守により建立されたという。獅子頭の彫刻が施されている。梵鐘は、安土・桃山時代、1592年、加藤清正により寄進された。朝鮮伝来といい、獅子頭の彫刻が施されている。
◆茶室 書院「自休軒」は、大徳寺開山・大燈国師(宗峰妙超、1282-1337)の墨書「自休」に因む。
 千利休(1522-1591)の師・茶人の武野紹鴎(たけの じょうおう、1502-1555)作の四帖半の茶室「昨夢軒(さくむけん)」がある。院内では最も古い。ただ、紹鴎作については異説もあり、造営も江戸時代後期ともいう。今井宗久好みともいう。住職・大綱宗彦(1772-1860)により現在の形に建てられたともいう。かつて、境内南東に独立して建てられていた。天正年間(1573-1593)に書院「自休軒」に組み込まれた。
 四畳半、上段の貴人床があり、囲え込み式という書院「自休軒」に組み込まれた形になっている。これは、書院座敷の続く一室を茶室として用い、屏風で区切り、囲(かこい)と呼んだことによる。席は北面に一間床、本勝手(客が主人の右手に座る茶席)で、床に向って右の壁の前が亭主が点前を行う点前座となり、亭主は向って左の襖を開けて中に入る。床に墨跡窓が開けられている。炉は四畳半切り、大目床、棹縁天井、大面取り長押の書院風。
 1999年、裏千家15代鵬雲斎家元好みの「一枝庵」が建立される。
 ほかに「不動軒」(四畳半)、鵬雲斎家元好みの「鳳来庵」(五畳半中板)・「玄徳軒」(二十畳)・「関庵(立札席)がある。
◆文化財 本堂中に安土・桃山時代、17世紀初頭、雲谷派の祖・雲谷等顔(1547-1618)の水墨壁画、室中に「竹林七賢図」16面(重文)がある。余白を生かした構図による。檀那の間に「西湖図」14面(重文)。礼の間に「芦雁図」14面(重文)がある。これらは、1598年の小早川隆景の寺内整備の際に制作されたものという。
 自休軒に江戸時代、雪舟4代・雲谷派の雲谷等益(1591-1644)、北西の間に江戸時代中期の南宋画の小田海遷(1785-1862)の襖絵8面がある。
 「黄梅院文書」(京都大学現蔵)。
◆庭園 本堂の周囲に3つの庭がある。
 ①本堂南の前庭「破頭(はとうてい)庭」は、安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)に作庭された。破頭とは悟りの境地に達することをいう。手前に広がる白川砂の波紋(海)の奥に、東西に直線で引かれた桂石を境にして、南面約三分の一に苔地(陸)がある。
 本堂西端の檀那の間正面に、観音菩薩、勢至菩薩を表したともいう大小二石、聴聞石の立石がある。側面から見ると石は丸みを帯びている。また、二石は釈迦の弟子、左の摩訶迦葉尊者(まかかしょうそんじゃ)と阿難尊者(あなんそんじゃ)ともいう。二石の左に親石の迦葉石がある。
 東(左)の石のもとに、小さな刈り込みがある。東端(左手)に、釈迦を表したという沙羅双樹(夏椿)が植えられ、その右脇に人を表したという石が伏されている。釈迦にひれ伏す人を表すともいう。植栽はほかに松があり、築地塀の外には楓が植えられている。
 ②本堂西の「直中庭(じきちゅうてい)」は、千利休(1522-1591)65歳時の作庭という。池泉回遊式枯山水庭園になる。その名は、論語中の「直きことの其の中にあり」に由来する。秀吉の希望による馬印軍旗の瓢箪をかたどった枯池がある。
 大徳寺1世・徹翁義亨(1295-1369)が比叡山より持ち帰ったという不動三尊石、加藤清正(1562-1611)が朝鮮との文禄・慶長の役(1592-1598)の際に持ち帰ったという朝鮮灯籠などが据えられ、池には伏見城遺構という石橋が架けられている。
 ③本堂北の枯山水式の「作仏庭(さぶつてい)」は、北東に組まれた巨石の滝口の立石から流れた水は、西と南へ流れ下る。本堂東の中庭に回った流れに、小船に見立てた巨石、蓬莱山ともいう石が据えられている。さらに流れは、南の破頭庭へと注いでいる。
◆寮舎 向春院は、慶長年間(1596-1615)、元和年間(1615-1624)ともいう。大徳寺135世・黄梅院3世・宝叔宗珍(ほうしゅく そうちん)を開祖とする。黄梅院の門左にあった。清水景治が改修する。江戸時代、天明年間(1781-1789)に廃された。
 不動軒は、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)に創建された。
◆墓 室町時代、毛利元就(1497-1571)、その正室妙玖(1499-1546)夫妻、安土・桃山時代、小早川隆景(1533-1597)など元就の息子三兄弟、安土・桃山時代-江戸時代の信長二女・冬姫(1561-1641)と夫でキリシタン大名・蒲生氏郷(1556-1595)、毛利輝元(1553-1625)、江戸時代の南宋画の小田海遷、画家・雲谷友雪(?‐1635)、医師・16代・北小路貞一の墓所になっている。映画監督・大曽根辰保の墓がある。
◆年間行事 春・秋に特別拝観(限定の御朱印授与)。


*建物、建物内、庭園などの大部分は撮影禁止。普段は非公開、春秋に一部公開。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『禅僧とめぐる京の名庭』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 下』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『増補版 京の医史跡探訪』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 日本の美をめぐる 金と墨の 長谷川等伯』


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門前の石畳参道
 黄梅院 〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町83-1  075-492-4539  10:00-16:00

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