総見院 〔大徳寺〕 (京都市北区) 
Soken-in Temple
 総見院  総見院 
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織田家家紋の木瓜(織田木瓜)




本堂


本堂の扁額


近くにある鐘楼、安土・桃山時代、1599年建立、益田元祥らの寄進による。江戸時代、文政年間(1818-1830)に現在地に移転された。


茶室「寿安席」


茶室「寿安席」


茶室「寿安席」、一休禅師の掛軸
 大徳寺境内北西に、塔頭の総見院(そうけんいん)がある。 
 安土・桃山時代、本能寺の変(1582)後、織田信長(1534-1582)と織田家の菩提寺になっている。
 臨済宗大徳寺派。
歴史年表 安土・桃山時代、1583年、1582年とも、織田信長一周忌を迎え豊臣秀吉は、追善法要のために位牌所として建立した。寺名は、信長の戒名「総見院殿贈大相国一品泰厳大居士」に由来する。開山は玉浦紹琮、勧請開山は古溪宗陳(こけい そうちん)による。創建時には、広大な境内に豪華絢爛な堂宇が建ち並んでいたという。旧地は白毫院(びゃくごういん)であったという。堀秀政が供養の梵鐘を鋳造する。
 1585年、豊臣秀吉の関白任官に際して、茶会を催す。
 1588年、古溪宗陳が筑前に追放になり、玉甫紹琮(ぎょくほ じょうそう)が住持になる。
 豊臣秀吉(1537-1598)は300石を寄進した。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、御朱印配当高200石になる。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、大規模な破却が行われ、堂塔、伽藍、寺宝など多くが失われる。
 明治期(1868-1912)、大徳寺派専門道場として雲水修業の場となる。その後、廃寺になったともいう。
 大正期(1912-1926)、堂宇は再興されている。中頃、山口玄洞により龍翔寺が天瑞寺跡に再建され、専門道場は移されている。
 1928年、現在の本堂が禅堂を再興、改修して建てられる。
 現代、1961年、信長380年忌に本山に遷され安置されていた信長木像が、当院本堂に戻された。
◆古溪宗陳 室町時代-安土・桃山時代の僧・古溪宗陳(こけい そうちん、1532-1597)。浦庵。越前に生まれた。驢雪鷹灞(ろせつ ようは)を受業師として出家、下野足利学校に学び、江隠宗顕に参禅する。大徳寺・江隠宗顕、笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)に師事、大徳寺117世。1582年、織田信長の百ヶ日法要、秀吉による信長の葬儀で導師を務めた。豊臣秀吉により織田信長の菩提所の総見院開山に招請される。1585年、秀吉の堺・海会寺の再興者。1588年、信長の新たな菩提寺となる予定の天正寺建立を巡り、石田三成と対立、秀吉により一時、博多・大同院に蟄居。1589年、洛北市原・常楽庵、千利休の禅の師匠で、1591年、三門の利休木像事件で、利休切腹を中止させようとした。秀吉の大徳寺破却に抗し、自らの命を賭して阻止したという。1592年、大和・大光院に移る。
 秀吉の計画した天正寺、方広寺の開山は実現しなかった。大仙院第3世。諡は1596年大慈広照禅師。大仙院に塔された。
◆玉甫紹琮 室町時代-江戸時代の臨済宗の僧・玉甫紹琮(ぎょくほ じょうそう、1546-1613)。半泥子。山城に生まれた。三淵伊賀守晴院の子、細川幽斎の異兄弟に当たる。大徳寺・古溪宗陳の法嗣。1586年、大徳寺130世。 1588年、豊臣秀吉の命により古溪宗陳に代わり総見院2世。1613年、諡号は大悲広通禅師。高桐院に塔された。
◆徳姫 安土桃山・江戸時代の武家の女性・徳姫(とくひめ、1559-1636)。織田信長と生駒氏の娘。1567年9歳で三河国岡崎城主・松平信康に嫁した。信康父・徳川家康は浜松城で武田勢と攻防した。徳姫は信康母・築山殿と夫・信康が武田に通じたとし、信長に訴えた。信長は家康に命じ、1579年、信康を自害、築山殿は刺殺される。その真相は不明とされる。その後、徳姫は織田家に戻り京都に移る。娘は本多忠政と小笠原秀政の正室となる。墓は大徳寺・総見院にある。
◆仏像・木像 本堂(方丈)に、開祖・古渓宗陳の木像が祀られている。
 1583年作の衣冠帯刀の織田信長木像(重文)は、運慶、快慶の流れをくむ仏師・康清(こうせい/やすきよ)の手による。像底に「七条大仏師宮内卿法印康清作 天正十一年五月吉日」との銘があった。木像坐像は、眼力鋭く信長最晩年の面影を表しているという。衣冠束刀で115㎝(3尺8寸)あり、信長の等身大という。信長の身長は160㎝足らずと推定されている。
 信長木像は二体造られた。香木の沈香(ぢんこう、沈水香木、伽羅)で造られた木像は、1582年、大徳寺での信長葬儀の際に使われた。その際に、本能寺の灰とともに荼毘に付された。甘い香りは、都中に漂い匂ったという。現在の木像は、当初、船岡山東に建立される予定だった天正寺に安置される予定だった。その後、計画が頓挫したため、当院に安置された。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈では、木像は本山に避難した。1961年の信長380年忌に御輿に載せて当院本堂に戻された。
 本堂には、織田信長、織田家一族の位牌も安置されている。
◆建築 安土・桃山時代、1583年の創建当時の建物としては、正門と土塀のみがある。ほかは近代に入り廃仏毀釈により破壊された。
 正門左右に広がる土塀は、「親子塀」といわれている。空洞のある二重構造となっており、堀の内側にもう一つの堀が設けられる特殊な様式になっている。塀を強固にするためとも、内部の空洞部分に非常時に武士が隠れたともいう。大切なものを隠したともいわれている。
 「鐘楼」(重文)、「梵鐘」(重文)も創建当時のままに遺されている。1583年、信長家臣・堀久太郎秀政(1553-1590)の寄進による。鐘の銘文は、開祖・古渓宗陳による。明治期までは鐘楼を総見院が管理していた。
 現在の「本堂」は、かつてあった禅堂を1928年に再興、改修している。
◆茶室 大徳寺と茶道のゆかりは深い。北野大茶会(1587)に先立つ、信長追悼茶会の大徳寺大茶会(1585)では、当院方丈で秀吉自ら茶を点てたという。
 茶室は三席あり創建は新しい。一番北にある「寿安席(じゅあんせき)」は、大阪に「山口商店」を興した山口玄洞(1863-1937)が寄進した8畳で、襖には五色の桐の紋が見られる。一休禅師の掛軸が架けられている。
 「ほう庵」は3畳向切、「香雲軒(こううんけん)」(8畳)、書院(20畳、12畳)がある。  *(ほうは「广」の中に龍)
◆文化財 安土・桃山時代、1588年の「古渓宗陳画像」には自賛がある。
◆茶筅塚 茶筅の供養塔があり、4月28日に茶筅供養が行われている。
◆井戸水 境内にある掘り抜き井戸は創建当時の遺物という。石造りの井筒部分は、加藤清正が文禄・慶長の役(1592-1598)の際に、朝鮮から持ち帰ったものという。ひとつの朝鮮石を、繰り抜いて使用している。
 朝鮮から調達された石は、戦から帰船する際に、船の均衡を保つために使われたという。戦死した兵士分の重しとして、空船に代わりに石や灯籠を積んだという。
 井戸の深さは10m以上あり、鴨川の伏流水が今も湧く。水は、毎朝のお供えにも使われている。
◆胡蝶佗助 境内の胡蝶佗助(こちょうわびすけ、侘助椿)(京都市指定天然記念物)は、樹齢400年ともいわれ、日本最古という。安土・桃山時代、1583年の総見院の建立時に植栽された。豊臣秀吉が千利休より譲られて植えたともいう。枝が3本に分かれ、紅白の花をつける。茶人の切り花に重用された。樹高6.4m、東幹と西幹は地上75cmまで合着する。地上110cmで東幹より南幹、北幹が分れる。胸高幹周43-98cm。
 傍らに「豊公遺愛わびすけ」の碑が立つ。
◆墓 境内北の墓地には、織田一族、七基の五輪塔が立ち並んでいる。
 左(西)から、信長次男の信雄・嫡男(信長の孫)の秀雄(1583-1610)、信長の次男・信雄(1558-1630)、信長本人、信長嫡男・信忠(1557-1582)、信長の四男で、秀吉の養子となった羽柴秀勝(1568-1586)、信長七男・信高(1576-1603)、信長十男・信好(?-1609)。
 さらに西には、信長正室で斎藤道三の娘・徳姫(見星院、1535?-1612?)、信長の側室・興雲院(お鍋の方、? -1612)、信長の長女の徳姫(見星院、松平信康の妻、1559-1636)、ほかに五摂家のひとつで公家・近衛家の墓もある。
◆年間行事 一般公開(10月第1日曜日-12月第1日曜日)。


*通常は非公開。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『拝観の手引』『古寺巡礼 京都 17 大徳寺』『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』『京都・山城寺院神社大事典』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『京都の寺社505を歩く 下』『秀吉の京をゆく』『京都 神社と寺院の森』


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茶室「ほう庵」

茶室「香雲軒」

信長の木像を乗せた御輿は、回廊の下に吊り下げられている。

土塀の「親子塀」部分、中央の奥まった部分が空洞になっており、台形の空洞は塀の内と外両方にまたがっている。

掘り抜き井戸、井筒は朝鮮石という。大きな石をくり抜いて造られている。

掘り抜き井戸、今も水が湧く。

秀吉遺愛という樹齢400年の侘助椿。

境内東には、かすかに比叡山山頂を望むことができる。

織田一族、七基の五輪塔


織田信長の墓

茶筅塚
 総見院 〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町59   075-492-2630
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