霊源寺 (京都市北区) 
Reigen-ji Temple
霊源寺 霊源寺
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岩倉具視公旧蹟の碑


境内のサクラ
 西賀茂、五山送り火の船形山の東麓にある霊源寺(れいげんじ)は、霊源皇寺ともいう。山号は清凉(涼)山という。 
 臨済宗の単立寺院。本尊は釈迦如来。
◆歴史年表 江戸時代、1636年、1638年、後水尾上皇(第108代)の勅願により、仏頂国師(一絲文守、いっし ぶんしゅ)を開山として創建された。当初は、庵号の霊源庵と呼ばれる。
 1666年、後水尾上皇により勅額「霊源寺」、山号の「清涼山」を贈られ、寺号も霊源寺に改められた。
 1671年、御所・清涼殿の用材により、仏殿が建立されたという。以来、山号の由来になる。
 1678年、勅願所になる。
 1729年、霊元上皇(第112代)が行幸し、勅願所になった。
 1758年、宝暦年間(1751-1763)とも、宝暦事件の際に、岩倉尚具が当寺に隠れた。
 1862年、岩倉具視が当寺で落飾、隠棲した。
 現代、1998年、建築家・山口隆により庫裏「透静庵」が建てられる。
◆一絲文守 江戸時代前期の臨済宗の僧・一絲文守(いっし もんじゅ/ぶんしゅ、1608-1646)。山城国に生まれた。公卿・岩倉具堯(いわくら ともたか)の第3子。母は藤原基継の娘。8歳で禁中に奉仕し、14歳で相国寺・雪岑梵崟、堺・南宗寺・沢庵宗彭に参じた。1626年、槙尾山・賢俊により出家、再び沢庵に参じたが印可は許されなかった。1629年、沢庵の紫衣事件の出羽流罪に従う。洛西岡村に閑夢庵を結ぶ。1631年、丹波山国に庵を結ぶ。別に桐江庵を開く。後水尾上皇(第108代)の帰依を受け、1638年、西賀茂・霊源禅院を開き持戒禅を唱えた。明に渡ることを果たせず、妙心寺・愚堂東寔、雲居希膺につき愚堂の法嗣。1641年、桐江庵の北に法常寺を開く。1643年、近江・永源寺80世となり中興した。樫原・洞雲寺に庵を結び、日野・法明寺も再興する。
 詩・書画に優れ烏丸光広、小堀遠州、松花堂昭乗らと親交があった。1678年、諡号は定慧明光仏頂国師が贈られた。
◆岩倉尚具 江戸時代中期の公家・岩倉尚具(いわくら ひさとも/なおとも、1737‐1799)。父は植松賞雅、養父は岩倉恒具(つねとも)。養父とともに竹内式部に神道、儒学を学ぶ。仏頂国師が岩倉家の出身だった縁により、1758年、尊王論者が弾圧された宝暦事件に連座、養父とともに処分された。宝暦年間(1751-1763)、霊源寺に滞在した。1760年、許され、弟・広雅を養子とし家督を譲り隠居、出家した。1755年、正五位下、1756年、左兵衛佐、死後、従四位追贈。
◆岩倉具視 江戸時代後期-近代の公卿、政治家・岩倉具視(いわくら ともみ、1825-1883)。京都生まれ。前権中納言、参議正三位・堀河康親(やすちか)の次男。1838年、公卿・岩倉具慶(ともやす)の養子になり具視と称した。従五位下に叙せられ、昇殿を許された。1853年、関白・鷹司政通により歌道を学ぶ。1854年、第121代・孝明天皇の侍従、従四位下。1857年、天皇近習。1858年、日米修好通商条約締結に反対し、維新公卿88人で参内して抗議した。(「廷臣八十八卿列参事件」)。意見書「神州万歳堅策」を孝明天皇に内奏した。1860年、公武合体派として、天皇の妹・和宮の将軍家降嫁の上申書を提出した。1861年、正四位下、和宮に随行し江戸へ向かう。1862年、朝廷内攘夷派の台頭により具視は佐幕派と見なされ、「四奸二嬪」とされ弾劾により辞官、落髪、蟄居、霊源寺、西芳寺、岡崎・永陽庵(井窪寺)を経て、洛中よりの追放令で岩倉村に移る。1865年、公卿・中御門経之、薩摩・水戸・土佐藩士と交流した。1866年、近衛忠煕の復職に働き、幕命により桑名藩に監視下に置かれる。1867年、洛中帰洛を許され、王政復古に尽力した。1868年、明治新政府の議定兼輔相、1871年、外務卿、右大臣、特命全権大使として欧米歴訪(岩倉使節団)、1873年、太政大臣代理となり、西郷隆盛の征韓論を排した。1874年、赤坂喰違坂で暴漢に襲われ負傷。1880年、伊藤博文は大隈重信解任と国会開設の勅諭了承を具視に求め、具視は大隈を罷免する(明治十四年の政変)。1883年、京都御所保存の計画を立てたが、病により東京で没した。日本初の国葬が執り行われた。正一位太政大臣を追贈。「維新十傑」に数えられた。
 1862年、霊源寺で落飾、隠棲した。境内に歯牙(しが)塚がある。
◆三隅研次 近代現代の映画監督・三隅研次(みすみ けんじ、1921-1975)。京都市生まれ。立命館大学専門部商科卒業後、日活京都撮影所に助監督として入社。1942年、日中戦争に出征し、満州、シベリア抑留後、1947年、大映、1954年「丹下左膳 こけ猿の壺」で初監督、1960年、山本富士子の「千姫御殿」、同年市川雷蔵の「大菩薩峠」、1961年、日本初の70ミリ映画「釈迦」、1962年以降の勝新太郎「座頭市」、同年の市川雷蔵「婦系図」「斬る」、1964年以降の市川雷蔵「剣」三部作、「眠狂四郎」、1967年、傑作「なみだ川」がある。1971年、大映倒産後、1972年映像京都の立上げに加わる。1973-1974年、テレビドラマ「天皇の世紀」(ギャラクシー賞を受賞)も手がけた。
 墓は霊源寺にある。
◆山口隆 現代の建築家・山口隆(1953-)。京都市生まれ。京都大学の加藤邦男に学ぶ。建築家・安藤忠雄に師事した。1988年、理論研究グループARXを結成する。1992年、ベルリンシュプレーボーゲン都市開発国際コンペティションに入賞。山口隆建築研究所主宰。
◆仏像・木像 仏殿に本尊の「釈迦如来像」、「後水尾上皇像」、開山の「仏頂国師像」などを安置している。
 『都名所図会』には、本尊は日護上人作であり、脇檀に後水尾院像、開山像が安置されていたという。
◆建築 「仏殿」は清涼殿の材を用いている。単層、寄棟造、桟瓦葺。
 かつて境内に「鐘撞堂」があったという。鐘は東福門院の弁財天社と大仏殿の金仏の首を鋳直したものだったという。(『都名所図会』、再版本、1786年)
 庫裏「透静庵」は、1998年に建築家・山口隆により建てられた。構造はRC造、屋根部分はS造、地階2階。江戸時代に池があった地に、白い玉砂利が敷き詰められた庭がある。
 地表にはガラス張りの箱だけが姿を見せている。その地下に、床も壁も白い空間がある。光はこのガラス張りの天井からのみ差し込む。「白美の空間」「光の受容器」などとも呼ばれ国内外から注目を集めている。2001年、ベネディクタス国際建築賞を受賞した。
◆文化財 後水尾院の画像、宸翰、一絲文守頂相、墨跡など。
◆墓 岩倉具視の歯牙塚(しがづか)がある。岩倉尚具、岩倉家歴代の墓がある。映画監督・三隅研次の墓がある。
 

*非公開。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都の寺社505を歩く 下』『続・京都史跡事典』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』



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 霊源寺 〒606-0944 京都市北区西賀茂北今原町41  075-491-0334
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