飛行神社 (八幡市)
Hikou-jinja Shrine
飛行神社 飛行神社 
  Home   Home

鳥居、ジュラルミン製




本殿


本殿中央に饒速日命、右に航空殉難者の霊・航空業功績者、左に薬祖神・金毘羅・白龍神を祀る。
 金毘羅は忠八が讃岐・金刀比羅宮(船の神)を信仰していたことによる。忠八は、陸軍に軍機開発の上申書が拒否され、1896年に退役した後、金刀比羅宮に詣でている。この時、開発資金獲得と、大臣・大将と面談可能な身分、発動機の製造工場、試乗場所の確保などの誓いを立てた。
 白龍神は境内に出現した白蛇を地主神として祀った。


常盤稲荷神社


 八幡市の飛行神社(ひこう じんじゃ)は、「日本の航空機の父」といわれた二宮忠八により建立された。世界の航空機事故による犠牲者、航空関係者の霊を祀っている。
 祭神は32神を従え天磐船(あめのいわふね)という飛行船で空を飛んだという饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る。
 航空安全、旅行安全、交通安全、合格祈願などの信仰がある。御朱印が授けられる。
歴史年表 近代、1915年、二宮忠八は私財を投じ、自宅に磐船社より饒速日命の分霊を勧請し、東面の社殿に祀った。南面社殿には世界航空殉難者の霊を合祀した。
 1927年、改修している。
 現代、1955年、二宮忠八次男・顕次郎により再興される。
 1989年、 飛行原理発見100周年を記念し、二宮顕次郎により、現在の本殿、拝殿、二宮忠八資料館が改修、再建された。
◆祭神  社殿中央に饒速日命(にぎはやひのみこと)が祀られている。磐船神社(大阪府交野市私市)より分霊された。ご神体は天磐船といわれる磐座の大石とされている。
 饒速日命は物部氏の祖神であり、軍事と祭祀により大和政権(大和朝廷)を支えた。饒速日命は天照大神の孫神であり、その詔を受け十種神寶(とくさのかんだから)を授かる。高天原より豊葦原の中津国に降臨した。その際に、32人の伴緒を引き連れ、天の磐船に乗り、最初は河内国河上哮ヶ峯に天降った。後に大和国鳥見の白庭山に遷った。大和河内地方の開拓に着手し、土地の豪族鳥見の長・長髄彦(ながすねひこ)の妹・三炊屋媛(みかしきやひめ )と結婚し、可美真手命(うましまでのみこと)を産んだ。饒速日命は、降臨する際に「虚空見つ日本国(そらみつやまとのくに)」と形容し、日本国(やまとのくに)の国名の由来となったという。神武天皇東遷に際して、長髓彦は反旗を翻したため、饒速日命(宇摩志麻治命)は長髓彦を誅し、天皇に帰順したという。(『古事記』『日本書紀』)。
 1912年、米国の飛行学校での訓練中に事故死し、日本人初の航空機事故犠牲者となった近藤元久(1885-1912)ほか、国内外の航空事故の犠牲者、航空関係者の物故者霊など26万柱が合祀されている。
 薬祖神に祀られているのは日本の近代薬学の開祖で、エフェドリン(交感神経興奮剤)の発見者である薬学者・長井長義(1845-1929)、薬学者・下山順一郎(1853-1912)、薬学者・丹波敬三(1854- 1927)、武田・塩野義製薬の先祖の霊を祀る。 
◆二宮忠八 近代の航空機研究者・二宮忠八(にのみや ちゅうはち、1866-1936)。愛媛県八幡浜の海産物商の四男に生まれた。12歳で父が亡くなり、1880年、伯父の薬種商などを手伝う。独学で宣伝用の立体凧「忠八凧」を着想し販売、学資の足しにする。私塾・西予塾で国学などを学ぶ。1887年、丸亀の歩兵第12連隊付の看護卒として入隊した。1889年、樅の木峠で烏が固定翼で滑空している姿から飛行原理を発見した。その後、ゴム動力による固定翼の「カラス型飛行器」の飛行に成功する。1893年、有人の「玉虫型飛行器」の開発を考案、設計した。だが、1894年、日清戦争に衛生卒として出兵する。同年と翌年、軍に軍用機研究開発の上申書、設計図を願い出て却下される。1896年に除隊後、大日本製薬株式会社の職工となる。1900年、八幡町に移り、動力源の研究に入る。1906年、支社長となる。1903年、アメリカのライト兄弟が世界初の飛行機による有人動力飛行に成功した。1909年頃、忠八はその事実を知り、開発中だった飛行機を壊し航空機開発を断念、マルニを創業した。1915年に自宅に航空神社を建立し、自ら神官となり仕えた。1922年、軍部は忠八の研究を再評価し表彰し、以後評価が高まる。号を幡山と称し歌を歌い「幡画」「幡詞」を描いたという。墓は神応寺山上にある。
◆鳥居 鳥居は陵墓鳥居、ジュラルミン製になる。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、例祭(4月29日)は、忠八が動力飛行機の飛行を成功させた日、航空事故殉難者・航空先覚者を合祀し航空安全を祈願する。空の日(9月20日)は、航空事故殉難者・遭難者・航空業界物故者を合祀する。月次祭(15日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*「飛行器」は忠八の造語による。
参考文献 『二宮忠八小伝』『京都の寺社505を歩く 下』『京都のご利益めぐり』『京都の隠れた御朱印ブック』



  関連・周辺神応寺(八幡市)       周辺      関連石清水八幡宮(八幡市)        

ジェットエンジンJ79-IHI-11A、要撃戦闘機F-104J (栄光)のターボジェットエンジン、最大推力7170kg(アフターバーナー使用)、直径973mm、全長5283mm、全面面積0.74㎡、重量1615㎏。GE社、石川島播磨重工製。1958年運用開始。

零式艦上戦闘機機首部分、1983年に大阪湾岸和田沖海中より漁網により回収されたものという。零戦は海軍の主力艦上戦闘機として、1940年に制式採用された。太平洋戦争末期には特攻機としても使われている。三菱重工業製/中島飛行機製。

二宮忠八資料館

二宮忠八、青年期

二宮忠八

「飛行機発明の動機」と題する一文。

「凧の凧」の設計図、「凧の凧」は竹ひごで卵型の籠を作った立体凧で、凧を空に揚げ糸を下から引くと、中から小さな凧が地上に舞い降りてきた。これらは、ビラまき、宣伝用に使われていた。忠八の製作した凧はよく揚がるため、「忠八凧」と呼ばれていた。

「烏型飛行器」、後年の忠八の自作機。「飛行器」は忠八の造語による。
 1889年に烏の飛翔から着想した。烏は当初、15度の角度で上向きに飛び上がる。次に、翼の羽ばたきを止め、固定翼の揚力と上昇気流を利用して滑空飛行していた。たとえばパラグライダーが滑空する際には、この揚力と抗力から合成された力、空気力(R)と重力がつり合っている。
 烏型飛行器の主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cmある。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。先駆的な三輪が付いている。推進力はゴムひも駆動による四枚羽プロペラで、当初、聴診器のゴム管で試用し、後に手術用の平板ゴムを細く切って使用した。機体は黒く塗られ、機首には眼が入れられた。1891年、丸亀練兵所の広場で10m飛行させ、日本初のプロペラ飛行の実験を成功させている。翌日、手投げ発進の後、36mを飛行させた。

「玉虫型飛行器」、忠八は、トビウオ、トンボ、タマムシの飛び方も研究していた。1893年に有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成した。無尾翼の複葉機で、下の翼は可動式で操縦翼面となる。
 タマムシは飛ぶ際に、前羽に空気抵抗を受け浮揚し、後羽の推進力で飛行している。飛行器の前羽に当たるのは上部の主翼であり、ここで空気抵抗により浮揚力を生じた。後羽に当たるのは下の小翼で、ここで方向と安定を制御した。また、後羽の推進力は、機尾の四枚羽の推進式プロペラで代用された。このため、尾翼は付けられなかった。動力源は、時計用のゼンマイを使用した。

遺愛品、手帳、財布。1926年の帝国飛行協会による有功章。

第二次世界大戦の特攻寿部隊の九七式戦闘機垂直尾翼の一部。九七戦は、陸軍最初の低翼単葉戦闘で、1937年に制式採用された。太平洋戦争末期には250㎏爆弾を搭載し特攻機に転用された。ただ、過積載のためエンジン不調に陥ることも多かった。この垂直尾翼は、東支那海海中より回収されたものという。ただ、詳細については不明。中島飛行機開発。
飛行神社 〒614-8002 八幡市八幡土井44   075-982-2329  9:00-17:00(12月15日-1月末9:00-16:00)
 Home   Home 
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光