寂照院 (海印寺) (長岡京市) 
Jakusho-in Temple
寂照院 寂照院
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本堂




本堂内


千手観世音菩薩


四天王像


四天王像


妙見菩薩


阿弥陀如来



毘沙門天像



水子地蔵



智彗大師像、弘法大師勉学之尊像
 長岡京市奥海印寺(おくかいいんじ)の寂照院(じゃくしょういん)は、道元が宋より持ち帰ったという孟宗竹の発祥地ともいわれている。
 正式には海院寺寂照院という。山号は木上山(こがみさん/このかみざん)という。
 単立真言宗。本尊は千手観世音菩薩。
◆歴史年表 平安時代、819年、東大寺の佐伯道雄(どうゆう)僧都により、海印三昧寺が創建された。寺号は『華厳経』の「海印三昧」に因む。寺は、華厳宗を学び、国家を守る道場になる。大寺院で塔頭十院があり、寂照院はそのひとつだった。道雄は木上(このかみ、木於)山山上の椎から出現したという千手観音を見て、第52代・嵯峨天皇の勅許を得て創建し、手観音を本尊として安置したという。(『文徳実録』『太政官符』)。後に華厳宗と真言宗の兼学になる。寺域は、現在の奥海印寺、下海印寺にあった。
 851年、定額寺になる。国、朝廷よりの援助庇護を受けて栄えた。
 873年、衆僧100余人あり、三会の聴衆、維摩会、最勝会の堅義者が精選される。
 880年、第56代・清和天皇は、摂津・藤尾山よりの帰途に当院に立ち寄る。その後、水尾山寺に出家、入寺した。
 890年、安居講が設けられる。
 摂関家・藤原基房(松殿基房、1145-1231)の祈祷所になる。
 平安時代末期、衰微した。
 鎌倉時代、宗性(そうしょう、1202-1278)が復興する。
 1227年、道元は中国江南地方原産の孟宗竹を持ち帰り、この地に植えたという。
 1265年、東大寺の尊勝院末寺として再興するようにと院主・宗性が厳命される。(院宣)。海印寺下司職が定められた。
 文永年間(1264-1274)末、再興されたという。
 1275年頃、凝然弟子・禅爾が止住した。
 1312年、地頭が置かれた。後、東大寺領の事実が確認され返付される。
 1344年、仁王門、仁王像の建立発願により、結縁(けちえん)勧進が行われた。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により海印寺は焼失し、塔頭・寂照院のみが残される。
 その後、荒廃する。
 1568年、織田信長が足利義昭を擁して京都を攻めた際に、この地に本陣が敷かれた。(『原本信長記』)
 江戸時代初期、真言宗に改宗した。
 現代、1965年、仁王門解体修理に際して、仁王像内より納入品が見つかる。
 1995年、本堂再建工事の際に「走田9号墳(海印寺古墳)」が発見された。
 1997年、本堂が復興される。
 2004年、仁王門、薬医門が再建された。 
◆道雄 平安時代前期の真言宗の僧・道雄(どうゆう、?-851)。讃岐の佐伯(さえき/さいき)氏の出身。法相宗、東大寺で華厳を学び日本華厳の第7祖になる。空海に師事、密教灌頂を受け海印寺を建立した。850年、佐伯氏に宿禰の姓が与えられた。権少僧都。空海十大弟子のひとりに数えられた。
 寂照院の奥院が埋葬地という。
◆宗性 鎌倉時代の華厳宗の学僧・宗性(そうしょう、1202-1278/1276)。藤原隆兼の子。1214年、13歳で東大寺に入寺する。華厳、因明学、天台、法相などを学ぶ。1222年、御斎会に参じる。1241年、権律師、以来、権少僧都、権大僧都、東大寺・尊勝院院主、華厳宗貫首、1260年、東大寺別当、1269年、権僧正になる。弥勒信仰の信者だった。
◆藤原基房 平安時代末期の公卿・藤原基房(ふじわら の もとふさ、1145-1231)。摂政・関白 藤原忠通の次男に生まれた。松殿、菩提院、中山と号した。道元の祖父に当たる。1157年、従三位・権中納言、1160年、権大納言から内大臣、1164年、左大臣になる。 1166年、嫡子基通の摂政・氏長者となる。1170年、平重盛の子・資盛との殿下乗合事件、後白河上皇と結び平家と対立した。だが、1179年、清盛の 権力奪取により太宰権帥に左遷される。その後出家し、赴任を拒否した。1183年、木曾義仲の入京後は義仲と結び、三女・伊子を差し出した。子・師家の摂政が一時実現するが、翌1184年、義仲の戦死後は菩提院に隠棲した。源(久我)通親台頭後、再び娘の伊子を差し出している。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより、1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
◆仏像 数多くの仏像が安置されている。
 本尊は「千手観世音菩薩」を安置する。鎌倉時代作になる。頭部は平安時代の草創期のものともいう。
 鎌倉時代、1217年の「四天王立像4体(多聞天、持国天、広目天、増長天)」(府の重要文化財)がある。増長天は、摂津国嶋下郡中条西耳原村の僧・良心の発願により造立された。仏師・院能の作による。
 左の平安時代後期作の「妙見菩薩坐像」は、妙見社に関わるものとみられている。右に不動堂の江戸時代本尊「不動明王立像」を安置する。回向堂の本尊「阿弥陀如来像」を安置する。
 南北朝時代、1344年の「密迹金剛力士立像(仁王像)(阿形、吽形)」2体は、運慶、湛慶の流れを汲む仏師作という。長岡京市では唯一の仁王尊という。像高2.4m。
 日本最古、唯一という「水子地蔵尊」などがある。
◆建築 仁王門、本堂、不動堂、客殿、地蔵堂、庫裡などが建つ。
◆文化財 南北朝時代、1344年、仁王門、仁王像の建立発願により、結縁(けちえん)勧進が行われた。江戸時代、1826年、仁王像の胎内より「像内文書」が取り出されている。近代に発見された。仁王像建立の勧進に応じた人々の名が記されていた。これは、日本最古とされる「御成敗式目(式目は武士政権のための法令)の写本(書写は幸徳丸)」の裏に書かれていた。  
 1965年の仁王門解体修理に際して、阿形仁王像内より「木製五輪塔卒塔婆」、「法華経普門品」、「般若心経」、「御成敗式目断簡」、「諷誦文」が見つかっている。吽形仁王像からは「納経交名(きょうみょう)」、「紙本墨書位牌」が見つかる。
 なお、近年、寂照院、光明院が豊臣秀吉に援助を要請した文書が、ポルトガルで発見された。リスボンとエヴォラで絵画の裏張りに転用されていた。400年前に宣教師により持ち出されたとみられている。
◆海印寺 海印寺の名は、『華厳経』の「海印三昧」による。海印三昧寺とも称された。一寺十院があり、第52代・嵯峨天皇の御願寺で、年分度者2人と定めた大寺院だった。平安時代初期に、各大寺や各宗派において年間の得度者数(年分度者)が規制されていた。その定数は朝廷によって決められていた。受戒終了後は、当寺で一期12年の出山を許されず、華厳宗を修学した。
 海印寺は、走田(はしりだ)神社の神宮寺だったという。真言密教と妙見信仰が結び付き、神社は、寺の奥の院に位置付けられたともいう。
◆山号 山号の木上山(こがみさん)には逸話がある。
 道雄は、妙見菩薩の使いという童子に案内されて当地に赴いた。そこには、椎の大木が聳え立っていた。木の上に千手観音の姿が示現したという。その光り輝く姿を本尊とし、木上山になった。
 椎の大木はその後もあり、根元に弁財天が祀られていたという。1934年の室戸台風により倒木した。
◆孟宗竹 この地は、孟宗竹の発祥地ともいわれている。中国江南地方原産の孟宗竹を、鎌倉時代、1227年、宋に渡っていた道元が杭州より持ち帰り、この地に植えたという。
 また、寂照院院主の友人・黄檗山の僧が中国より持ち帰り、寂照院の大見坊に移植したともいう。
 境内東に孟宗竹の林がある。「日本孟宗竹発祥の地」の石碑が門前に立てられている。
◆古墳 本堂裏(北)に、「走田9号墳(海印寺古墳)」(長岡京市文化財)が保存展示されている。1995年、本堂再建工事の際に発見された。
 7世紀初めの円墳(直径12m、高さ3.5m)で横穴式石室がある。玄室と羨道は、全長5.3m以上からなる。
 石室は南に入口が開き、玄室の幅は1.9m、長さは3.05m、高さ2.3m以上、羨道は幅1.5m、長さ2.3m以上ある。
 玄室には、兵庫県竜山石製を組み合わせ式家形石棺が置かれていた。6世紀中期-7世紀のムラの有力者の墓地なっていた。
 墳丘は盛土、石室は石灰岩製で、付近の山から運ばれた。石室天井石、蓋石などはすでに失われていた。
◆霊水 千手観音が現れたという椎の木の大木の近くに、清水が湧いていた。道雄は、この水を霊水として仏前に供え、修行をしという。
 水は、万病を癒す霊水として知られた。その場所は、本堂東の孟宗竹の竹林内に井戸跡として残されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・宗祖の旅 道元』『京都 道元禅師を歩く』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『日本の名僧』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都おとくに歴史を歩く』『京都大事典』『水無瀬神宮と周辺の史跡』


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仁王像、阿形像

地蔵尊

地蔵菩薩、石仏として大変に古いという。古くより霊験あらたかという。

走田9号墳(海印寺古墳)

「日本孟宗竹発祥之地」の石標

孟宗竹林
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