浄瑠璃寺・当尾 (木津川市)
Joruri-ji Temple
浄瑠璃寺 浄瑠璃寺
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北大門


参道








本堂(九体阿弥陀堂)、平安時代、1107年建立。阿弥陀仏は東向きに安置されている。9体それぞれが柱間に置かれ、各々その前に一つの扉が付けられている。仏像の大きさに比較しても堂内は狭く、そもそも仏像を堂内から拝む設計にはなっていないという。本来は、このカメラの位置、三重塔の石段下、宝池の畔より、本堂の扉を放ち、対岸の九体の阿弥陀を拝することが意図されていたとみられている。三重塔の薬師如来に拝し、振り返り、彼岸の対岸の本堂・阿弥陀に来迎を願うのが本来の礼拝の姿という。


本尊・中尊像




三重塔(国宝)、平安時代、1178年に、京都一条大宮より移築された。塔の高さ16m、境内の高台に建てられている。東方本尊の薬師如来像は西向きに安置。初層内扉に、釈迦八相、四方の壁面に十六羅漢図(重文)などが描かれている。


潅頂堂(かんじょうどう)、江戸時代、1652年建立、1854年改修。普段は非公開。かつては、書院として使われてきた。平安時代から鎌倉時代作の本尊・大日如来像(金剛界大日如来)、役行者三尊像を安置。


鐘楼


宝池の中島に祀られている弁天祠、吉野・天河大弁財天社が勧請された。かつては、弁財天像が祀られていた。近年復元された。


宝池(阿字池)


三重塔の建つ高台の位置から見下ろした本堂と宝池。薬師如来と阿弥陀仏の中尊という二つの本尊は、二つの石燈籠の間を縫う延長上にある。


本堂前の石燈籠(重文)、南北朝時代、「貞治五年」(1366年)の銘がある。般若寺型。基壇、中台、火袋、笠も六角形、花崗岩製、248.5㎝。本来はいまよりも西に立てられていたという。


三重塔前にある六角の石燈籠、鎌倉時代、貞治五年(1366)の銘がある。願主は阿闍梨祐実。基礎に格狭間、複弁反花、円座、竿に三節、中台に格狭間、上に反花、火袋に竪連子、下に格狭間、花崗岩製。215㎝。
池を挟んで本堂前の石燈籠は対峙している。二つの石燈籠は二つの向き合う本尊を遮らないように、左右(南北)にずらされている。



中島北端の石組、荒磯、近年の発掘調査で復元された。一番左の立石は惣持石、そのほかの石群は鏡石ともいう。


宝池に架かる石橋


本堂前に据えられている石手水鉢、鎌倉時代、西小田原、永仁四年(1296)の銘がある。51㎝、花崗岩製、十二角形の鉢は、饅頭型の台に乗る。


山門脇の石像


本堂脇に祀られている石仏群、寺の近くの赤田川改修工事の際に川底で見つかったものという。


本堂脇の石像群


鎮守跡


鎮守跡


【参照】当尾には野辺に数多くの磨崖仏、板、石塔などが祀られている。寺の近く北東にある「藪中三尊磨崖仏」は鎌倉時代、「弘長二年(1262)」造立といい、銘のあるものとしては最も古い。東小田原寺の塔頭西谷浄土院の石仏で願主は僧・浄法ら9人。石大工は橘安縄、小工は平貞末。
左から、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ阿弥陀仏座像、地蔵菩薩、観世音菩薩(長谷型十一面観音とも)の三尊が彫られている。舟形光背。花崗岩製、1.5m。1.2m。



【参照】寺の北東にある首切地蔵(阿弥陀如来座像)、1262年造立。かつて、北方の首切りの刑が執行されていたところにあり、その後、村外に流出、村人の努力により現在地に戻され、祀られているという。石工は橘派。


【参照】寺の北にある長尾の阿弥陀笠石磨崖仏、屋根石、蓮弁台座の正印の阿弥陀仏。鎌倉時代、1343年に僧・行乗が願主となって造られた。
 浄瑠璃寺(じょうるりじ)のある加茂町当尾(とうお)は、かつて小田原といわれた。境内は、東、西、南の三方を山に囲まれ、門のある北にのみ開いている。 
 浄瑠璃とは、創建当初の本尊・薬師如来に因み、仏のいるという「東方薬師瑠璃光浄土」に由来する。
 山号院号を小田原山法雲院という。九体の阿弥陀如来像を安置することから、九品(くほん)寺、九体(くたい)寺ともいわれる。
 西大寺を総本山とする真言律宗。本尊は阿弥陀如来。
 神仏霊場会第128番、京都第48番。西国薬師第37番霊場(西国薬師四十九霊場めぐり)。京都南山城古寺の会。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 奈良時代、739年、第45代・聖武天皇の勅願により、行基、また多田(源)満仲が開基したともいう。
 平安時代末期、1047年、當麻寺(たいまでら)の僧・義明(ぎみょう)が、小宇の西小田原寺を創建したことに始まるともいう。本堂が建立され、檀那はこの地の豪族・阿知山太夫重頼(あちやま だいぶ しげより)による。当初の本尊は薬師如来だった。(『浄瑠璃寺流記事』『浄瑠璃寺縁起』)。また、それより先に、東小田原寺(随願寺)が建立され、この東西二寺が対をなしていたともいう。
 1052年、末法初年にあたるとされた。
 1108年、1107年とも、公深により新本堂が建立され阿弥陀堂とし、本尊・阿弥陀如来の開眼法要が営まれた。導師は「小田原聖」といわれた僧・経源(きょうげん)による。本尊・薬師如来像を西堂に遷す。
 1108年、開眼供養が行われた。
 1136年、梵鐘を鋳造する。
 1146年、食堂、釜屋が完成する。大般若経一部600巻を書写供養し本堂に納める。
 1150年、興福寺一乗院僧で権別当の伊豆僧正房恵信(えしん)が寺近くの草庵(岩本常光院)に隠棲し、以後、寺は門跡寺院一乗院の勅願所になる。伽藍整備され、境内に池を造営した。
 1157年、阿弥陀堂(本堂)を池の東より現在地(西岸)に移したという。(『浄瑠璃寺流記事』『浄瑠璃寺縁起』)。この頃、九体の弥陀が安置された。
 1159年、勢覚は一間四面の十万堂を建立し、弥勒三尊を本尊とした。
 1166年、「西小田原九体阿弥陀堂」と記されている。(「興福寺「田地奉納帳」)
 1168年、法雲院の修造が行われた。
 1171年、十万堂を秘密荘厳院と改める。八祖御影供が行われる。
 1178年、京都一条大宮の三重塔が移築された。鐘楼が建立される。一印が導師になり供養する。(『浄瑠璃寺流記事』『浄瑠璃寺縁起』)。現在の伽藍配置になる。
 1188年、春日大明神、若宮を鎮守社として勧請した。
 鎌倉時代、1194年、御舎利講、一品経購読が始まる。
 1196年、真言堂で夏中供養法が始まる。
 1200年、法華八講会、修二月大僧供が始まる。
 1201年、導師・解脱により千基塔供養が行われた。
 1202年、宰相殿が訪れ、玄賛講義、問答講が始まる。長日如法経が始まる。
 1203年、楼門、経蔵、閼伽井が完成した。
 1205年、波羅密坊の沙汰により京の少納言法眼が造園の補強をした。
 1207年、本堂屋根が葺き替えになる。
 1212年、本堂に吉祥天を安置する。
 1213年、鑑真の御影を安置した。
 1223年、南大門を建立し、弘誓院大納言入道の扁額が掛けられる。
 1240年、秘密荘厳院を真言院に改める。醍醐寺座主・実賢を導師として供養が行われた。
 1241年、馬頭観音像が造立になる。
 1310年、一乗院門跡良信は官符宣阿闍梨一口を置く。
 1311年、護摩堂が建立され、不動明王三尊像を安置した。
 1331年、第96代・後醍醐天皇の笠置山挙兵に浄瑠璃寺衆徒が協力する。
 南北朝時代、建武の新政(1333-1336)後、浄瑠璃寺は僧綱(そうごう)を置くことをゆるされる。住僧は最上位の権律師に任じられた。
 室町時代、1341年、春日、白山権現の宝前で講説が始まる。
 1343年、南大門より出火、十万堂など多くの伽藍を焼失したという。本堂、三重塔は焼失を免れた。
 1350年、南朝方、後醍醐天皇側近の文観が浄瑠璃寺の西峯五智院に隠棲する。霊宝を寄進した。『浄瑠璃寺流記事』が記される。(『浄瑠璃寺流記事』)。
 1366年、三重塔下の石灯籠に同年の刻銘がなされる。
 1410年、本堂前池の修理が行われた。(『浄瑠璃寺流記』)
 1441年、本尊は薬師如来、九体阿弥陀であり、僧房12、神人3人、了承仕6人と記されている。(「興福寺官務牒疏」)
 応仁・文明の乱(1467-1477)により、被害を受けたともいう。かつてあった49の伽藍は、一堂一塔一門のみになったともいう。
 1475年、大湯屋の修理が行われる。石の湯船が造られる。(『浄瑠璃寺流記事』)
 江戸時代、復興が続けられた。壇王法林寺の袋中も資金的な援助をしている。
 1632年、次の記載がある。興福寺末であり、一乗院持ち寺であり、本堂、真言堂、塔、護摩堂、鎮守、鐘楼、念仏堂、楼門が建ち、子院16あったという。(春日文書「浄瑠璃寺書き上げ」)
 1652年、潅頂堂が建立された。
 1666年、本堂屋根が檜皮葺から瓦葺に葺き替えられる。
 1787年、「拾遺都名所図会」に描かれている。
 1854年、潅頂堂が修築される。
 近代、1868年、興福寺末寺から独立した。神仏分離令後の廃仏毀釈により、以後、一時は無住となり荒廃した。鎮守社の春日社、白山社が廃絶する。
 1874年、真言律宗・西大寺の末寺となり、真言律宗に改宗した。
 1900年、本堂、三重塔の解体修理が行われる。
 現代、1965年、庭園は国の特別名勝、史跡に指定されている。
 1967年、本堂、三重塔の屋根吹き替え、梵鐘鋳造、鐘楼、山門、弁天社が修理された。
 1976年、境内の考古学調査が行われる。庭園に平安時代の州浜、石組が発見される。吉祥天厨子復元模写が成る。
 1977年、庭園が復元される。
 1985年、「当尾京都府歴史的自然環境保全」に指定される。19.68 コナラクヌギシイ
 2002年、地蔵堂が建立された。
 2003年、行者まつりが始まる。
 2010年、三重塔が修復される。
 2013年、奈良市は、市のごみ焼却施設移転を奈良市北部に決定した。寺のある当尾地区に隣接するため、寺などは景観・自然環境に悪影響を与えるとして建設の撤回を求めている。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し大宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆義明 平安時代後期の僧・義明(ぎみょう、生没年不詳)。当麻に生まれたという。詳細不明。比叡山延暦寺に入る。浄瑠璃寺を創建したという。
◆経源 平安時代後期の僧・経源(きょうげん、生没年不詳)。京都に生まれた。大和・興福寺で法相を学び、山城久世・小田原寺で密法をおさめる。小田原聖と呼ばれた。号は迎接房。
◆恵信 平安時代後期の僧・恵信(えしん、生没年不詳)。藤原忠通の子。興福寺一乗院に入り、権別当となる。小田原に隠棲した。浄瑠璃寺を一乗院の勅願所とし、伽藍配置を整えている。
◆文観 鎌倉時代末-南北朝時代の僧・文観(もんかん、1278-1357)。播磨国の人。播磨国法華山一乗寺で天台、播磨国北条常楽寺で西大寺流律僧となる。大和笠山竹林寺の長老となる。1316年、醍醐寺報恩院道順から真言密教の灌頂を受ける。後醍醐天皇護持僧となり、1331年、倒幕が露見した元弘の乱により硫黄島に流された。幕府滅亡後京都に戻り、1334年、東寺大勧進・醍醐寺座主、1335年、東寺一長者・正法務(高野山検校・東大寺別当兼職)。男女の性愛を説く真言立川流の大成者とされ非難された。南朝の後醍醐天皇と共に吉野に下り、河内金剛寺で亡くなる。
◆袋中
 室町時代-江戸時代の僧・袋中(1552-1639)。磐城国の人。14歳で陸奥国菊多郡の能満寺で出家、名越檀林で浄土教学を学んだ。1577年、江戸増上寺で浄土宗白旗派に学び、故郷の成徳寺13世となる。1603年、明に渡ろうとして上陸を許されず、琉球に漂着した。琉球王尚寧王の帰依を得て、城外に桂林寺を開く。京都で檀王法林寺を再興し、東山五条に袋中庵を建立した。また、20余寺を建立したという。京都・南山城の西方寺で亡くなった。
 浄瑠璃寺再興のために、銀子を贈り、一切経の欠本を完全なものにし、資金捻出に協力した。
◆阿弥陀像 本堂(九体阿弥陀堂)には、平安時代(11世紀-12世紀)作の九体の「阿弥陀如来坐像」(国宝)が東面し、横一列に安置されている。このように、九体阿弥陀が阿弥陀堂に安置されていた寺院は、かつて33存在したという。だが、現存しているのは当寺しかない。
 九体の阿弥陀仏が安置されるのは、九品(くほん)に基づき、『観無量寿経』で説かれる九品往生に由る。往生は、その人の性行により最高位から9段階に分けられるという。「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」、「上品中生」、「上品下生」、「中品上生」、「中品中生」、「中品下生」、「下品上生」、「下品中生」、「下品下生」の9つであり、たとえどのような人間であろうとも極楽に迎え入れられると説く。
 阿弥陀如来のなかで中央に西の本尊・「中尊」は、最大の丈六(5号224㎝)になる。また、ひと回り小さな周丈六坐像ともいう。平安時代、像内銘により1107年頃、1047年、また嘉承年間(1106-1108)作ともいう。右手は施無畏印、左手は来迎印を結ぶ。江戸時代に後補の光背は、千仏光背といわれる。千体の仏と、これに当初の平安時代作の四飛天(奏楽菩薩)が付けられている。中尊の胎内には、90体の阿弥陀如来を刷った摺物(1105年銘の付箋、「阿弥陀如来像摺仏」)があった。印仏も納められていた。台座は蓮華九重座。宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀像に似るといわれる。ただ、体躯は逞しい。木造、ヒノキ材、寄木造、漆箔、彫眼。
 中尊の左右に安置されている半丈六(右より「1号」138.8㎝、「2号」140.9㎝、「3号」143㎝、「4号」145.4㎝、「5号中尊」、「6号」140.9㎝、「7号」143㎝、「8号」141.2㎝、「9号」143.6㎝)の8体の脇侍仏は、すべて阿弥陀定印を結んでいる。これらの像造年代には違いがあり、すべて違う仏師の手による。当初は中尊しかなく、1101年の改築の際に8体が追加されたためともいう。1体は鎌倉時代作になる。いずれも木造、ヒノキ材、寄木造、漆箔、彫眼。
 中尊の向かって右には、平安時代作の「地蔵菩薩立像(子安地蔵)」(重文)(157㎝)が安置されている。
 中尊の向かって左には、秘仏の「吉祥天立像」(重文)(90㎝)が納められた春日厨子が置かれている。「唐美人像」は、鎌倉時代、1212年頃の作で、五穀豊穣を祈念したものという。白い顔に蛾眉が大きくひかれ、豊かな髪は後ろで二つに分けられ両耳の後ろで束ねる。左手に宝珠が載り、右手は与願印。装束は唐風、宝冠の頂に鳳凰がある例はほかにない。胸は木製透彫りの瓔珞で飾られている。瓔珞衣の縁や装身具に繧繝彩色文様を施す。豊満、華麗な衣、装飾により「当尾の美女」と呼ばれている。一材を前後に割り剥ぎ、両手、裾に別材を用いている。胎内に摺仏が納められていた。台座に彩色の蓮弁。木造、彩色。流出した「厨子絵」(重文)(東京藝術大学保管)四方には、梵天、帝釈天、四天王、弁財天が極彩色で描かれている。
 平安時代後期(11-12世紀)作の四天王像は、本堂奥西脇床上に憤怒相の「持国天立像」(169.5㎝)(国宝)、「増長天立像」(169㎝)(国宝)の2像がある。保存状態が極めてよい。かつて「多聞天」(167㎝)(京都国立博物館寄託)、「広目天」(168.8㎝)(東京国立博物館寄託)を加えて四天王を構成していた。これらは、藤原彫刻の傑作といわれている。平安時代、1108年頃に造仏されたともいう。彩色が最も美しい多聞天が3像に先駆けて造像されたともいう。像高があることから別堂より遷されたともいう。本堂の2体は相似しており、増長天が広目天と入れ替えられたともみられている。極彩色(緑青、朱、丹、白土)がよく残る。截金により、宝相華、唐草など浄瑠璃寺文様が20種も施されている。邪鬼の台座、光背も当時のもの、すべての持物は後補。木造、寄木造、彩色、截金、彫眼。
 本堂の、鎌倉時代作の「不動明王立像」(重文)(99㎝)は、鎌倉時代、1311年建立の護摩堂本尊だった。岩座に立つ。9世紀に天台密教の安然が説き、10世紀末に飛鳥寺玄朝が造形化した「十九観」に属する。木造、彩色、截金文様、玉眼。右脇侍に優しい表情の「制多迦童子(制咤迦、せいたかどうじ)」(重文)(51㎝)、左脇侍に厳しい表情の「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」(重文)(51㎝)が安置されている。康円(1207-1275~)の作風に似ているともいう。
 本堂の、平安時代作の「子安地蔵菩薩立像」(重文)(157.6㎝)は、定朝様、左手に如意宝珠を持つ。右手は与願の印、木造、胡粉地に彩色。
◆仏像・木像 国宝、重文指定の仏像が多数ある。
 三重塔には、東の本尊「薬師如来坐像」(重文)(86.4㎝)が安置されている。平安時代、1047年の造立であり、創建時のものといわれ、当初の寺の本尊だった。また、かつて東小田原寺(随願寺)の本尊だったともいう。病を治す医王尊と呼ばれている。眉は大きく弧を描き、眼鼻立ちがはっきりしている。左手に薬壺、右手は施無畏印。なお、当寺での本来の仏の拝み方とは、最初に薬師如来を拝み、振り返り池越しに西の本堂の阿弥陀如来(西方極楽浄土)を拝するという。薬師如来は東方、瑠璃光浄土(東方浄瑠璃浄土)に住まい、西方の阿弥陀如来とは対面している。木造、ヒノキ材、一本造だが割矧ぎ式、彩色、漆箔。
 潅頂堂(かんじょうどう)には、平安時代-鎌倉時代(鎌倉時代初期とも)の慶派仏師作(運慶、康慶が有力とも)とみられる美仏の本尊・「大日如来像坐像(金剛界大日如来)」(60.7㎝)(重文)が安置されている。2005年に修復され、復元された。髻が高く、髻下より上半身は一材、前後に割矧ぎ、脚、腕は寄木、面部は割り玉眼嵌入。
 潅頂堂の、鎌倉時代作の「弁財天像」は、像としては最古といわれる。八臂。吉野・天河大弁財天社(奈良県天川村)より、1296年に勧請された。
 潅頂堂の、秘仏・南北朝時代-室町時代作の「役行者倚像」(106㎝)は、2000年に修復され前鬼、後鬼が加わった。
 平安時代作の「延命地蔵菩薩立像」(重文)(97.1㎝)は、左手に如意宝珠を持ち、右手は与願の印。東京国立博物館寄託。
 鎌倉時代、1241年に南都仏師、良賢、増全、観慶ら作という「馬頭観音立像」(重文)(106㎝)は、憤怒の形相の四面三眼八臂像で、口に牙をもち、馬口印を結び、6臂に武器を持つ。その胎内に「双身毘沙門天立像」(6.7㎝)、「馬頭観音小立像」(11.5-11.8㎝)が納められていた。怒りの菩薩、闘う菩薩ともいわれている。木造、彩色、截金文様。奈良国立博物館寄託。
 「十二神将立像戌神」(重文)(東京国立博物館ほか)。
 平安時代作の「地蔵菩薩立像」(重文)(97㎝)は、台座蓮弁に墨で如来像が描かれていた。彩色、截金。
 近年建立された地蔵堂(2002)には、宝珠と与願印の、室町時代作の「地蔵菩薩立像」が安置されている。かつて、華厳寺(和歌山)の本尊といわれている。
 秘仏、「義明上人像」(50㎝)は、江戸時代作、木造、寄木造、玉眼。
◆伽藍配置 境内は東西南に丘陵尾根があり、宝池(ほうち、阿字池)を挟んで、東岸に三重塔、西岸に本堂(九体阿弥陀堂)が一直線上に建てられている。二つの堂宇の本尊、薬師如来と阿弥陀如来も、互いに池を挟んで向き合う。さらに、北には、大日如来を祀る潅頂堂がある。
 平安時代、1107年、それまでの旧本堂が除かれ、新本堂が建立された。この際に、旧本堂に安置されていた薬師如来像は、西堂に遷された。新本堂には、代わって阿弥陀如来像が安置されている。時代の趨勢により、病気平癒の本尊・薬師如来から、極楽往生の本尊・阿弥陀如来に転換したともいう。
 1150年、興福寺一乗院僧・恵心により、現在の伽藍配置の構想が行われたという。1157年、本堂が現在地に移転している。1159年、十万堂(後の秘密荘大厳院、真言院)が建立された。1178年には、京都一条大宮より三重塔が移築され、本尊の薬師如来が安置、現在見られるようなの伽藍配置が完成した。
 本堂に安置の阿弥陀如来像を池の対岸から拝すると、像が池に映り込んでいる。池に結んだ像を90度起こすと、本堂を台座に見たてて巨大な阿弥陀仏が堂の上に立ちあがる。これを十六観想中の華座観といい、仏の姿を虚空に思い描くことにより堂は蓮華になる。夜、堂前の燈籠に火が灯ると、灯もまた池に映り、蓮華の茎の様に見える。茎は蓮華に見たてた堂につながる。堂内の像は、池と一体化して初めて西方浄土を再現する。
 当寺での礼拝は、まず、薬師如来、次に池越しに阿弥陀仏に行う。これは、薬師如来は、東方瑠璃光浄土(浄瑠璃世界)の教主であり、衆生の現世(此岸)の苦悩を取り除いてくれる。阿弥陀如来は、来世(彼岸)の極楽往生を約束するとされることによる。
◆建築 「本堂」は、平安時代後期に盛んに建立された浄土教の阿弥陀堂の遺例になる。ほかには、平等院鳳凰堂しか現存しない。平安時代、1107年に建立された。1157年に改修されている。創建当初は檜皮葺、江戸時代に瓦葺となり、向拝も付けられた。側面は中央2間に比較し庇が広く、室内は梁行1間、母屋後方よりに仏壇がある。内陣は、中央一間の天井が高く、切妻造形の化粧屋根裏天井で、これは平安時代の建築様式を示すという。
 堂と仏像との間は、鎌倉時代の供物壇といわれる段差のある壇により仕切られている。壇には、「絵仏具(常仏具)」といわれるお供え物が置かれ、これには、仏飯、供花などの絵が描かれている。壇には、魔除けの意味があるという連珠剣頭巴紋が施されている。上に連珠、剣の頭、巴紋様が見られる。隅に舟肘木、寄棟造、本瓦葺、正面11間(25.3m)、側面4間(9.09m)。
 「三重塔」は、平安時代、1178年に京都一条大宮より移築されている。各層三間、心柱は初重天井の上から立てられ、そのため、初層には四天柱はなく、初重天井上の梁から立つ。塔本来の意味から逸れたこのような様式は、この頃より始まったという。間斗束で間斗が他の巻斗と同寸であり束幅が狭い。小組格天井の二重折上、初層内扉に釈迦八相、四方の壁面に平安時代後期作の十六羅漢図(重文)、柱に鎌倉時代末期-室町時代の八方天立像が彩色で描かれている。軒の出が深い、廻縁、3間三重塔婆、檜皮葺。
 「潅頂堂(かんじょうどう)」は、江戸時代、1652年建立、1854年改修。普段は非公開。かつては、書院として使われてきた。
◆庭園 庭園は、池泉回遊式の浄土庭園になっており、国の特別名勝、史跡(1965)に指定されている。東西南の三方を山に囲まれ、境内中央に湧水の宝池がある。池の中央には、中島が造られている。池は南の尾根山裾より迫り出した小支丘を利用している。荒磯の石組がある。
 平安時代、1150年、興福寺一乗院僧・恵心により、庭園の整備が行われている。この時、池は掘り下げられ、石が立てられた。さらに、池は拡張されている。鎌倉時代、1205年、少納言法眼により改修されている。室町時代、1410年、池の修理が行われた。1976年以降の発掘調査により、洲浜、中島の北端に荒磯の遺構が見つかり、復元された。
 庭は、生死を分ける大海に見立てた宝池を挟み、東(此岸)の三重塔の薬師如来信仰と西(彼岸)の本堂の阿弥陀如来信仰という二つの浄土信仰の世界を具現する。
 東方に現世の救済を求める浄瑠璃浄土(東方浄土)がある。薬師如来は、過去から現世へ送り出し、来世へ向かう遣送仏(けんそうぶつ)とされる。西方の本堂には、来世の極楽・西方浄土に迎える来迎仏の阿弥陀如来信が安置されている。池の中央、中島北端の立石は、この二つの本尊を結ぶ線上に据えられている。
 かつて池端は本堂の近くに迫り、中尊像は池に映し出されていたとみられている。春秋の彼岸中日に、太陽は東の三重塔・薬師如来の白毫びゃくごう)の背後付近から昇り、西の本堂・中尊像の蓮弁の背後付近に沈む。
 池の形は奥州平泉観自在王院の池を反転させた形に似る。浄瑠璃寺が平泉を後に参照したともいう。
◆伝承 檀那となった豪族・阿知山太夫重頼にまつわる伝承がある。狩猟を生業とした重頼が小田原山中で鹿を射止めて帰ると、常に持ち歩いていた一寸八分の薬師像を忘れたことに気づく。
 翌朝、再び山に入ると、薬師像は岩に貼りついて取れなかった。そのため重頼は、その地は縁ある場所と思い、草堂を建て像を安置、浄瑠璃寺と名付けたという。その後、仏師・定朝に依頼し九体阿弥陀仏を造仏したという。(『浄瑠璃寺縁起』)
◆浄土信仰 平安時代末期、仏法衰え、末法の世になるといわれた。1052年がその始まりの年とされた。末法では、どのような修行を行ったとしても、現世での救済はないとされた。自らの力では、いかなる善も完遂しないとれた。だが、源信(810-869)は、ひたすら阿弥陀仏に祈念すること、他力(阿弥陀如来の本願力)により阿弥陀仏が来迎し、極楽に往生できると説いた。
 貴族はこぞって、屋敷や寺院に阿弥陀堂を建立した。池泉に蓮を植え、現世での浄土の庭を再現しようとした。それらの景色を記憶し、観想することで、臨終の際の来迎が得られると信じていた。
 1020年、藤原道長(956-1028)は、法成寺に九体阿弥陀堂「無量寿院(阿弥陀堂)」を建立した。臨終に際して西方浄土を願い、北枕西向きに横たわり、9体の阿弥陀如来の手より引き出した五色の糸を両手に握りしめた。僧侶の読経の中、自らも念仏を唱えて逝った。九体阿弥陀を最初に実現した。
◆文学 戦時中の1943年、妻とともに寺を訪れた堀辰雄は『浄瑠璃寺の春』の中で寺を取り上げた。それに感化され、戦後の1964年に訪れた堀口大学は随筆『浄瑠璃寺の秋』を記した。
 和辻哲郎『古寺巡礼』(1919)、会津弥一の歌に「じやうるりの なをなつかしみ みゆきふる はるのやまべを ひとりゆくなり」がある。
◆文化財 「浄瑠璃寺流記事(るきのこと、浄瑠璃寺流記)」袋綴28枚(重文)は、創建以来の歴史が書かれている。南北朝時代、1350年、僧・長算により子院・釈迦院のものを書き写し、その後の、室町時代の本堂前池、大湯屋の修理記録も書き加えた。
 住職の乗秀による江戸時代、「浄瑠璃寺縁起」(1625年)は、諸堂建立の経緯、阿知山太夫重頼にまつわる薬師仏霊験などについて記されている。縦34.3㎝、横441.9㎝。
 鎌倉時代の「吉祥天厨子絵」(重文、東京芸大保管)、平安時代の「阿弥陀如来摺仏」、鎌倉時代の「吉祥天摺仏」59枚は版木を和紙に押印している。
 平安時代後期の創建時のものといわれる「三重塔初層壁画」(重文)には、扉に「釈迦八相図」8面、板壁上下に「十六羅漢図」16面などが描かれている。柱、柱脇羽目板、天井には鎌倉時代後期の文様が残る。
 江戸時代の境内地図「浄瑠璃寺図」などがある。
◆石造物  庭に石造水鉢、石燈籠が据えられている。
 本堂前の「石燈籠」(重文)は、南北朝時代、「貞治五年」(1366年)の銘がある。本来はいまよりも西に立てられていたという。般若寺型。基壇、中台、火袋、笠も六角形、花崗岩製、248.5㎝。
 
三重塔前にある六角の「石燈籠」は、鎌倉時代、貞治五年(1366)の銘がある。願主は阿闍梨祐実。基礎に格狭間、複弁反花、円座、竿に三節、中台に格狭間、上に反花、火袋に竪連子、下に格狭間、花崗岩製。215㎝。池を挟んで本堂前の石燈籠は対峙している。二つの石燈籠は二つの向き合う本尊を遮らないように、左右(南北)にずらされている。
 本堂前に据えられている「石手水鉢」は、鎌倉時代、西小田原、永仁四年(1296年)の銘がある。51㎝、花崗岩製、十二角形の鉢は、饅頭型の台に乗る。
当尾 当尾(とおの)という地名は、かつては「塔尾(とうお)」といわれ、数多くの寺院の塔が尾根の様に建ち並んでいたことから名づけられたという。当尾は、奈良に近いことから、南都仏教の影響を受けてきた。また、奈良の都に受け入れられない高僧などの隠棲地となっていた。
 石仏の里として知られ、寺の周辺には露頭の多くの石仏、石造物(丁石、笠塔婆)が祀られている。これらは、35か所に90以上もあるという。製作年代は、鎌倉時代中期-室町時代初期、室町時代後期-安土・桃山時代にかけてのものという。また、石造物が多い要因としては、加工し易い花崗岩を産したこと、かつて渡来系の、東大寺再興などにも携わった石工が存在したこともある。
◆自然 近年、周辺の広大な丘陵地帯の開発により、里山の自然が破壊された。現在、境内の周辺の14.18haは、「当尾京都府歴史的自然環境保全地域」(1985)に指定されている。1997年の京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「当尾」として選定された。コナラ、クヌギ、シイ、カシなどが見られる。
 境内宝池周辺には、四季を通じてさまざまな花木、山野草が花開く。境内にしか残されていない種もある。春は、馬酔木、サンシュウ、モモ、ツバキ、サクラ、モクレン。夏は、アヤメ、カキツバタ、キキョウ、フヨウ、サルスベリ、ガクアジサイ、アジサイ、ミツバツツジ、キキョウ、ネジバナ、ササユリ、ヒツジソウ、フヨウ。秋は、カワラナデシコ、ハギ、カエデ、トウオガキ、リンドウ、冬には、センリョウ、マンリョウ、スイセン。シイ、カシ、モチなどもある。
◆景観・環境問題 2013年、奈良市はごみ焼却施設(33ha)を市北部に移転することを決定した。浄瑠璃寺のある当尾地区に隣接するため、当寺などは煙突、煙が景観を損ね、排水などは自然環境に悪影響を与えるとして建設の撤回を訴えた。「浄瑠璃寺と当尾の里をまもる会」では、署名活動を行っている。
 2017年、奈良市は施設建設の断念を発表した。
◆年間行事 初法要(1月1日)、御会式(4月18日、御影供)、行者まつり(潅頂堂での法要)(6月7日に近い土日曜日)、ぎおんさん(7月14日、弁天供)、施餓鬼会(8月20日)。彼岸会(檀家による法要)(9月、非公開)、除夜の鐘(鐘が撞ける。法要、吉祥天女立像の開帳)(12月31日)。
 薬師如来像開扉は、毎月8日、彼岸中日、正月三が日の好天時のみ。
 吉祥天女像開扉は、1月1日-1月15日、3月21日-5月20日、10月1日-11月30日。
 大日如来像開扉(弁財天像)は、1月8日-9日。
 役行者三尊像、地蔵菩薩立像開扉は、6月7日に近い土・日曜日。


*建物内、仏像などの撮影は禁止。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 パンフレット『浄瑠璃寺』『旧版 古寺巡礼京都 7 浄瑠璃寺』『南山城の古寺』『古寺巡礼 京都 2 浄瑠璃寺』『京都・山城寺院神社大事典』「特別展 南山城の寺社縁起」『京都の寺社505を歩く 下』『社寺』『京都の仏像 入門』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『国宝への旅 2』『京都古社寺辞典』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『絶対に訪ねたい!京都の仏像』『当麻の石仏めぐり 浄瑠璃寺・岩船寺の四季』『日本の名僧』『極楽の本』『週刊 古社名刹巡拝の旅 24 当尾の里』『週刊 日本の美をめぐる 45  平等院と極楽往生』『週刊 京都を歩く33 南山城』『週刊 日本の仏像 8 浄瑠璃寺 吉祥天と九体阿弥陀』


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浄瑠璃寺 〒619-1135 木津川市加茂町西小札場40  0774-76-2390

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