酬恩庵 (一休寺) (京田辺市) 
Shuon-an Temple
酬恩庵 (一休寺)  酬恩庵 (一休寺)
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総門(府指定文化財)、室町時代の能役者・金春禅竹(こんぱるぜんちく、1405-1469)は、一休を慕って寺に通った。金春は総門の前で一休のために能を演じたという。








一休禅師墨跡碑「諸悪莫作(まくさ) 衆善奉行」、釈迦十大弟子のひとり阿難尊者作という。数々の悪行をすることなく、善行積めば、自ずと心清く美しくなるの意。大徳寺・真珠庵の一休墨蹟を転写している。1985年に立てられた。 


山道の両側の楓












中門(府指定文化財)




御廟所(墓所、宗純王廟)非公開。


御廟所(墓所)、寿塔(慈楊塔)



御廟所(墓所)、廟前庭は村田珠光作庭という。


御廟所(墓所)



御廟所(墓所)

禅宗の方丈間取          
衣鉢の間 眠蔵 書院の間
仏間
檀那の間(東の間)
室中
礼の間(西の間)


虎丘庵(府指定文化財)


庫裏、方丈


庫裏(重文)


唐門(重文)



東司(重文)



井戸

 京田辺市、甘南備山(かんなびやま)麓の薪(たきぎ)に、酬恩庵(しゅうおんあん)はある。一休寺(いっきゅうじ)とも呼ばれている。室町時代の「破戒僧」と呼ばれた一休宗純が、晩年の25年間を過ごした寺として知られている。山号は霊瑞山という。
 臨済宗大徳寺派、本尊は釈迦如来。  
 かくれ古寺南山城六山めぐりの一つ、京都南山城古寺の会に参加。 
◆歴史年表 鎌倉時代、正応年間(1288-1293)、大応国師(南浦紹明)が禅道場の霊瑞山妙勝寺を開いたのが始まりという。
 元弘の乱(1331-1333)で第96代・後醍醐天皇が挙兵し、その際に焼失し、荒廃した。
 室町時代、1429年より、一休は妙勝寺仏殿を再興した。
 1456年、1455年-1456年とも、一休が南浦紹明(大応国師)が開創した霊瑞山妙勝寺を再興した際に、寺の傍らに草庵を結び酬恩庵と名づけたことに始まるともいう。寺号の由来は、「大応国師の師恩に報いる」の意だったという。後に、虎丘庵、寿塔「慈楊塔」が建てられる。
 1481年、一休は酬恩庵で亡くなる。
 1506年、本堂が建てられた。
 1560年、加賀藩第3代藩主・前田利常が伽藍を再興する。
 江戸時代、1614年、前田利常により方丈、庫裏が建てられる。
 1787年、8塔頭があった。心伝庵、梅渓庵、江庵、待月庵、松屋庵、虎丘庵、黙黙寺になる。
 近代以前まで、酬恩庵と呼ばれ、その後、一休寺の通称が普及した。
 1871年、「薪騒動」が起こる。
 現代、2007年、NPO法人「一休酬恩会」は、周辺の宅地開発に伴う景観保全の立場から署名活動を行い、市、市議会へ提出した。
 2010年、一休酬恩会による宅地開発許可取り消しを求めた府開発審査会への申し入れは却下、棄却された。以後、裏山買い取りのナショナルトラスト運動が進められている。
◆南浦紹明  鎌倉時代の臨済宗の僧・南浦紹明(なんぽ じょうみょう、1235-1308)。駿河に生まれた。建穂寺の浄辨に天台宗を学ぶ。1249年、15歳で剃髪受戒、鎌倉・建長寺の蘭渓道隆に師事、1259年、入宋、杭州・浄慈寺の虚堂智愚に学び後に法嗣。1265年、虚堂に従い径山・万寿寺に移る。1267年、帰国、建長寺の蘭渓に参じ蔵主、1270年、筑前・興徳寺、1272年、太宰府・崇福寺、1304年、後宇多法皇(第91代)の詔により上洛、洛西安井・韜光庵(とうこうあん)に住した。1305年、東山・万寿寺に入る。法皇による東山・嘉元寺開山は成らなかった。1307年、北条時貞の帰依により建長寺に入る。塔所は鎌倉・天源塔、筑前・崇福寺の瑞雲塔、京都安井・龍翔寺にある。門弟多く、臨済禅大応派の祖。
 没後、1309年、後宇多法皇に贈らた国師号「円通大応国師」は日本初例になる。
◆一休 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧・一休(いっきゅう、1394-1481)。一休宗純(そうじゅん)。京都に生まれた。北朝第6代・第100代・後小松天皇の落胤(第一皇子)、母・公卿花山院某娘は後宮を追われ嵯峨野の民家で一休を産んだという。1399年、6歳で京都の安国寺・像外集鑑に随い周建(しゅうけん)と名付けられる。1405年、嵯峨・宝幢寺の清叟師仁、1406年、建仁寺に移り、霊泉院の慕哲竜攀に詩を学ぶ。1409年、建仁寺を脱する。壬生の清叟に随う。1410年、17歳の時、西金寺(さいこんじ)・謙翁宗為(けんおう そうい)の弟子になり宗純と改める。1414年、師を失い大津瀬田川で自殺未遂の後、1415年、近江・祥瑞庵の華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子になり、1418年、一休(有漏路より無漏路の一休み)の号を授けられた。1420年、大悟し印可を受ける。1422年頃より、風狂と呼ばれた。1428年、師・宗曇没後、近畿一円を放浪する。1440年、請われて大徳寺・如意庵に入るが10日後に去る。1442年、謙(譲)羽山に尸陀寺(しだじ)を創建した。1447年、大徳寺の抗争を嫌い謙羽山に入り断食により自死をはかる。1448年、売扇庵に寓し、1451年頃、兄弟子・養叟と対立する。1452年、瞎驢庵(かつろあん)に移る。酬恩庵を始める。1456年、山城薪に妙勝庵を復した。1459年、徳禅寺住持、1461年、安井・竜翔寺を興す。1462年、病となり桂林寺に移り、1463年、賀茂・大燈寺、瞎驢庵。応仁・文明の乱(1467-1477)で瞎驢庵が焼失し各所転々とする。1469年、大和、和泉、摂津住吉などに移る。1472年(1470年/1471年とも)、住吉大社薬師堂で見初めた旅芸人の盲目・森女(しんじょ)を1473年より、酬恩庵隠寮に引き取り住まわせた。1474年、第103代・後土御門天皇の勅命により、81歳で大徳寺第48代として再興した。1475年、東山の虎丘庵を当地に移築している。1478年、妙勝庵に再住。1481年、酬恩庵で亡くなり、寿塔「慈楊塔」に葬られた。1491年、大徳寺・真珠庵にも分塔される。
 一休は権威を嫌い「風狂の聖」と呼ばれた。一休は、詩人としても知られ、詩集「狂雲集」がある。茶道、能楽、詩、狂歌、書画に通じた。弟子に岐翁紹禎などあり一休派と呼ばれる。後世、江戸時代以降に、史実ではない「一休噺」などの頓智話が作られている。
◆森女 室町時代の女性・森女(しんじょ、生没年不詳)。詳細不明。森侍者(しんじしゃ)、森盲女。住吉の薬師堂で鼓を打つ盲目の旅芸人だったという。1472年(1470年、1471年とも)、住吉大社薬師堂で一休と出会う。1473年より、酬恩庵隠寮で一休とともに暮らした。森女は30歳前後、一休は70歳後半より最晩年の期間になる。
 大徳寺・真珠庵の一休十三回忌、三十三回忌の「奉加帳」に、「森侍者慈栢」の名があるという。森女は500文、100文の香典を捧げており、80歳頃まで存命だったと見られている。一休の詩集『狂雲集』には、森女への愛情が詠まれている。森女の歌「おもひねのうきねのとこにうきしづむなみだならではなぐさみもなし」。
◆墨斎 室町時代の臨済宗の僧・墨斎(ぼくさい、?-1492)。没倫紹等(もつりん じょうとう)、拾堕。一休宗純の法をつぎ酬恩庵住持、のち大徳寺・真珠庵を開く。肖像画「一休宗純像」の作者とみられる。水墨「山水図」(真珠庵蔵)など。
◆金春禅竹 室町時代中期の能役者・金春禅竹(こんぱる ぜんちく、1469-1405)。氏信。祖父は金春権守、父は弥三郎、世阿弥の娘婿。1428年、世阿弥より『六義』、『拾玉得花』の相伝を受け後継者となる。奈良を中心に活動し、大和猿楽四座の本家格、円満井座(えんまんいざ/えまいざ)(竹田の座)の30代棟梁と自称した。 60歳頃、子・七郎元氏に家督を譲り出家した。一休宗純を慕い薪庄に多福庵を営み移り住んだ。一休に禅を学び、禅思想の「さび」を能に展開した。『六輪一露之記』などの論書、能作「賀茂」「定家」「芭蕉」などがある。
 当寺の門前に「薪能金春芝旧跡」の石碑が立つ。この付近に金春の芝跡と屋敷があったという。
◆能 当寺、薪周辺と能とは深い関わりがある。
 当寺の総門前には能役者・作者の金春禅竹の屋敷があり碑が立つ。晩年の禅竹は一休を慕ってこの地に移り住み、一休と交流したとされる。禅竹の庵名「多福庵」、「禅竹」の名の由来もまた、「多福一叢の竹」(『五燈会元』)に因み、対になっており、一休も好んだ禅僧の逸話に因むという。禅竹は多福庵で、一休のために能を演じたという。当寺近くの薪神社で、猿楽を演じたともいう。当社にも碑が立てられている。能の「山姥」」「江口」は一休作ともされる。篝火の下で演じられる「薪能」の語源も、この付近地名の薪にあるともいう。禅竹は当寺の虎丘庵を度々訪れ、文人と交わったという。
 かつて甘南備山にあった旧甘南備寺の境内は、「薬師谷」とも呼ばれる。伽藍跡の平坦面のうち三段を「竹の段」と呼んだ。能楽の金春座(こんぱるざ)の前身は「竹田座」であり、この竹の段に由来するとされる。
 奈良時代、俳優(わざおぎ)の子孫・薩摩の阿多隼人(あたのはやと)は、薪村に移り住んだ。作った曲は「竹の段」と称された。隼人は、この曲舞(くせまい)により、山の月読神を招き猿楽奉納した。金春能とは、この曲舞と猿楽の合したものであり、薪猿楽になった。
 当寺の墓地には、観世流の3世が葬られている。9月の中秋の名月の頃、当寺では「一休寺薪能」が奉納されている。
◆薪 地名の薪は、かつて、石清水八幡宮に薪を納めていたことに由来する。薪御園庄ともいわれ、薪は木津川を使い船で送られていた。
◆仏像・木像 本堂に釈迦三尊像の「釈迦如来」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」を安置している。
 方丈仏間に、「一休和尚坐像」(重文)(82㎝/84.5cm)を安置している。一休没年の1481年に、高弟・墨斎(ぼくさい)が彫らせたものという。また、一休生前に彫らせたともいう。等身大で、頭髪と髭は一休の遺髪(頭髪、眉、口ひげ、顎ひげ)を植えたという。ただ、現在はその毛痕跡しかない。木造、彩色、玉眼。
 開山堂(大応堂)には、創建時に一休が安置した「大応国師木像」(京都府登録文化財)が安置されている。
◆建築 「唐門」(重文)は、江戸時代、1650年に建立された。前田家により新造された。欄間に獅子、鳳凰の彫刻が施されている。
 「総門」(府指定文化財)があり、参道に続く。
 
「虎丘庵(こきゅうあん)」(府指定文化財)は、当初東山にあり、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で荒廃していた。1475年、現在地に移される。一休、森女が住していた。現在も、一休筆の「虎丘」の扁額がかかる。2畳水屋、6畳、3畳がある。檜皮葺。村田珠光作庭の庭がある。普段は非公開。
 「本堂(法堂)」(重文)は、室町時代、永享年間(1429-1440)、室町幕府第6代将軍・足利義教により建立された。山城、大和の唐様仏殿として最も古いという。典型的な禅宗様仏殿になっている。正面中央に桟唐戸、左右に花頭窓、波連子、礎盤に粽附円柱、柱上と中備に三手先の組物、柱頂に台輪、軒裏に二重の扇垂木、内部は大瓶束の妻飾など、内陣に鏡天井、外陣に化粧屋根裏、海老虹梁、雲形の繰形構造材など。桁行3間、梁間3間、入母屋造、檜皮葺。
 「方丈」(重文)は、江戸時代、1650年、加賀藩主・前田利常が、留守居役・高田弥右衛門に命じて再建した。材木は、菱屋十左衛門による。完成したのは1654年だった。中央奥に仏間、ほかに檀那の間、衣鉢の間がある。
 「開山堂(大応堂)」は、1912年に改築している。付近は妙勝寺の旧跡になる。
 
「御廟所(墓所、宗純王廟)」は、室町時代、1475年に一休により建立された。宮内庁が管轄し非公開。
 「浴室」(重文)は、江戸時代、1650年に修復された。蒸風呂の形式により、薬湯になっていた。非公開。
 
「庫裏」(重文)は、江戸時代、1650年に前田家により新造(修復とも)された。囲炉裏、竈、水甕がある。250㎡。
 
「宝蔵」は、1989年建立、一休の墨跡、遺品などが展示されている。
 「東司」(重文)は、江戸時代、1650年、前田家により新造された。東司(手洗い)として重文指定されたものは少ないという。
 「鐘楼」(重文)は、江戸時代、1623年に建立され、1650年に修復された。入母屋造、袴腰。梵鐘に、1623年作と銘が入る。
◆庭園 「虎丘庵(こきゅうあん)庭園」(名勝)は、室町時代の禅院式枯山水の庭園で、作庭は茶祖・村田珠光(1422/1423-1502)によるとみられている。東に七五三の石が据えられている。一休遺愛の2つの手鉢が据えられ、木斛、梅、椿などの刈込がある。普段は非公開。
 白砂と石組みによる枯山水式の「御廟所前庭」も、村田珠光作庭によるという。寿塔(慈楊塔)側から見ると、白砂に手前に礼拝石、奥に須弥山石が立てられている。背後に門があるが庭園がそれを塞ぐ形で作庭され、寿塔に向かう道がつけられていない。非公開。
 「方丈庭園」は、江戸時代、1650年、加賀藩第3代藩主・前田利常による方丈再興の頃に作庭されたとみられている。方丈南、東、北に庭があり、東庭と北庭は連携している。
 「北庭」は、江戸時代初期に作庭された方丈枯山水式という。作庭者は文人・石川丈山(1583-1672)、学僧、書画家・松花堂昭乗(1584-1639)、文人・佐川田喜六(1579-1643)ら3人の合作ともいう。このように、北に庭が造られる例は極めて珍しいという。200㎡ある。
 北東角に巨石で組んだ滝組があり、一文字に天端を切った平天石と立石によりなる。中央に卵型の観音石が立てられ、その前に台座石となる天平石が置かれている。さらにその前の白砂に、方形の座禅石が据えられている。観音石の右には龍門瀑、その右隣に鯉魚石が置かれている。これら東北角の滝組から落ちた水は西と南に流され、西に鶴島(鶴亀島)がある。石塔、石灯籠、蹲踞、手水鉢などが据えられている。
 「方丈南庭」(235㎡)は、江戸時代初期の作庭という。左に廟所、右に虎丘庵の屋根、背後の山並みが借景になる。平地は白砂奥に築山、台地との間に、サツキの生垣、西南に蘇鉄、サツキの丸い刈込がある。 
 「東庭」は、南北に細長い地割(37㎡)で、南から北へ直線的な16石が据えられ、十六羅漢の庭になっている。
◆茶室 三畳台目の小間「露滴軒」、広間の「閑座亭」がある。
◆文化財 一休自筆の「遺偈(ゆいげ)」(京都府指定文化財)には、死の直前に境地を述べた「須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不値半銭」とある。禅林の頽廃を批判しており、人の住む世界で我が禅を誰が理解するだろう。師・虚堂和尚ですらその半分も無理であると言い放つ。
 一休自筆の『自戒集』(京都府指定文化財)、『狂雲集』(京都府指定文化財)、仮名法語の説話集『骸骨』、絵入仮名法語『仏鬼軍』1巻、『仮名法語』1巻、和歌・狂歌説話問答集『二人比丘尼』。
 絹本著色「頂相(ちんそう、一休和尚画像)」(重文)は、一休の肖像画であり、室町時代後期(15世紀)の曽我蛇足(生没年不詳)筆という。一休は無精ひげを生やし、横目を使う。右足は左膝にのせて坐す。弟子の宗弁に与えた。賛は一筆による。98×43cm。
 仮名散らし書き「後花園天皇宸翰女房奉書(しんかん にょうぼうほうしょ)」(重文)は、室町時代、1449年、天皇が参議・東坊城益長宛に書いた。病に伏した一休を案じ、健康回復と仏法の継承を念じている。
 原在中(はら ざいちゅう、1750-1837)筆の掛軸「観音三十三身図」33幅は、江戸時代、1793年に寄贈されたという。観音菩薩の変化身を極彩色で描く。
 
方丈に一休が使用したという「輿」(重文)がある。大徳寺47世住職に就いた際には、この輿に乗り京都まで通っていたという。
 亀の背に乗る「鶴の燭台」がある。下の亀は頭を上げ、鶴は首を下げて互いに見遣る。
 方丈と庫裏の間に「車井戸」があり、釣瓶が下がる。
◆障壁画 方丈の襖絵は、江戸時代初期の狩野探幽(1602-1674)筆により、障壁画43面がある。
 衣鉢の間に、狩野探幽筆「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」がある。現在、これらの絵は、最新のDNPデジタル再製画が飾られている。
◆サロン 一休は、浄土真宗中興の祖・蓮如(1415- 1499)をはじめ、多くの人々と親交を結んだ。茶祖・村田珠光(1422/1423-1502)、能役者・金春禅竹(こんぱるぜんちく、1405-1469)は、世阿弥の後継者の一人で、後に金春流を創設した。一休を慕い薪庄に「多福庵」を建て移り住んだ。総門近くに、「薪能金春芝之跡」の碑があり、一休はここで能を鑑賞したという。
 連歌の柴屋軒宗長(1448-1532)、連歌師・俳諧の山崎宗鑑(1465-1553)、絵画の曽我蛇足(?-1483)らも集った。
◆薪騒動 近代、1871年、京都政府は酬恩寺に浪人らが集結し、不穏な動きがあるとして寺を包囲した。村人もこれに加わる。
 首謀者と見られる元久留米藩士・三村五郎は客殿大書院で割腹自殺した。そのほかの者は捕縛される。郷士・吉川信近(権十郎)、酬恩庵和尚・宗珪(そうけい)、清水寺観音堂管長・僧都らの名もあった。三村は当初、酬恩寺に葬られ、甘南備寺に移葬された。事件は、「薪騒動」と呼ばれている。
◆納豆 一休が中国帰りの禅僧から教わったという「一休寺納豆」の製法は、500年後のいまも寺に伝えられ、作り続けられている。塩味の黒く粘り気のない納豆の一種であり、栄養価が高く保存食になる。
  毎年7月末頃から作られる。初めに、蒸し上げた大豆(240㎏)に、はったい粉と麹菌(こうじきん)を混ぜる。麹蓋に入れ、麹室で2日間発酵させる。次に、塩湯入りの桶に入れ、日中、杓子で幾度かかき混ぜ、夜に寝かせる。これを繰り返し、最後は天日で干し、1年ほどかけて完成させる。さらに蔵で1年間寝かせて熟成させる。
◆景観破壊 1995年頃より、境内西側での業者による宅地開発が進み、今後さらに宅地化の予定になっている。危機感を持った寺側は、境内と一体になっている借景破壊につながるとして周辺土地を購入した。NPO法人「一休酬恩会」も、京田辺市、市議会などに開発制限を求めている。一休酬恩会は、ナショナルトラストによる裏山買い取り計画を進めている。
◆墓所 一休禅師墓所(宗純王廟)には、一休の遺骨を寿塔下に埋葬している。現在は陵墓として宮内庁が管轄する。
 室町時代、1475年、一休は生前に自ら寿塔を建立し、敬愛していた宋の慈明、楊岐禅師の名より「慈楊塔」と名付けた。現在は法華堂といわれ、堂内には卵塔がある。
 境内南の墓地に、室町時代中期の能役者・能観世流3代・音阿弥元重(1398-1467)、江戸時代の15代・左近元章(1722-1774)、江戸時代の19代・織部清興(1761-1815)の墓がある。織田信長に抗した室町時代-安土・桃山時代の武将・六角承禎(佐々木承禎、1521-1598)、弓木多攝津守(生没年不詳)、江戸前期の武人・茶人の寸松庵(佐久間将監、1570-1642)の墓もある。
◆精進料理 一汁九菜の精進料理が頂ける。精進弁当、精進膳がある。(要予約)。
◆年間行事 一休善哉(ぜんざい)の日(1月最終日曜日)、涅槃会(2月15日)、灌仏会・花祭り(5月連休中)、曝涼・盂蘭盆会(原在中筆「観音三十三身図」展示)(8月15日-16日)、一休寺薪能(彼岸会、江戸時代の原在中の絵を方丈に掲げる)(9月23日、中秋前後)、開山忌(廟の開門)(11月21日)、除夜の鐘(鐘が撞ける)(12月31日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京の古寺から 14 一休寺』『酬恩庵一休寺』『南山城の古寺』『京都古社寺辞典』『薪誌』『京田辺の史跡探訪』『甘南備寺マップ』『京田辺大百科』『事典 日本の名僧』『京都の仏像』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都・美のこころ』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京都の寺社505を歩く 下』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』


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方丈(重文)

方丈

方丈、扁額「酬恩庵」

一休が使用した輿、大徳寺47世住職に就いた際には、この輿に乗り京都まで通っていたという。

室中と奥の仏間(昭堂) 

木造一休和尚坐像(重文)、仏間

木造一休和尚坐像(重文)、掲示写真より

檀那の間、陶淵明(左)、林和靖図(正面)、狩野探幽筆、DNPデジタル再製画。

礼の間、「松竹梅図」、DNPデジタル再製画。

方丈、礼の間(左)、書院の間

方丈、書院の間(左)、眠蔵


南庭

方丈南庭の借景になる山並み



南庭

東庭

北庭、かつて庭からは、木津川を行き来する船の白帆が見え、比叡山も望めたという。一休もそれを眺めていたという。

開山堂

開山堂

開山堂(大応堂)

開山堂(大応堂)、大応国師(南浦紹明、1235-1309)木造が安置されている。
開山堂(大応堂)

中門

本堂(重文)

本堂


本堂

鐘楼(重文)

浴室(重文)

原在明筆「酬恩庭園図」(1805) 


宝蔵、一休の墨跡、遺品などが展示されている。

一休宗純頂相(朱太刀の像)、一休筆、宝蔵。この頂相(ちんぞう、肖像画)は、厳格な儀礼で高僧が座る曲ロク(きょくろく)という椅子と、その前の踏床(ふみどこ、ふんどこ)と呼ばれる沓脱台が描かれている。

「霊瑞山」の額字、天龍寺7世・此山妙在筆、宝蔵。

髑髏面、一休作という宝蔵。

「制法」、一休筆、室町時代、1479年、門下の掟を定めた、宝蔵。

一休筆、一休和尚名号「一休頓狂和尚」、宝蔵

一休像

少年一休像

妙勝寺旧跡


石仏群

茶人・寸松庵の墓

六角承禎(佐々木承禎)の墓

能観世流3代・音阿弥元重、15代・元章、19代・清興の墓。

「この はし わたるな」とある。

三本杉、一休手植えという。かつては、樹齢500年の三本の杉が生えていた。一休、蜷川新右衛門、蓮如がそれぞれ植えたともいう。1985年に枯死したため、その後移植されている。

三本杉

「薪能金春芝旧跡」の石標

「薪能金春芝旧跡」の石碑
 酬恩庵一休寺 〒610-0341 京田辺市薪里ノ内102  0774-62-0193  9:00-17:00 

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