長岡京跡 (長岡宮大極殿公園) (向日市)
ruins of Nagaoka-kyo
長岡京跡 長岡京跡
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「長岡宮城大極殿遺址紀念碑」の石碑当初立てられていた北大極殿公園より移された。




礎石跡をコンクリートで示した物


後殿跡、大極殿の北に位置した。


宝幢(ほうどう)を立てた3基の柱堀形の復元。中央に立つのが大柱、両側に添柱があり、3本の柱と横板で構成されている。宝幢は古代中国伝来の儀式用旗飾りをいい、天皇の権威を象徴した。
 長さ約9mの大柱の上に、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の絵、鳥、日、月の華やかな飾り物が付けられる。即位式と元旦に盛大に行われる「朝賀の儀式」にのみ大極殿の前に7本の宝幢が建てられた。
 1997年の発掘調査で、宝幢を建てた柱の掘形が発見された。長さ約3m、幅約1.2m、深さ0.8mの楕円形をしていた。



長岡京の復元図、説明板より


【参照】第50代・桓武天皇、京都アスニーの説明版




【参照】長岡京(左下)と平安京の位置関係、京都アスニーの説明板
 奈良時代、10年間にわたり長岡京(ながおかきょう)が首都になった。なお、地名の長岡は、京都盆地に南西に突き出す形の細長い丘、長岡に由来する。
 第二次世界大戦後、長岡宮で天皇が政治を司った大極殿、後殿、内裏内郭築地、朝堂院西第四堂、築地跡などが発掘された。いまは大極殿跡に、長岡宮大極殿(だいごくでん)公園がある。
◆歴史年表 奈良時代、784年、1月、持節征東将軍に大伴家持が任命された。5月、摂津職の報告に、蝦蟇2万匹が難波の市より出て四天王寺の内に入ったとある(長岡遷都の予兆とされた)。6月、第60代・桓武天皇は中納言・藤原小黒麻呂、藤原種継らを遣し、遷都のために山背国乙訓郡長岡村を視察させる。6月、造長岡宮使に藤原種継、佐伯今毛人らを任命し、長岡京造営が始まる。遷都を山背国の賀茂大神社に告げる。11月、桓武天皇は長岡京に移る。遷都のため賀茂上・下社、松尾・乙訓神に叙位、4社を修理する。
 785年、正月、桓武天皇は新大極殿で朝賀式、内裏で正月の儀式、宴を開く。(『続日本紀』)。7月、31万人の作業者動員の命が下る。当初の資材は難波宮よりの移築で調達された。9月、嶋町付近で造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件が起こる。桓武天皇同母弟の早良親王は皇太子を廃され、東宮に軟禁、乙訓寺に幽閉、その後、無実を訴え絶食死する。
 786年、7月、太政官院が完成する。
 788年、平城京が解体される。12月、征東大将軍・紀古佐美は蝦夷へ出征する。桓武天皇生母・高野新笠、淳和天皇生母・桓武天皇夫人の藤原旅子が相次いで亡くなる。
 789年、1月、造東大宮所が東大宮(第2次内裏)を造る。2月、桓武天皇は、西宮(第1次内裏)より初めて東宮(第2次内裏)に移る。3月、朝廷軍を多賀城に集結し蝦夷を攻める。6月、北上川畔で大敗、9月、征東大将軍は帰還する。
 790年、閏3月、桓武天皇皇后・藤原乙牟漏が亡くなる。4月、桓武天皇の子・安殿(あて)皇太子の病治療のため、長岡京七寺で読経が行われる。
 791年、9月、平城京宮域より門の移築が始まる。 安殿皇太子の病治療のため、山城国内寺院の塔修造が命じられる。
 792年、6月、安殿皇太子の病は早良親王の崇りと、神祇官の亀卜で示される。6月、8月、長岡京で二度の大洪水がある。9月、11月、桓武天皇は山背国葛野郡宇太村(平安京)を遊猟の名目で視察した。
 793年、正月、桓武天皇は大納言・藤原小黒麻呂、左大弁・紀古佐実らを遷都のため山背国野郡宇太村を視察させる。1月、桓武天皇は長岡京内裏破却のため東院に移る。2月、桓武天皇は賀茂・伊勢へ奉幣し、先祖の陵に遷都の奉告をする。遷都を賀茂大神に告げる。3月、行幸し新京を巡行する。新京の宮城を築かせる。
 平安時代、794年、和気清麻呂の建議もあり平安京遷都となる。6月、討伐軍副将軍・坂上田村麻呂らが蝦夷を攻め勝利を得る。7月、東・西の市を平安京に移す。(「日本紀略」)。10月、桓武天皇は平安京に移る。長岡京には山城国府が置かれる。当初は長岡京南にあり、後に離宮八幡宮北に移される。
 795年、太政官符が下され、旧長岡京の地を近衛府の蓮池、勅旨所の藍畠にするようにと命じられる。
 近代、1893年、平安京遷都1100年事業一環の「平安遷都千百年紀念祭」に伴い、「長岡宮城大極殿遺址創設会」が結成される。油屋・岡本爺平らにより、大極殿の推定地(北大極殿公園、現在地の北西100m)の発掘調査が行われる。江戸時代中期の『閑田耕筆』が大極殿発掘の根拠とされ、瓦などが見つかる。
 1895年、「長岡宮城大極殿遺址創設会」により、現在地の北、北大極殿公園内に「長岡宮城大極殿遺址紀念碑」が立てられ、長岡京大極殿跡とされた。
 現代、1954年、教員・中山修一により長岡京の発掘調査が始まる。
 1955年、中山修一は現在地(大極殿公園)に、長岡京の朝堂院中門にあたる会昌門跡を発見する。
 1959年、中山修一は長岡宮大極殿跡、大極殿院後門(昭慶門)、小安殿を発掘する。
 1961年、大極殿院後殿(小安殿)、大極殿が調査される。
 1962年、大極殿跡が発見された。 
 1964年、現在地の大極殿、小安殿跡が日本初の国の史跡公園に指定される。
 1966年、僧坊・講堂とみられる遺構が出土する。奈良時代末から平安時代の遺物も多数出土した。
 1968年、第二次内裏地区の調査が始まる。
 1967年、内裏内郭築地回廊北西部が確認される。
 1969年、内裏正殿の調査が行われる。
 1973年、第二次内裏内郭築地回廊跡が史跡に指定される。内裏朝堂院周辺で官衙遺構が見つかる。
 1977年、左京三条二坊八町で「太政官廚家」に関係する1000点以上の木簡、墨書土器も見つかる。
 1979年、内裏南方の重要官衙の遺構として、大規模な築地塀が発見された。 1980年、朝堂院西第三堂の調査が行われる。
 1981年、第二次内裏(東宮)、朝堂院西第一・二堂の調査が行われる。 
 1982年、朝堂院西第四堂の調査が行われる。
 1987年、二条大路が確認される。
 1990年、第2次内裏地区で大型建物を確認する。
 1991年、朝堂院西第四堂跡が国の史跡に追加指定された。左京二条二坊十町で一町を占有する離宮跡を確認する。
 1996年、朝堂院西外郭で地鎮芝垣遺構を確認される。
 1997年、大極殿院前庭で宝幢を建てた柱の掘形が発見される。
 2001年、朝堂院西第四堂の規模が確認される。
 2002年、中山修一記念館(長岡京市久貝)が生家の一部に開館する。
◆桓武天皇 奈良時代-平安時代の第50代・桓武天皇(かんむ てんのう、737-806)。父は白壁王(のちの第49代・光仁天皇)、母の高野新笠(たかの の にいがさ)は、百済の武寧王を祖先とする百済王族の末裔という。名は山部(やまべ)。皇位継承者ではなかった。772年、光仁皇后井上内親王が廃后、その子・他戸親王も廃太子され、773年、立太子された。781年、即位、同母弟・早良親王を皇太子に立てた。これらには藤原百川の画策があった。784年、平城京より長岡京遷都、785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に伴い、早良親王を廃太子に追う。794年、平安京再遷都した。百済王氏出自を官人などに重用、坂上田村麻呂を征夷大将軍とし、蝦夷侵略の兵を送る。最澄や空海を保護する一方、既存仏教を圧迫した。山陵は当初、宇多野(右京区)とされたが、柏原山陵(伏見区)に改められた。
◆藤原種継 奈良時代末期の官人・藤原種継(ふじわら の  たねつぐ、737‐785)。父は浄(清)成、母は秦朝元の娘ともいう。766年、従五位下、美作、紀伊、山背の国守、近衛少将を歴任。第50代・桓武天皇に信任され、782年、参議、783年、従三位式部卿兼近江按察使(あぜち)、784年、中納言。造長岡京使に任ぜられ、正三位に叙された。遷都工事を推進し、反対派の大伴継人(つぐひと)らに暗殺された。贈正一位左大臣のち贈太政大臣。 
◆和気清麻呂 奈良時代末期-平安時代初期の官僚・和気清麻呂(わけ の きよまろ、733-799)。備前国に生まれた。父は乎麻呂。女帝・称徳天皇の寵愛を受け、右兵衛少尉、764年、藤原仲麻呂の乱の功により勲6等を授けられた。766年、従五位下、近衛将監。769年、皇位に就こうと画策した道鏡による宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)で、広虫の代わりに宇佐に派遣されこれを阻止した。だが、称徳天皇により大隅国に配流された。770年、光仁天皇即位に伴い召還される。桓武天皇により、783年、摂津職の長官に任じられる。788年、中宮大夫、民部大輔も兼ね、美作・備前国国造。長岡京よりの遷都を桓武天皇に上奏した。796年頃、平安京造宮大夫に任じられた。799年、従三位民部卿兼造宮大夫。姉は広虫(法均尼)、子は広世、真綱、仲世など。
◆早良親王
 奈良時代-平安時代の皇族・早良親王(さわら しんのう、750-785)。第49代・光仁天皇と高野新笠の子。第50代・桓武天皇の弟。781年、桓武天皇の即位に伴い皇太子。785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に連座し、その首謀者、また天皇擁立計画があったとされた。皇太子を廃され乙訓寺に幽閉された。親王は淡路に流される途中、無実を訴えながら河内国高瀬橋付近で絶食死した。また処刑されたともいう。遺骸はそのまま淡路島に運ばれている。
 事件は桓武天皇側の謀略とみられている。800年、桓武天皇は、早良親王に崇道天皇の号を追贈した。墓も改葬させ、淡路に寺を建立した。また、大和の八嶋陵に改葬する。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれている。
◆大伴家持 奈良時代の官人・歌人の大伴家持(おおとも の やかもち、?-785)。旅人の子。738年、内舎人、740年、聖武天皇の東国行幸に従う。746年、越中守、その後少納言、因幡守。762年、信部(中務)大輔、藤原良継らと図った反仲麻呂計画が露見し、764年、薩摩守とされた。770年、民部少輔、左中弁、衛門督、参議と歴任。781年、右京大夫、早良親王の春宮大夫を兼ね、左大弁、従三位に昇った。782年、氷上川継謀反事件に関して解官、参議春宮大夫に復し、のち兼陸奥按察使鎮守将軍となる。中納言、持節征東将軍、中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守将軍として陸奥国の建郡を実現。785年、没直後、藤原種継暗殺事件首謀者とされ除名、子らも隠岐に流された。806年、桓武天皇没時に従三位に復された。『万葉集』の編者とされる。
中山修一 近現代の地理学者・中山修一(1915-1997)。長岡京市に生まれた。中山長作、ふしの長男。 1935年、京都府師範学校卒業、小学校訓導・短期現役兵に入隊し、陸軍歩兵伍長。1939年、京都府師範学校専攻科入学、1942年 、『乙訓村海印寺村郷土史の研究』を著し、早良親王幽閉事件に関し不敬罪として警察の取り調べを受ける。終戦後、1946年、京都大学文学部史学科地理学、同大学院修了。旧制女専教員、新制高校を経て指導主事。1954年、定時制教諭をしながら長岡京の発掘調査を開始、1955年、朝堂院中門にあたる会昌門跡を発見。1959年、大極殿跡・小安殿を発掘。1966年、「乙訓の文化遺産を守る会」副会長に就任。1972年、京都家政短期大学に勤務。1976年、長岡宮跡発掘調査団(のちに長岡京跡発掘調査研究所)を再結成し団長となる。
◆長岡京 奈良時代、770年、女帝の第48代・称徳天皇の没後、道鏡は失脚、新官人が台頭した。天武系皇統より、それまでは傍流だった天智系皇統の第49代・光仁天皇に移行した。781年、光仁天皇没後、天智系皇統の第50代・桓武天皇が即位し、長岡京遷都になる。
 奈良時代、784年より10年間にわたり長岡京は山城国乙訓郡に存在した。現在の向日市、長岡京市、京都市西京区を含む。東西4.3㎞、南北5.3㎞の広さを有していた。
 長岡京遷都の理由として、①この地が河川の合流点(桂川、宇治川、木津川)に当たり、水陸交通の要地だった。淀川により難波宮と直結していた。②平城京で台頭した奈良の仏教寺院勢力よりの離脱、また貴族層を抑えるためともいう。③長岡京が四神相応の地であった。④桓武天皇が渡来人の血をひき、渡来系の多く住むこの地を選んだ。この地は、側近・藤原種継の姻戚関係にある秦氏の本拠地であり、その協力が得られた。⑤天皇が中国の革命思想に影響され、皇統交替の具現のために、律令体制の再建のためともいう。
 藤原種継は平城京棄京を勧め、784年に万事が改まるという「甲子革令」により断行した。これは、王朝交代の革命の年・辛酉の年の4年後に、天意が革(あらた)まり、徳を備えた人に天命が下される「革令」の年とされたことに基づく。
 長岡宮の造営には、難波宮や平城宮の古材が再利用され、短期での建築が可能になった。土地区画は「長岡京型」と呼ばれ、区画規模を揃え道路を設けた。これは、平城京型と平安京型の過渡になる。宮域では条坊制により、大路(幅24m)、小路(幅9m)があり、一辺約120mの土地に区分けされていた。
 天皇住居の内裏、官庁街の宮城(大内裏)は、北側中央にあり、東西1.02㎞、南北1.55㎞の広さがあった。築地大垣に囲まれ宮城門が設けられていた。大極殿と朝堂院、内裏、官庁が置かれた。朝堂院は南より南門(会昌門)、東門、西門、東西4堂の8堂が建てられた。これは正都伝統の12堂とは異なるものだった。その規模、構造は難波宮と類似していた。その北に隣接して閘門、複廊の廻廊内に北に大極殿(東西109m、南北200m)、後殿(小安殿)、後門(昭慶門)があった。
 北辺に倉庫(大蔵)群が建てられ、宮の北側に園地(北苑)も設けられた。左京北東隅には運河(幅12m、深さ3m)が通じており、木材などの物資陸揚げの場になっていた。都の西南の大山崎町付近には山崎津、東方には淀津などが整備され、水運が開かれていた。東西2つの市も開設された。京域には小規模な役所、離宮、貴族・役人の住宅、兵士駐屯地、寺院などがあり、東西4.3㎞、南北5.7㎞の広さがあった。中央に南北の通り朱雀大路が通じ、東を左京、西を右京と分けていた。
 794年、長岡京の完成は7、8割だったという。その完成を待たずに平安京に遷都される。長岡京の棄京、再遷都の理由の有力説として、桓武天皇が早良親王の崇りを恐れたためといわれている。また、度重なる洪水被災を避けたためともいう。和気清麻呂は桓武天皇に、宇太の地(平安京)への再遷都を進言している。
◆藤原種継暗殺事件 奈良時代、785年9月23日深夜、桓武天皇の最も重要な側近で、長岡京遷都を推進していた造長岡宮使長官・藤原種継が弓矢で射殺された。種継は嶋町の工事現場巡回中だったという。
 この藤原種継暗殺事件の実行犯・大伴継人は即刻射殺、共犯者ら数十人が捕えられる。実行犯らは、種継の棺の前に引き出され斬首になる。首謀者とされた官人・歌人の大伴家持(おおとも の やかもち)は死亡していたにもかかわらず官位を奪われ、子らも流罪になる。皇太子・早良親王は、乙訓寺に幽閉され、無実を訴え淡路に移送される途中で絶食して亡くなる。処刑されたともいう。事件は、桓武天皇の子・安殿親王(のちの第51代・平城天皇)を皇太子にするための陰謀だったともいう。藤原百川(ももかわ)、永手、良継ら藤原氏一族、佐伯氏の関与があったともいう。
 これより以前、770年、第49代・光仁天皇は、井上内親王を皇后、子・他戸(おさべ)親王を皇太子に定めた。771年、2人は「謀反大逆」の嫌疑により皇后、皇太子を廃される。代わりに皇太子には、山部親王(のちの桓武天皇)が決まった。775年、井上皇后、他戸親王も囚われ、憤死している。
 その後、桓武天皇の周辺に死者が相次ぎ、天変地異も続く。788年、桓武天皇夫人・藤原旅子が亡くなり、長岡京が雷と暴風に見舞われた。789年、美作女王、命婦・大原室子が亡くなる。790年、桓武天皇の生母・高野新笠、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)、夫人・坂上又子が相次いで亡くなる。また、皇太子・安殿親王(あてのみこ)も重病になった。さらに都では旱魃、悪疫が流行する。792年、長岡京で2度の大洪水があり、それら一連の出来事は早良親王の祟りによると恐れられた。
 桓武天皇が占わせた陰陽師は、早良親王の祟りによるものとした。和気清麻呂は、宇太の地(平安京)への再遷都を桓武天皇に進言した。794年、遷都は実行され、長岡京はわずか10年で棄京された。だが、この年、安殿親王の妃・藤原帯子が急死している。また、地震も起きた。
 800年、桓武天皇は、早良親王に崇道天皇の号を追贈し、墓も改葬させる。井上内親王の宇智陵(奈良五条市)近くに霊安寺を建立、大和の八嶋陵(奈良市八島町)に改葬した。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれた。
 桓武天皇陵は当初、葛野郡宇太野の地に定められた。だが、山火事が発生し、煙と灰で都が黄昏のような光景になったという。賀茂神による災火ということ で、紀伊郡柏原に移された。(『類聚国史』)。863年、神泉苑で御霊会が開かれ、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六霊が祀られている。
◆年間行事 大極殿祭(11月11日)。


*歴史年表中の発掘調査結果は鶏冠井町周辺に限定。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『あなたの知らない京都府の歴史』『平安の都』『京都の地名検証 2』『京都・観光文化 時代MAP』、長岡京市サイト


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 長岡宮大極殿跡 〒617-0004 向日市鶏冠井町大極殿  
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