樫原廃寺跡 (京都市西京区) 
ruins of Katagihara-haijiato Temple

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瓦積基壇、側面に平瓦が隙間なく積み上げられている。現在は南北に石段が付けられている。基壇の一辺は5.07m、高さは1.17m。


瓦積基壇(1辺5.07m、高さ1.17m)、延石はなく平瓦を積み上げていた。


石段、南北に二つ付けられていた。


基壇上の礎石、一番外側の石は八角形に並べられている。ここに八角堂が建てられていた。

 山陰街道南西の住宅地に、古代寺院の遺構、史跡公園の樫原廃寺跡(かたぎはら はいじあと)がある。現在は、八角塔が建っていたとみられる基壇部分だけが復元されている。渡来系氏族秦氏による建立ではないかという。 
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 飛鳥時代、白鳳期(645-710)、建立されたとみられている。寺名も特定されていない。
 奈良時代末-平安時代初期、少なくとも寺院が存在していたとみられている。
 現代、1967年、宅地造成に際し、発掘調査が行われ遺構が発見された。周辺の地名により、樫原廃寺と名付けられた。
 1971年、国の史跡に指定されている。
 1998年、金堂以北について国の史跡の追加指定となった。
◆樫原廃寺 寺院は、出土瓦などから飛鳥時代、白鳳期(645-710)に建立されたとみられている。伽藍の配置は、南北一直線に建物が並び、回廊が建物を取り囲む四天王寺式となっていた。南より中門、八角塔、金堂、講堂の伽藍が一直線上に建っていた。中門と金堂は回廊で繋がり、回廊のほぼ中央に瓦積基壇を持つ八角塔が建っていた。瓦積基壇は、基壇外側に平瓦の半切したものを積み上げて築き、葛野郡に勢力を有していた北部の秦氏が関わる高句麗系寺院といわれている。
 中門からは、東西20m、南北11mの基壇が見つかっている。門の左右に回廊があり、それぞれ南北5m、長さ22mの基壇があった。さらに回廊は北へ向かい、南北65m以上、幅2.4mの基壇を持つ略式の築地塀になっていたとみられている。西側の築地の両側に雨落溝が見つかっている。東西の築地は、塔心よりそれぞれ31.85m離れていた。
 中門の北35mに八角塔が建てられていた。塔は瓦積基壇(一辺5.07m、対辺12.27m、高さ1.17m)に建てられていた。瓦は縦に半載した平瓦を10数枚積み上げていた。基壇中央に、地表より2m地下に円形の柱型があり、心柱の礎石(一辺2m、厚さ1m、花崗岩製)があった。基壇の南北に階段が付けられていたとみられている。八角の塔は日本では他に類例がないという。ただ、奈良の南法華寺(壺阪寺)、法隆寺夢殿がある。
 7世紀半の単弁八葉蓮華文の軒丸瓦、素文の顎に蓮華文を打ち出した軒平瓦なども出土したことから、寺院の創建もその頃であると推定されている。そのほか後世の奈良時代末の鬼瓦、奈良時代末-平安時代初期の軒平瓦も見つかっている。
◆遺構 瓦、土器、陶器、瓦器などが発掘された。現在、史跡公園には八角塔瓦積基壇が復元されている。かつて公園の南に瓦窯跡があったという。寺で使われた瓦はここで焼かれていたとみられている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『飛鳥白鳳の甍 京都の古代寺院』


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基壇上の礎石、心礎(中央の窪地)は基壇上の表土より下2mに置かれ、差し渡し2mの巨石があった。塔は心柱を取り巻く四本の柱礎石である四天柱間、側柱通りの柱間ともに2.2mあったとみられている。

寺の伽藍配置、左下に中門、中央に八角塔、その右上に金堂、講堂が建つ。説明板より。最新の発掘調査によると、塔、中門に較べ金堂が小規模であること。北の金堂も広大な築地内に建てられていた可能性も出ている。途中で建立計画が変更され、規模縮小になった可能性も指摘されている。
 樫原廃寺 〒615-8152  京都市西京区樫原内垣外町17-11
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