平等院 (宇治市) 
Byodo-in Temple
平等院 平等院
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表門(北門)


表門


南門




阿弥陀堂(鳳凰堂)と阿字池


阿弥陀堂(中堂)(国宝)









「九品来迎図」中の「中品上生図」、阿弥陀聖衆(中央左)が臨終者の家に迎えに来ている図。




阿字池、「阿」とは梵語の不生不滅を意味し、永遠の象徴としての極楽浄土を示す意。



本尊、華型曼の窓を通して阿弥陀如来坐像(278.8㎝)を拝する。





右(北)の翼廊


右(南)の翼廊






中堂の屋根にある棟飾りの二代目、北側の鳳凰像(1965)






尾廊


北の平橋、新たに中島に渡された。


反橋


南の橋


阿弥陀堂前の洲浜、近年修景された。平安時代の形式として、仏の供養のために石灯籠が1基のみ置かれている。


石灯籠(重美)、平等院型といわれる。鳳凰堂前に据えられている。









サクラ、フジ


阿字池


平等院蓮




スイレン


東の景色、山との間に宇治川が流れている。かつては川を望めたという。


阿弥陀堂から東の景色。


尾廊付近から勢いよく湧水している。かつて、造営当初に池には宇治川の水が引き入れられていたといわれていたが、境内の湧水「浄土水」で賄われていたとみられている。


観音堂(重文)


観音堂(重文)


藤棚の藤の花




鐘楼


梵鐘(複製)


六角堂、休憩所


塔頭・最勝院


塔頭・最勝院庫裏


最勝院、本堂、役行者を安置。


塔頭・最勝院


最勝院


最勝院、不動堂、本尊は不動明王像、鎌倉時代作。ほかに役小角を祀る。


最勝院、地蔵堂、地蔵菩薩坐像(池殿地蔵)、源頼政の念持仏という片袖阿弥陀如来像を安置する。


塔頭・浄土院



救世船乗観音と厨子、江戸時代に、浄土院子院の観音堂があり、その本尊だった。太平洋戦争後、観音像は盗難に遭い、開創950年記念に復元された。観音像は舟に乗り櫂を漕ぐ。仏師村上清作。


入母屋造、正面に向拝付。



浄土院、本尊・阿弥陀如来坐像、上品上生印を結ぶ。



浄土院



浄土院、羅漢堂



浄土院


浄土院、養林庵書院(重文)



「平等院ミュージアム鳳翔館」




扇の芝、観音堂北にある。歌碑には「花咲きて みとなるならば 後の世に もののふの名も いかでのこらん」とある。下は、源頼政の辞世の句碑「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」 



頼政塔、源頼政の墓という宝篋印塔(2m)が塔頭の最勝院内にある。



通圓家・太敬庵通圓(?-1180)の墓、浄土院



宇治茶祖、茶師・上村竹庵の碑誌
 宇治川の西岸に面し、平等院(びょうどういん)はある。境内からは東に川を隔てて、朝日山(あさひさん)、仏徳山などが望める。境内は2万232.3㎡を有する。山号は朝日山という。  
 現在は特定の宗派に属さない単立寺院になっている。なお、境内にある天台宗系塔頭・最勝院と浄土宗の塔頭・浄土院の2寺院が共同で管理する。本尊は平安時代の定朝作の阿弥陀如来を安置している。
 1994年、世界文化遺産に登録されている。神仏霊場会第125番、京都第45番。
◆歴史年表 平安時代、814年以前、宇治の地には、多くの貴族の別業(別荘)が営まれていた。「宇治別業」と記されている。(『日本後紀』)
 859年、この地に、左大臣・源融は別業を造営した。
 889年、源融の宇治別業の記述がある。(『扶桑略記』)
 その後、第57代・陽成天皇(869-949)の離宮になる。さらに、第59代・宇多天皇(867-931)所領、第61代・朱雀天皇(923-952)の離宮「宇治院」を経て、宇多天皇の孫の左大臣・源重信(922-995)の手に移った。
 998年、995年とも、関白・藤原道長は、源重信夫人より「宇治院」を譲り受け、別業「宇治殿」とした。(『花鳥余情』)
 1027年、道長没後、子・頼道に引き継がれる。
 1052年、1051年とも、頼通は、寝殿を本堂に改め平等院とし供養する。(『扶桑略記』『伊呂波字類抄』)。この年は末法初年に当たるとされた。都の治安は乱れ、僧兵の強訴、疱瘡などの疾病の流行、火災などの混乱が続いた。開基は頼通、開山は寺門派園城寺長吏・明尊を初代執印(開山)とした。当初は、天台宗寺門派に属した。境内は当初、14万haを有した。北大門(宇治橋南)、西大門(宇治駅辺)、南大門(浄土院南)があり、方5間の本堂は、現在の阿弥陀堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり、金堂に安置の大日如来を本尊とした。以後、寺は藤原氏の氏寺になる。
 1053年、阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立され、京都の仏所から、10時間をかけて運ばれた定朝作の阿弥陀如来坐像が安置される。3月4日、頼道は明尊を導師として遷座式、落慶法要が営まれる。法華堂が供養された。(『定家朝巨記』『扶桑略記』『伊呂波字類抄』)
 1056年、法華堂の供養が行われる。
 1063年、1061年とも、頼道娘・四条宮寛子(かんし、後冷泉天皇皇后)により、多宝塔などが供養された。(『定家朝巨記』)
 1063年、宝蔵が完成する。
 1064年、園城寺長吏・覚円が平等院執印になる。
 1066年、三男・師実により五大堂が建立され、五大明王が安置された。師実は供養する。(『扶桑略記』)
 1067年、第70代・後冷泉天皇が初めて行幸する。
 1069年、頼道は一切経会(いっさいきょうえ)を平等院で修した。宇治 一切経会の初めになり、以後恒例となる。(『扶桑略記』)
 1070年、3月3日、一切経会が恒例になる。(『扶桑略記』)
 1073年、源師房が不動堂の供養をする。頼通が初めて経蔵で一切経会を行う。(「江都督納言願文集」三)
 1074年、頼道が平等院で逝去する。この時、鳳凰堂、法華堂、五大堂、不動堂、多宝塔、経蔵などが建ち並んでいた。
 1076年、阿弥陀堂を慶する。師実が供養した。
 1083年、泉殿が完成する。
 1087年、白河上皇(第72代)が御幸する。
 1089年、僧坊、阿弥陀堂が焼失した。
 1110年、四条宮寛子は池殿堂を供養する。
 1113年、四天王寺を永く平等院門室に附する旨の宣下がある。
 1118年、四条宮寛子は華麗な十種供養会を執り行う。寛子は小御所より高覧する。阿弥陀堂は飾られ、池には様々な造り物が置かれた。花、香、装飾品など10種が供される。池に竜頭鷁首の船、東の庭に雅楽舞台も設けられていた。(『中右記』)
 1126年、八角愛染堂が供養される。円堂が供養される。(『中右記』)
 1158年、後白河上皇(第77代)が御幸する。
 1180年、平氏追討のため以仁(もちひと)王らによる挙兵の「治承の乱」で、源頼政は落ち延びる途中、平等院境内「扇の芝」で自刃した。
 1182年、 定恵は、四天王寺別当を永く園城寺平等院に附せられることを請う。
 1184年、源義経と源義仲の戦(梶原景季と佐々木高綱の宇治川の先陣争い)が宇治川東岸で行われる。
 1187年、摂政・兼実が参詣する。
 1190年、阿弥陀堂、回廊、経堂が修復された。
 鎌倉時代、1192年、鳳凰堂が修理される。(『玉葉』)
 1221年、承久の乱で、宇治川西岸に北条泰時、東岸に後鳥羽上皇軍が陣取った。境内には幕府の陣が敷かれた。院は損傷を免れる。
 1223年、園城寺(三井寺)衆徒は、四天王寺別当職を平等院に返付するを請う。
 1231年、藤原定家は『明月記』で、平等院の荒廃を嘆く。
 1281年、平等院の要請により、叡尊は殺生禁断の放生会を行う。
 南北朝時代、1336年、前年の足利尊氏の第96代・後醍醐天皇への反乱に際し、楠木正成、畠山高国両軍の宇治での戦となる。阿弥陀堂以外の多くの伽藍が焼失した。小御所も焼失したとみられている。(『続史愚抄』『太平記』)。以後、平等院執印の名が消える。
 1365年、回廊が焼失している。
 1377年、奈良・興福寺衆徒による動座された神木が境内に逗留している。(『愚管記』)
 文明-明応年間(1469-1501)、修造勧進が行われる。(『後法興院記』)
 室町時代、天台宗寺門派の円満院(現大津市)門主が、平等院住職を兼務している。
 1486年、2月(旧暦)、山城国一揆の国人(こくじん)たちの会合があり、評定が平等院で行われる。地侍、国衆、農民らが、対立する畠山政長と畠山義就軍の撤退などを要求した。 (『大乗院寺社雑事記』)
 明応年間(1492-1501)、境内に浄土院が建立された。
 15世紀(1401-1500)末以降、浄土宗僧侶が境内に止宿し、周辺での布教を行う。
 1500年、浄土宗の僧・城誉栄久が平等院伽藍の修理を行う。浄土宗を兼帯する。
 安土・桃山時代、1582年、天台宗寺門派円満院門主による平等院住職兼務が断絶した。(「県神社文書」)
 江戸時代、1610年以後、天台宗の放棄に代わり、真言宗が護持している。(「県神社文書」)
 17世紀(1601-1700)初頭、浄土宗は境内・境外に10程度の子院を建立した。その後、浄土宗、真言宗による平等院の管理をめぐり対立が続いた。
 1649年、浄土宗、真言宗の間において、平等院を一山の総称とし、両派により院を護持することが決まった。(「最勝院文書」)
 1654年、境内に、天台宗による最勝院の基が建立された。
 寛文年間(1661-1673)、桜井宗恩らにより鳳凰堂の修理が行われ、正面扉が取り替えられる。
 1662年、最勝院が再び円満院兼帯所になっている。
 寛文年間(1661-1673)、幕府茶道頭・桜井宗恩らにより、阿弥陀堂の大修理が行われている。
 1670年、堂宇修理が行われる。(「『平等院奉加帳後記」)
 1679年、宇治大火により北門が焼失する。
 1680年頃、阿弥陀堂は鳳凰堂と呼ばれた。
 1681年、寺社奉行により裁定が下り、天台宗、浄土宗両派により院は護持され、一山の総称は平等院とすること、両派により修理は交代で行われることになる。(「浄土院文書」)。ただ、その後も両派の対立は続いた。
 1698年、宇治大火により北大門、西大門などが焼失している。(『山州名跡志』)。以後、荒廃する。
 1732年、浄土宗・真誉が住した。『平等院略記』を著わす。
 文化年間(1804-1818)-天保年間(1830-1843)、境内は荒廃し、参詣者による阿弥陀堂への落書きなど野放し状態になる。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により混乱した。文化財は海外流出し、三門は売買される。鎮守社の県神社は独立する。
 1881年、平等院事務章程を浄土宗と協定する。
 1895年、京都府社寺掛の平等院鳳凰堂修理が行われた。
 1897年、鳳凰堂は、特別保護建造物の指定を受ける。
 1902年/1903年-1907年、最勝院、浄土院両派による阿弥陀堂の大修理が行われている。また、浄土宗の子院は廃された。
 1907年、日本美術院第二部により修理が行われる。
 1922年、史跡・名勝天然記念物の指定を受ける。
 現代、1945年以後、太平洋戦争後の混乱で荒廃した。
 1950年-1956年、鳳凰堂解体修理が行われる。
 1954年、本尊胎内より創建時の鳳凰の羽の尾羽片が見つかる。
 1957年、鳳凰堂修理が終わる。基壇が創建時に復元される。
 1965年、宝物殿が完成した。
 1990年、庭園の発掘調査が始まる。
 1993年、庭園の復元が終わる。
 1994年、ユネスコの世界文化遺産に登録される。四条宮寛子が建てたという多宝塔跡が境内南東に見つかる。
 1999年、境内の江戸時代の地層より蓮(平等院蓮)の種が発掘された。
 2001年、鳳翔館が開館する。平等院蓮が開花する。
 2002年、発掘調査、庭園の復元整備工事が行われた。
 2003年、庭園の復元工事が終わる。
 2004年、阿弥陀如来坐像、天蓋の修理が始まる。
 2005年、阿弥陀如来坐像の修理が終わった。
 2007年、天蓋の修理が終わる。
 2012年、鳳凰堂の修理が始まる。
 2014年、鳳凰堂中堂と両翼廊の修理が完了し、平安時代の色調で復元された。
◆藤原道長 平安時代の公卿・藤原道長(ふじわら の みちなが、966-1028)。公卿・藤原兼家の五男に生まれた。991年、権大納言、995年、内覧、右大臣、氏長者、996年、左大臣となる。第68代・後一条天皇即位(1016)により摂政になる。三人の娘を天皇の妃にした「三后柵立」を成功させた。「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(1018)と自らの栄華を歌っている。1019年、出家し行観(のち行覚)と称した。土御門殿、無量寿院(後の法成寺、1022)、浄妙寺を建立している。
 最期は、法成寺阿弥陀堂の九体の阿弥陀如来像と結んだ五色の紐を手にして亡くなったという。宇治木幡に葬られる。この地に、浄妙寺を建立している。
◆藤原頼通 平安時代の公卿・藤原頼通(ふじわら の よりみち、992-1074)。父は藤原道長、母は左大臣・源雅信の娘・倫子の嫡男。13歳で春日祭使に選ばれた。1017年、第68代・後一条天皇の摂政を父・道長から譲られる。以後、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇の摂関となる。妻(具平親王の娘隆姫)との間に女児に恵まれず、天皇の外祖父として権勢をふるえなかった。1052年、宇治の別荘を寺院に改め平等院と名付けた。1068年、関白職を弟・教道に譲り、平等院に隠棲、1072年、出家した。宇治殿、宇治大相国とも呼ばれる。荘園・高陽院を経営した。
◆藤原寛子
 平安時代中期の女性・藤原寛子(ふじわら の かんし/ひろこ、1036-1127)。父は関白・ 藤原頼通、母は藤原祇子。四条宮寛子とも称した。弟は藤原師実。1050年、15歳で入内。1051年、第70代・後冷泉天皇の皇后宮に冊立する。天皇寵愛を受けたが子に恵まれず、藤原家衰退の一因になった。1063年、平等院に多宝塔、小御所などを建てた。1068年、藤原歓子の皇后宮冊立を受けて中宮に冊立、中宮章子内親王とともに三后が並立した。同年後冷泉天皇没後に出家する。1069年、皇太后、1074年、太皇太后。宇治・法定院に居住した。1102年、白川金色院を創建した。
 歌合を催し、故実に通じ「四条宮故実」といわれた。天皇没後、宇治・法定院に居住し92歳で亡くなる。
◆明尊 平安時代の天台宗寺門派の僧・明尊(みょうそん、971-1063)。京都に生まれた。小野道風の孫にあたる。歌人としても知られた。余慶、観修、慶祚らに師事。近江園城寺長吏を二度務め、塔頭・円満院を創建した。1038年、大僧正、1048年、天台座主となる。藤原頼通の帰依を受ける。道長娘・一乗中宮東門院も明尊を戒師として落慶した。興福寺再建供養会の導師、平等院の検校となる。弟子覚円(30代園城寺長吏)は頼通の子。
◆源頼政 平安時代の武将・歌人・源頼政(みなもと の よりまさ、1104‐1180)。摂津源氏の生まれ。源仲正の長男、母は藤原勘解由次官友実の娘。摂津渡辺党の棟梁。白河上皇(第72代)に仕えた。1156年、保元の乱で、源義朝に従い、第77代・後白河天皇を警固、源為家・為朝と戦う。後白河法皇をめぐり藤原通憲(信西)・平清盛と藤原信頼・源義朝とが対立した1159年、平治の乱で、平清盛方につき、平家政権下唯一の源氏になった。1176年、清盛の推挙により従三位。1179年、剃髪した。1180年、平氏追討のために以仁王を立て、平氏滅亡の契機になる。挙兵したが敗れ、三井寺の僧兵とともに南都に落ち延びる。途中、平知盛、重盛の軍に追われ、平等院境内 「扇の芝」で自刃した。以仁王を奈良に逃すための足止め策だったともいう。戦は、以後の源氏台頭の契機となる。『平家物語』の「橋合戦」にもとりあげられた。
 鵺退治の伝承がある。和歌に優れ「棟梁」として知られた。著『源三位頼政家集』。辞世の句は「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」。
 境内には、頼政ゆかりの史跡などが残されている。自刃した地「扇の芝」には碑が立つ。最勝院に供養塔、頼政の絹本著色像がある。浄土院に木像、鵺退治に使ったという弓が安置されている。また、頼政筆伝の「平等院切れ」がある。なお、頼政の長男・仲綱は、釣殿で自害している。
◆定朝 平安時代中期の仏師・定朝(じょうちょう、生没年不詳)。康尚の子、弟子ともいう。1020年、無量寿院(法成寺)阿弥陀堂、1022年、金堂、五大堂の造仏により仏師として初めて法橋に叙せられた。1024年、薬師堂、1046年、焼失した興福寺の復興を手がけ、その功により、1048年、法眼となる。1053年、平等院の阿弥陀堂、1054年、名作といわれた西院邦恒朝臣堂などの阿弥陀仏を造仏した。
 定朝は、旧来の一木造より寄木造へ、割矧(わりはぎ)造の手法を完成させ、仏師の分業方式を可能にした。頭部、胴部も複数の角材を縦に束ねることで、像内を刳りやすくなる。部材を分割することで作業効率も高まる。像全体の軽量化とともに細部の彫刻が容易になる。材のひび割れ、狂いの防止にもなった。定朝は、飛天光、七重蓮華座を創案したとされる。
 定朝様式は「仏の本様」とされた。仏像そのものにとどまらず、像の周囲の造形物にも配慮した。仏所を創設、仏師の制度(大仏師10人、その下に小仏師各5人)を整備し、仏師の社会的な地位向上にも貢献した。
◆永久 室町時代の僧・永久(えいく、?-1515)。三条西実隆の子とも。1494年頃より、近衛家の推挙により平等院を修復した。この頃、塔頭・浄土院を開く。
◆末法思想 弥勒信仰は、平安時代末期-鎌倉時代にかけて広まった。
 釈迦入滅後の500年(1000年とも)を「正法(しょうぼう)」、次の500年(1000年とも)を「像法(ぞうぼう)」、像法後10000年を「末法(まっぼう)」とした。末法の世には教(教義)のみがあり、行(修行)、証(覚り)はなく、真の仏法が衰えて世が混乱するとされた。その後、56億7000万年を経て、弥勒菩薩が弥勒仏となり兜率天から下生し、ようやく末法の世を救済するとされた。
 末法の年については諸説あった。10世紀末、有力説では、釈迦の入滅を949年とした。このため、末法第一年は平安時代、1052年になる。関白・藤原頼道は不安に駆られ、1053年に継承した別業を捨て寺に改め、平等院の鳳凰堂を落慶供養している。
◆平等・西方浄土 源信(942-1017)以前、西方極楽浄土への往生とは、死者のために祈るものだった。
 985年に源信が記した「往生要集」では、地獄の惨状が説かれるとともに、生者が生前に自らの死後、浄土への往生を祈る信仰に変わった。「臨終行儀」の章では、死に臨んで、自分の手と阿弥陀如来の手を五色の糸で結び付けると、極楽往生ができると説いた。藤原道長は、これを実践して亡くなる。
 その子・頼通は、父より伝領した別業を寺に改め、平等院と名付けた。平等院の「平等」とは、「生きていく者に与えられた機会の平等」と、「最期の救済が平等に約束されている」ことを意味した。
 当初の境内は東は宇治川まで達していた。平等院の鳳凰堂とは彼岸であり、対岸の仏徳山などは此岸と考えられた。(『扶桑略記』)。極楽浄土の現世とは平等院そのものであり、「極楽いぶかしくば、宇治のみてらをうやまへ」とまで歌われた。もしも極楽の存在に疑問があるのなら、平等院へ参詣せよの意味という。
 現在、本堂に安置の阿弥陀如来像を池の対岸から見ると、堂内に光が差し込み、像が池に映り込む。池に結んだ像を90度起こしていくと、本堂を台座に見たてて、巨大な阿弥陀仏が堂の上に立ちあがる。2羽の鳳凰像は、像の膝下にある迦陵頻迦に当たる。また、二つの翼廊は、阿弥陀仏の脇侍の観音・勢至菩薩とも見える。これを十六観想中の華座観といい、仏の姿を虚空に思い描くことで、堂は蓮華になっている。
 夜、堂前の燈籠に火が灯ると、灯もまた池に映り、蓮華の茎の様に見える。茎は蓮華に見たてた堂につながる。また、鳳凰堂の背後に日没があると、西方浄土とは光に満ちた、日没の方向にあるという日想観、透明で清浄な水に包まれているという水想観も表していた。堂内の阿弥陀如来像は、池のみならず、宇治川、対岸の山々などとも一体化して西方浄土を再現している。
◆阿弥陀堂の仏像など 阿弥陀堂内に、平安時代後期、1053年、仏師・定朝によって像造された丈六、皆金色の「阿弥陀如来坐像」(国宝)が安置されている。史料的に確認できる唯一の定朝作といわれている。浄土思想に基づき、現世での阿弥陀仏信仰が、来世での極楽浄土往生に導くとされた。極楽浄土は西方(彼岸)にあるとされ、頼道の娘・四条宮寛子は、阿字池を挟んだ阿弥陀堂の対岸に小御所を建て、阿弥陀堂内の阿弥陀如来を拝していたという。
 本尊は定朝晩年の作、平安時代後期、藤原様式の最高傑作、和様化の極点といわれている。仏像は、1053年、京都の仏所から10時間をかけて平等院まで運ばれたという。(『定家朝臣記』)。側面よりの表情は緩やかな曲線で描かれる。眉の弧、鼻筋の緩やかな弧線、閉じた唇、顎下の曲線も微妙で気品に満ちる。結跏趺坐で定印を結び、金色に輝く。胸は薄く、浅い衣文、全体的に柔和、定朝様、優しい曲線で描かれ藤原貴族の好みにも合った。木造、ヒノキ材、前後左右4材による寄木造、漆箔、内部は内刳りされ、大きさも最大級(278.8㎝/283.9㎝)になる。以後、この阿弥陀如来がその後の造仏の本様(手本)になった。
 像内には、定朝作という最古の「月輪(がちりん)」(径30.8cm)(国宝)、月形の白い円盤、蓮華座が納められていた。梵字・阿弥陀大呪(だいじゅ、十廿露呪)、小呪を記しており台密系の浄土信仰に発している。月輪とは満月であり、円満な仏心の象徴とされ、小呪(阿弥陀印を結び、10遍唱えると阿弥陀仏により極楽往生を遂げる)、大呪(1遍唱えると諸悪諸行障を消し、1万遍唱えると往生に際して阿弥陀聖衆来迎し、極楽に上品上生で往生する)を唱えることにより、菩提心が浄月のように顕現するという。
 「光背」は、金箔の二重円相光背(頭光と蓮華五弁二重光脚付)(国宝)、火炎透彫り、舟形飛天光(12体の飛天、大日如来像、大部分は後補)であり、化仏はいずれも端正な姿をしている。光背周辺部は後補、当初は飛天光(飛天、天衣)だったという。
 「須弥檀」は、平安時代、造立当時の七重蓮華座(蓮弁4段各16枚)で定朝の創意による。蓮弁一つ一つが独立している。金粉を散らした漆塗地の上に螺鈿により、宝相華文を嵌め込んでいる。
 天井には絢爛とした木像漆箔、定朝指導による二重の「天蓋(てんがい)(国宝)が吊られている。きゅう漆螺鈿の方蓋、宝相華唐草文の透彫りの円蓋であり、花形天蓋中央に銅製八花鏡、蝶、花の螺鈿、宝相華唐草文が透かし彫りが施されている。金箔押。
 折上げ周囲に宝簾を吊るし、下に瓔珞がある。宝相華の透かし彫りが施され、金箔押になっている。天井周りには彩色の「組物」(国宝)が見られる。
 周囲の白い壁面長押(なげし)には、平安時代、1053年、定朝作とみられる截金(きりがね)彩色の「雲中供養菩薩像」52体(現在は26体が鳳翔館で展示)(すべて国宝)(40㎝-87㎝)が安置されている。いずれも雲に乗り、拍板、笛などの楽器を奏でる菩薩像であり、阿弥陀仏に関する密教像とみられる。5体は合掌する僧形像になっている。52体のうち立像は6体。左へ靡く者26体、右へは21体、左右へは5体。このうち、左手の蓮華を差し出す「南17号」(51.5㎝)の菩薩像は、製作集団の中で造仏の指導的な立場にあった人物の作とみられている。「南2号」(44.5㎝)は天秤を捧げ持つ。近年の研究によれば、この「南2号」の耳と鼻の距離は、手前に見える側が反対の壁側に比べ1.17倍長く、手前の頬を横方向に長く作ることで、遠近感を出す工夫がなされていたとみられる。「南4号」(50.9㎝)は金剛薩埵菩薩として造られ、磬(きん)を打つ。「南20号」(62.4㎝)は満月地蔵として造られ、立って舞う。「南21号」(47.9㎝)は金剛光菩薩、金剛光明菩薩として造られ笙を奏でる。「南22号」は、中腰左ひざを立て太鼓を叩く。「北4号」は腰鼓を打つ。「北10号」(87㎝)は舞う姿を表し、背を見せ右手に撥、左手は天衣を掴み、右足を上げている。鳳凰堂内の柱にも同じ姿勢の菩薩像が描かれている。「北25号」(53㎝)は最も秀逸とされ左手に蓮華を持ち、持物としては唯一の当初の物という。手と台は一材による。菩薩像(金剛菩薩像)「北24号」(44.8㎝)は、背中に「愛」と墨書されている。長らく右手が欠損していたが、両手で弓矢を射ようとする「仏教界のキューピット(金剛愛菩薩)」といわれ、2010年に復元された。「南12号」(40.3㎝)には截金文様が残る。いずれも当初は極彩色の美しい彩色が行われていた。漆の下地に白土を塗り、その上に彩色している。木造、ヒノキ材、彩色、漆箔。
◆仏像 観音堂には、かつて、平安時代(11世紀)の本尊「十一面観音菩薩立像」(重文)(167.6㎝)が安置されていた。釣殿観音とも呼ばれ、鳳凰堂創建より以前に造仏されたとみられている。体をやや左に傾けている。木造、一木造。平安時代の「不動明王立像二童子像」、平安時代、10世紀末の右に体を傾げた「地蔵菩薩立像」が安置されていた。木造、ケヤキ材、一木造。現在はいずれも鳳翔館に遷されている。
 現在は観音堂内に、平安時代(10世紀)の「地蔵菩薩立像」(156.3㎝)が安置されている。岩座に直立し、表情は温厚で耳朶の反りは強い。左手は緩やかに臂を体より離し宝珠(後補)を載せ、右手は硬く体に密着している。衣文は柔らかく翻波式に近い。上半身と下半身、左右の体躯に造形的な歪みがみられる。素地、内刳り、彩色、背刳り式の一木彫成像、トウセンダン(ケヤキとも)。
 観音堂に、平安時代(12世紀)の「不動明王立像」(87.9㎝)が安置されている。
 塔頭・最勝院には、平安時代(11世紀)の「女神坐像」(45.7㎝)、地蔵堂に南北朝時代の「地蔵菩薩坐像」がある。
 塔頭・浄土院には、平安時代(11世紀)の定朝の師・康尚作という「伝帝釈天立像」(146.9㎝)、鎌倉時代後期の「阿弥陀如来立像」がある。浄土院の羅漢堂に、本尊「宝冠釈迦如来坐像」、「十六羅漢像」を安置する。仏師は京の伊兵衛、播主は宇治茶師・星野浄安道斎とその子、肝煎りは藤村味斎、井上九左衛門。鏡天井画に黄土色の龍の彩色画がある。
 2010年、塔頭・浄土院で創建時、1052年の本尊とみられる大日如来の右手「智拳印」が発見された。
鳳凰堂 平安時代、1052年、本堂が現在の観音堂付近に建立されている。1053年、阿弥陀堂が建立され、1056年には法華堂、1061年に頼通の娘・四条宮寛子により多宝塔などが建てられた。1066年、右大臣・藤原師実(頼通三男)により五大堂、1073年に右大臣・源師房(頼通養子)によって不動堂が建立された。またそのほかにも、宝蔵(1063)、泉殿(1083)、経蔵(1113)、護摩堂、愛染堂、円堂などが建てられている。
  「阿弥陀堂(鳳凰堂)」(国宝)は、平安時代、1053年に建立された。ただ、1060年頃に完成したとみられている。当初は「阿弥陀堂」「大堂」「御堂」と呼ばれていた。江戸時代以降に「鳳凰堂」とも呼ばれるようになる。名の由来は、左右対称の建物全体の形が鳳凰に似ているからとも、棟飾りの鳳凰に起因するともいう。桁行3間、梁間1間、南北41.5m、東西31.8m、高さ13.6m。一重、外廻りに裳階付、入母屋造、本瓦葺。
 建物は朱漆が塗られ、東向きに建てられている。鳳凰造といわれ、寝殿造の様式が取り入れられている。中央の入母屋造「中堂(ちゅうどう)」、左右の三重楼閣造、切妻造の「翼廊(よくろう)」、中堂背後の宝形造の「尾廊(びろう)」の3つの部分からなる。相互に連絡していないことから、機能面ではなく全体の形状美のために配置されている。中堂は裳階(もこし)が付けられている。裳階中央の屋根は切り上げになっており、本尊の顔を欄間を通して、外面より拝するための工夫による。垂木は「地円飛角」といわれる上部の角形と、下部の円形断面の垂木が重ねられる古い様式になっている。組物は三手先。板蟇股。屋根は本瓦葺、創建時には木瓦葺(こがわらぶき、平瓦と丸瓦とを交互に組み合わせ並べる葺き方)とみられている。12世紀に瓦葺になる。屋根には軒反り、屋根反り、緩い勾配が見られる。入母屋妻部分は引き込み、さらに妻壁を奥に引き込む。中堂の屋根上には1対の鳳凰像が据えられている。中堂の龍頭瓦は藤原頼道が死後、龍神になり平等院を守護したといわれる説話に基づき、室町時代に飾られた。舌を出した瓦(長さ72㎝、幅40㎝、高さ40.5㎝)と、口に宝珠を加えた瓦(長さ74㎝、幅40㎝、高さ37.5㎝)がある。2014年に終わった修復工事により、平安時代、12世紀の修理時の色調に復元された。柱は酸化鉄、黄土を混ぜた赤茶色の丹土で塗り、鳳凰像には金箔が施された。裳階は大面取りの角柱、組物は平三斗、組物の下は三方吹き放し、床は簀子敷きになる。
 内部は背面裳階を取り入れ、中央に須弥檀の方三間堂、すべに床を張り、中堂以外には縁も付く。かつて、周囲の扉や壁は極彩色の画で飾られ、天井に宝相華文、蓮弁や柱に繧繝彩色(うんげんざいしき)の彩色文様が施された。最も美しい色づかいの「紺丹緑紫」は、赤、青、黄、緑、紫に加え、鉱物顔料、染料などにより白、黒、金、銀などで彩られていた。また、天井には66個の銅製鏡が嵌め込まれ、螺鈿とともに伽藍内に差し込んだ光が乱反射していた。長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)、本尊の頭上には豪華絢爛としたかつて金箔の天蓋(てんがい、方蓋436㎝、487㎝、円蓋294㎝)を吊る。壁扉画には「九品中生図」が描かれている。
 
中堂の屋根にある棟飾りの二代目「鳳凰像」、北側の「鳳凰像」(1965)がある。対になっており、雌雄の区別はない。平安時代、1053年に定朝が原型を作ったという。国宝の実物は鳳翔館に展示されている。2014年、修復され以前の青銅色より金色に変えられた。日本での一般的な鳳凰は伝説上の鳥で、聖天子の出現を待って現れ、背丈は4-5尺、前は麟、後は鹿、頸は蛇、背は亀、頷は燕、嘴は鶏、尾は魚が合体している。五色絢爛な色彩、羽には孔雀様の五色の紋、声は五音を発するという。銅造鍍金。鋳銅製に翼と羽の一部は鍛造になっている。北のものが95㎝、南のものが98.5㎝ある。
 
「翼廊」は、桁行各所曲り延長8間、梁間1間、隅楼二重三階、宝形造、廊一重二階、切妻造、本瓦葺。
 
「尾廊」は、阿弥陀堂の背後、西側につながっている。桁行7間、梁間1間、一重、切妻造、本瓦葺。
 阿字池の東岸に、かつて阿弥陀堂と対峙する形で「小御所(東御所)」が建てられていた。頼道が亡くなった1074年-1087年に建てられたとみられている。この小御所内から西の堂内の本尊を拝した。建物は宇治上神社拝殿の様であったという。南北朝時代、1336年の兵火により焼失したとみられている。
◆建築 「表門(北門)」は、江戸時代初期に、境内にある浄土院門として伏見城より移築、その後1957年に現在地に再移築された。ケヤキ材
 
「観音堂(釣殿)」(重文)は、釣殿ともいわれた。室町時代、元亀年間(1570-1573)に焼失し、経堂を移したという。鎌倉時代に本堂跡に創建された。かつては宇治川に面していた。また、かつてこの地に釣殿があり、安土・桃山時代に焼失、その後、観音堂が建てられたともいう。かつては縁付であったという。二軒(ふたのき)の地垂木(じたるき)が楕円形になっている。この一軒目の垂木を地垂木、軒先に近い二軒目を飛檐(ひえん)垂木といい、奈良時代以前には、地垂木が丸、飛檐垂木が角、奈良時代以後には双方とも角となるものが大半となる。4周1間の外陣、入り組天井の内陣をもつ。中央3間蔀戸、両脇2間は腰長押を打ち連子窓。正面7間4面、一重、寄棟造、本瓦葺。
 「六角堂」、「休憩所」は、1902年-1907年に行われた翼廊の解体修理の際の廃材を利用し建てられた。
 塔頭・浄土院の「養林庵書院」(重文)は、安土・桃山時代、1601年、加傳により伏見城より移築された。書院、仏間、茶室からなり桃山様式になる。一の間、二の間に、狩野山雪筆の障壁画がある。江戸時代作庭の枯山水もある。広縁中央に松花堂昭乗の扁額「養林庵」がかかる。一重、正面入母屋造、背面は切妻造、檜皮葺。
 「平等院ミュージアム鳳翔館」は、2001年に建てられた。設計は栗生明による。鳳凰、梵鐘、雲中供養菩薩、観音菩薩立像などが展示、保管されている。
◆九品来迎図 本尊を取り囲む壁扉画14面は、『観無量寿経』に基づく「九品(くほん)来迎図」(上品上生から下品下生までの9図)が俯瞰で描かれている。
 「九品来迎図」とは、人が存命中の功徳などに応じ、来迎の種類が9つに分かれるという。西背面扉には創建時の「日想観図」、本尊後壁画が描かれている。江戸時代に正面扉画の「上品上生図(じょうぼんじょうしょうず)」は外された。現存する最古の大和絵風の作品で、場面転換などで用いられる「すやり霞」が描かれている。
 製作年代は、平安時代の創建時のもの(「上品中生図」「上品下生図」「中品上生図」「下品上生図」)のほかに、後世の鎌倉時代、室町時代のものもある。柱絵は宝相華唐草文が描かれていた。讃は平安時代の能書家・源兼行(1024-1074)とみられている。源俊房ともいう。
 中堂内壁扉画配置は次のようになる。阿弥陀如来像を中心として、東の正面扉絵「上品上生図」、東の北よりの扉絵「上品中生図」、東の南よりの扉絵「上品下生図」。北の扉絵「中品上生図」、北の壁絵「中品中生図」。南の扉絵「下品上生図」、南の壁絵「下品中生図」。阿弥陀如来像の背後(西)に壁絵「阿弥陀浄土図」、その北よりの壁絵「中品下生図」、南よりの壁絵「中品下生図」、東の扉絵「日想観図」になる。
◆文化財 中堂大屋根の棟飾、「鳳凰像」(国宝)一対があり、平安時代、1053年に定朝が原型の木型を作ったという。吉祥を表す鳳は雄、凰は雌といわれるが平等院では雌雄はないともいう。かつて鍍金により金色に輝いていた。鳳凰を屋根に飾る日本での初例とみられている。現在、屋根に飾られているのは、1965年作の模造品であり、国宝の実物は鳳翔館に展示されている。2014年、修復され以前の青銅色より金鍍金に変えられた。鳳凰の頭には植毛跡とみられる穴が開けられており、平安時代の創建当初には、頭部に五色の毛が生えていたといわれている。2014年に、7分の2大きさで金色の5本の毛が再現された。日本での一般的な鳳凰は伝説上の鳥で、聖天子の出現を待って現れ、背丈は4-5尺、前は麟、後は鹿、頸は蛇、背は亀、頷は燕、嘴は鶏、尾は魚が合体している。五色絢爛な色彩、羽には孔雀様の5色の紋、声は五音を発するという。銅造鍍金。鋳銅製に翼と羽の一部は鍛造(鍛製鍍金)になっている。南方98.8㎝(98.5㎝)、北方95㎝。
 鐘楼には、「姿の平等院」といわれる日本三名鐘(ほかに声の三井寺、銘の神護寺)の一つ、平安時代の「梵鐘」(国宝)が吊るされていた。現在は、複製が下げられている。11-12世紀、創建時に製作されたとも、平安時代、康和年間(1099-1103)ともいう。帯は上下3段、左右4区、上段に4段7列の乳。中(池の間)・下段(草の間)に宝相華唐草、供養菩薩、鳳凰、飛天、龍、獅子などさまざまな陽刻、唐草文様、絵柄が施されている。朝鮮鐘の影響を受けているという。実物は1972年に複製に代えられ、鳳翔館に保管されている。複製の梵鐘は、除夜の鐘で撞くことができる。総高199.1㎝、口径123.6㎝。鋳銅製。
 平安時代、1053年の「月輪、蓮台」(国宝)(18.8㎝)、木造、彩色。鳳凰堂本尊胎内に納められていた。
 鳳凰堂の棟飾り(露盤宝珠)の6部材は、創建時、平安時代の1053年に造られたものとみられている。古代の銷鍍金(けしときん)の技法で鍍金されていた。
 室町時代、1500年の「平等院修造勧進状」(京都府指定文化財)、三条西実隆筆。創建の経緯、1500年の修造についてなど記されている。浄土院蔵。
 江戸時代、1640年の「平等院日記」(京都府指定文化財)は、知恩院宮門跡・良純親王筆。草創、平泉・無量寿院、宇治十帖、宇治橋姫などにふれる。浄土院蔵。
 養林院書院に狩野派一門(狩野山雪)による障壁画がある。脇の間に山口晃(1969-)の障壁画「当世来迎図」14面がある。
 浄土院が所蔵する江戸時代の「洛外図屏風」六曲一双。
 中国・明時代の(17世紀)の漆絵衝立。
◆庭園 阿弥陀堂の浄土式庭園(史跡及び名勝、1922)がある。2万700㎡を有する。平安時代の官人・歌人の橘俊綱(1028-1094)は庭園を当代きってのものと謳った。(『今鏡』)。
 平橋、反橋が渡された中島に建てられている阿弥陀堂前(東)には、白砂と拳大の石を敷き詰めた洲浜、石組と石燈籠(平等院型燈籠)などが配されている。
 
周囲に阿字池(あじいけ)が広がり、かつては東に宇治川の流れを望むことができたという。池と宇治川の間は地続きで連続し、現在の堤防はなく、一面に小石が敷き詰められていたとみられている。池辺は海辺を表す州浜であり、中島は現在よりも高い小島であり、建物と池辺は現在よりも接近していた。
 宇治川の奥(東)に朝日山、仏徳山などの山並みがある。阿弥陀堂は東面して建てられているため、彼岸の中日には、太陽が阿弥陀像の正面から昇り、その背後に沈む。庭は、浄土世界を具現化したものという。かつて、「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」といわれた。(平安時代の『扶桑略記』)。もしも極楽の存在に疑問があるのなら、平等院へ参詣せよの意味という。
 阿字池は、「観無量寿経」の極楽浄土「宝池(ほうち)」を表したものという。池の西側にある湧水が、浅瀬を経て池に注いでいる。
 近年の発掘調査(1990-2003)により、近代、1902年の改修の際に中島の護岸、石組などにより大幅に庭園が改変されていたことが判明した。また、1957年の鳳凰堂解体修理の際に、木杭の護岸に改められ、1985年頃にはそれも腐食していた。このため、平安時代の築造時に戻し、石組の護岸から玉石を敷き詰めた州浜へ復元された。また、阿弥陀堂北側に小島、橋台石組、橋挟石が見つかり、平橋、小島(中島)、反橋が新たに設けられ2002年までに復元された。なお、創建時には、中島の周りを州浜が取り囲み、翼廊内部にまで入り込んでいた。さらに、阿字池の対岸にまで礫敷きが及んでいた。なお、現在は、復元前に比較して洲浜部分が狭くなっている。
◆石灯籠 鳳凰堂前に「石灯籠(重美)」がある。六角石燈籠であり、平等院型燈籠ともいわれる。かつては、基台に金銅の燈籠を載せる形だったという。茶人に愛好された。
 下より平安時代の台石と基礎、鎌倉時代後期の竿と笠、安土・桃山時代の火袋の二枚石、その上に宝珠が組み合わさっている。基礎は平面円形、複弁反花、側面に格狭間で界線が入る。頼道は興福寺南円堂前の銅燈籠を写したともいわれる。高さ2m、硬砂岩製。
◆塔頭・最勝院 境内西に、天台宗系塔頭・最勝院がある。平等院は創建当初、天台宗寺門派に属し園城寺の下に置かれた。室町時代以降、天台宗寺門派の円満院(現大津市)門主が、平等院住職を兼務していた。
 安土・桃山時代、1582年、円満院門主による住職兼務が断絶した。1610年以後、天台宗は平等院を放棄する。
 江戸時代、1654年、天台宗による最勝院の基が建立されている。1662年、最勝院が再び、円満院兼帯所となっている。
 1681年、寺社奉行により裁定が下り、対立していた天台宗、浄土宗両派により平等院は護持され、一山の総称は平等院とし、両派により修理は交代で行われることになった。
 近代、1902年から5年にわたり、最勝院、浄土院両派による鳳凰堂の大修理が行われている。
 最勝院には、平安時代の女神坐像、地蔵堂に南北朝時代の地蔵菩薩坐像がある。室町時代の源頼政の絹本著色像がある。
 客殿前庭は近年の作庭による。枯山水式であり、かつての古い庭石の一部も再利用している。苔で覆われた庭面には飛石が配され、立石がある。舟形の手水鉢、トウツバキ、松などの植栽がある。塀の向こうに鳳凰堂の伽藍が見え借景になっている。
◆塔頭・浄土院 浄土宗の塔頭・浄土院がある。15世紀末以降、浄土宗僧侶が境内に止宿し、周辺での布教をおこなっていた。室町時代、明応年間(1492-1501)に、浄土宗の僧・城誉栄久が平等院の修復のために浄土院を創建したという。1500年に修理を行ったともいう。「平等院奥院」「浄閣」などとも呼ばれていたという。17世紀初頭、浄土宗は境内・境外に養林庵、知学庵などの10程度の子院を建立している。
 ただ、浄土宗、真言宗による対立が続いた。江戸時代、1649年、浄土宗、真言宗の間において、平等院を一山の総称とすること、両派により平等院を護持することが決まった。
 平安時代の定朝の師・康尚作という伝帝釈天立像、鎌倉時代後期の春日作という阿弥陀如来立像、江戸時代の藤原頼通像がある。源頼政筆という「平等院切れ」は、『和漢朗詠集』巻下の断簡がある。
 養林庵書院(重文)は、江戸時代、1604年に加傳により創建された。伏見城遺構が移築されたといわれている。狩野山雪筆(工房筆とも)とみられる一の間床の間の「雪景楼閣山水図」、一の間、二の間襖絵「籬に梅図」、天袋引き戸に「花卉図」などが描かれている。山内で最も古い書院「大書院」がある。蘭香斎玉寶の「獅子図」、第96代・後醍醐天皇が吉野に向かう際に逗留し、三種の神器を納めたという御座所がある。扁額「養林庵」は松花堂昭乗筆。細川三斎(忠興、1563-1646)作庭の書院庭園(京都市名勝)がある。非公開。
◆経蔵跡 現在の南門近くの駐車場付近には、平安時代、1113年に経蔵が建てられていた。一切経とともに、藤原氏の家宝も納められ上皇らの見学も相次いだという。伝承として、源頼光が退治したという酒呑童子の首は、天皇の宣化により、この宝蔵(経蔵とも)に納められたともいわれた。蔵は南北朝時代の戦火により焼失したという。
◆多宝塔跡 
境外南にある多宝塔跡(復元基壇)は、1994年に発見された。平安時代には、境内に今よりも多くの堂塔が建てられていた。多宝塔は、平安時代、1061年、関白・藤原頼通の娘・四条宮(藤原)寛子により建立された。単層の宝塔とみられている。裳階(初層)部分がない。1061年に塔の完成供養が行われている。
 寛子(999-1025)は、藤原頼通の長女。別名四条宮。1050年、後冷泉天皇に入内、翌年、皇后宮に冊立する。子はなく、1068年、天皇没後に出家する。翌年皇太后、1074年太皇太后。92歳で宇治別宅で亡くなる。
◆鎮守社 近代以前まで鎮守社として県(あがた)神社があり、平等院の地主神として祀られた。同様な社に宇治神社、宇治上神社があり、これらは平等院、宇治川を挟んでほぼ一直線上に建つ。かつて、平等院の参詣者は、まず宇治神社(宇治上神社)に参詣した後に、参道の意味もあった宇治川を舟で渡り、平等院へと向かっていた。
 鎮守社としてほかに、南に離宮社、南泉房も祀られていたという。
◆朝日山 平等院の山号は朝日山という。宇治名山の一つである朝日山(朝日の嶽、離宮山、桐原山)は、境内の東に宇治川を挟んである。朝日を最初に受ける山として名付けられた。山は三峰に分かれており、三尊と呼応しているともいう。
 平等院鳳凰堂は東面して建てられており、当初より朝日山に昇る日光を正面に受けることを想定していた。春秋の頃、陽光は池面に反射し、堂内の阿弥陀如来を輝かせる。日が昇るにつれて、光は像を次第に照らし、内陣の雲中菩薩像を浮かび上がらせる。
 歌枕にもなっている。「うちはへて朝日の山の山人は暮るるも知らずながめをぞする」(『道命阿闍梨集』、一二〇)
◆扇の芝 
扇の芝は、観音堂北にある。歌碑には「花咲きて みとなるならば 後の世に もののふの名も いかでのこらん」とある。下は、辞世の句碑「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりける」、歌碑は江戸時代、天保年間(1830-1843)に末孫・太田氏により建立された。
 平安時代、1180年、流れ矢により負傷した源頼政(1104-1180)が、ここで軍扇を敷き自刃したという。この以仁王の挙兵(乱)、源頼政の挙兵とも呼ばれる戦は、高倉天皇の弟宮である以仁王と、源頼政が平氏打倒の蜂起を促す令旨を発したことに始まる。だが、計画が露見する。追討され以仁王と頼政は、宇治平等院の戦いで敗れ、王は敗走中に討たれた。以後反平氏の気運高まり治承・寿永の乱(1180-1185)となる。最勝院境内に源頼政の墓がある。
◆墓 塔頭・最勝院境内に源頼政の墓がある。宝篋印塔(2m)になる。頼政は、平安時代、1180年、平家打倒のために挙兵し敗れ、平等院観音堂傍で自刃した。頼政忌(5月26日)、京都府指定文化財。
 浄土院境内に、通圓家の墓がある。源頼政の家臣・古川右内(通圓)は、宇治川橋合戦で討ち死にした。子孫は、代々通圓と称して、旅人に茶を供したしたという。
◆源氏物語 『源氏物語』の「宇治十帖」、第45帖「橋姫」巻-第54帖「夢浮橋」巻では、宇治が舞台になる。光源氏はすでになく、次男・薫(柏木の長男)、孫・匂宮、浮舟が登場する。
 第46帖「椎本」では、宇治川河畔に、光源氏の異母弟・八の宮の山荘が営まれていた。この山荘で、薫は美しい姉妹に出会う。薫の妻になった浮舟は、匂宮と小舟に乗り宇治川へ漕ぎ出す。川の対岸には、薫の兄・夕霧が受け継いだ宇治の別荘が建てられていた。八の宮の山荘は、宇治の別荘の対岸、京都寄りになる。
 物語では、光源氏のモデルとされる源融の別荘が想定されている。その後、別荘は信重、998年に藤原道長、その後、頼道と引き継がれた。場所は、現在の平等院付近という。第48帖「早蕨(さわらび)」では薫が描かれている。
◆通圓 浄土院に通圓家・太敬庵通圓(?-1180)の墓がある。平安時代、古川右内は源頼政の家臣で、武術に優れていた。頼政の政の一字をもらい、太敬庵通圓政久と改名した。1159年の平治の乱後、宇治橋の東詰に庵を結んだ。1180年、主君・頼政による挙兵に際して参戦し、討ち死したという。これを題材とした能、狂言「通圓」がある。
 現在、宇治橋東詰に、平安時代、1160年の創業という「通円茶屋」がある。通圓の子孫により今日まで守られてきたという。当家は代々、宇治橋の橋守とした仕え、旅人に茶を供していた。室町時代の7代は一休に参禅し隠者となる。一休は書「一服一銭一期の泡」を贈り、一休自作という「初代通圓」木像が店に伝えられる。8代は足利義政の同朋衆、茶坊主として仕えた。安土・桃山時代、10代、11代は、名水とされた宇治川の水を豊臣秀吉の居城、伏見城に献上する役を担う。その時使用されたという釣瓶は五七桐の紋と共に店に保存されている。江戸時代も橋守しながら茶を出していた。現在の建物は江戸時代、1672年に建てられた。20年から30年ごとの橋の架け替えに伴い、幕府により店の建て替え、修理も行われていたという。
◆上村竹庵の碑誌 境内に、宇治茶祖、茶師・上村竹庵の碑誌が立つ。江戸時代、1699年に建立された。
 
竹庵と利休の「天下一の点前茶釜倒しの寓話」がある。利休は弟子とともに宇治の上村竹庵の茶事に招かれた。竹庵は大いに喜び、自ら茶を点てた。だが、あまりの緊張のため粗相を続けた。弟子たちは腹の中で笑う。だが、利休は茶会が終わり「亭主のお点前は天下一」と賞賛した。帰り道、弟子たちはその理由を利休に問う。利休は竹庵が「ただ一心にお茶を点てた、その気持ちこそが一番大事である」と語ったという。
◆花暦・花木 観音堂脇に、樹齢250年(200年とも)という藤棚がある。藤は藤原氏の代表紋とされ、「下がり藤」といわれるが「上がり藤」と呼んだ。開花時期は4月末-5月上旬で、花房が地面近くまで垂れる。宇治市の名木百選のひとつ。樹齢250年、高さ3m、幹回り2.4m
 1999年に発掘調査で発見された江戸時代の蓮の実が開化した。「平等院蓮」として蕾は赤く白い花(7月中旬-8月中旬)をつける。
 唐椿がある。
◆名水 
宇治七名水のひとつ「阿弥陀水」が、南の翼廊南にある。
 宇治七名水とは、①桐原水(宇治上神社)、②阿弥陀水(平等院鳳凰堂南崖)、③法華水(平等院塔頭・浄土院)、④公文水(橋姫神社)、⑤泉殿(JR宇治駅北)、⑥高浄水(泉殿付近)、⑦百夜月井・桃の井(宇治町四番保)をいう。
◆十三重の石塔 
境内東南の、宇治川の中州塔ノ島に、「浮島十三重の石塔」(重文)が立つ。鎌倉時代作。現存する日本最大の最古の石塔という。初重塔身に金剛界四仏の梵字、九重目笠石、相輪は近代の後補。高さ約15m、花崗岩製。
 鎌倉時代、1284年(1286年)、奈良西大寺の叡尊は、宇治橋の架け替えに際し、橋の流失は魚霊の祟りであるとした。宇治川での殺生禁断令の発布を朝廷に訴え、網代などの漁法は禁じられた。塔の下に漁具などを埋め、1286年に法要が営まれた。
 塔は、再興を繰り返し、江戸時代、1756年の大洪水による流失後、近代、1907年(1908年とも)に再興された。塔には金剛舎利塔などの納入品があり、放生院に所蔵されている。
◆年間行事 修正会(1月1日)、関白頼道忌(頼道の命日の一月後に営まれる。)(3月2日)、春季特別展、頼政忌(5月26日)、秋季特別展、お身拭い式(本尊の埃を払う。)(12月28日)、除夜の鐘(23時半-1時に鐘を撞くことができる。先着1000人に特製絵馬の配布。)(12月31日)。


*おもな建物内の撮影は禁止。
*年間行事の中止・日時変更、拝観中止・時間変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『旧版 古寺巡礼 京都 8 平等院』『古寺巡礼 京都 13 平等院』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都・山城寺院神社大事典』『京都・世界遺産手帳 15 平等院・宇治上神社』『平等院鳳凰堂』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』「特別展 南山城の寺社縁起」『昭和京都名所図会 7 南山城』『社寺』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『発掘ものがたり 宇治』『京都の仏像』『京都の仏像 入門』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『続 古佛』『京都美術鑑賞入門』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『京都・美のこころ』『私の古寺巡礼』『西本願寺』『国宝への旅 2』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『京都秘蔵の庭』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』京都歩きの愉しみ』『おんなの史跡を歩く』『源氏物語を歩く旅』『紫式部と平安の都』『極楽の本』『平安の都』『京都 神社と寺院の森』『京都大事典』『京都の地名検証』『週刊 日本庭園をゆく 10 京都洛南・宇治・南山城の名庭 醍醐寺 三宝院 平等院』『週刊 仏教新発見 14 平等院』『週刊 古寺を巡る  13 平等院』『週刊 京都を歩く 34 宇治1 平等院/宇治川』『週刊 日本の美をめぐる 45  平等院と極楽往生』
 

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宇治七名水のひとつ「阿弥陀水 宇治七名水之一」の石標、南翼廊近くにある。

「阿弥陀水」、碑の近く下方に、1933年に造られた井戸がある。

【参照】境外南にある多宝塔跡(復元基壇)、1994年に発見された。

【参照】朝霧橋と宇治川


【参照】宇治川

【参照】境内東南の、宇治川の中州塔ノ島の浮島十三重の石塔(重文)、鎌倉時代作。
map 平等院 〒611-0021 宇治市宇治蓮華   0774-21-2861  8:30-17:30(庭園8:30-17:30、ミュージアム鳳翔館9:00-17:00、鳳凰堂内部9:10-16:10)

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