宇治神社 (宇治市)
Uji-jinja Shrine
宇治神社 宇治神社 
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拝殿(桐原殿)


拝所
瑞垣


本殿


右より、春日神社(武甕鎚命、斉主命、天児屋根命)、日吉神社(大山昨命)、住吉神社(底筒田命、中筒男命、上筒男命、神功皇后)


右より、伊勢両宮(天照皇大神、国常立命)、高良神社(武内宿禰)、松尾神社(市杵島姫命)、廣田神社(蛭子命)


【参照】近くにある『源氏物語 宇治十帖』「早蕨」の碑


【参照】宇治川と朝霧橋


【参照】宇治川と朝霧橋


【参照】橋の東詰の『源氏物語 宇治十帖』ブロンズ像
 宇治神社(うじ じんじゃ)は、宇治橋上流にある。この地の産土神(うぶなすがみ)として信仰されている。
 近代以前は、境内東にある宇治上神社と二社一体であり、「宇治離宮明神(八幡宮)」、「離宮明神」、「離宮社」、「離宮八幡」、「桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)」などといわれていた。当社は、「離宮下社」、「若宮」、「下社」とも呼ばれた。
 祭神は第15代・応神天皇(おうじんてんのう)、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)、応神天皇皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の三座を祀る。
 式内社とされる。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「宇治神社二座 鍬靫」に比定されている。また、宇治神社とは現在の宇治神社、宇治上神社を指し、ニ座とは菟道稚郎子と母神を意味するともいう。 
 祭神・菟道稚郎子は、聡明で学問を究めたことから、学問の祖神として学業・合格神、開運の信仰も集める。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 古墳時代、この地は、応神天皇の離宮「桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)」、また、応神天皇皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の宮居「(莵道(うじ)の宮)」跡ともいう。
 莵道稚郎子没後、兄・仁徳天皇が祠を建て、神霊を祀ったのが当社の始まりという。
 平安時代、927年、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』中に「宇治神社二座 鍬靫」と記されている。
 1052年、1051年とも、藤原氏により建立された平等院の鎮守社として創建されたという。かつて宇治神社と二社一体で、宇治離宮明神(八幡宮)、離宮明神、離宮社とも称された。応神天皇(八幡神)、仁徳天皇を配祀する。当社は上流の宇治川を氏子域とした。
 1060年頃、本殿が建立されたという。
 1067年、第70代・後冷泉天皇が神位を授けたという。
 1133年、右大臣・藤原宗忠の日記に「座女、馬長(うまおさ)、一物(ひとつもの)、田楽。散楽(さるがく)、法のごとし」と当社について記されている。(『中右記』)
 平安時代後期-鎌倉時代、平等院の鎮守社になったともいう。 
 鎌倉時代、1215年頃、拝殿が建立された。
 近代、1883年、当社と宇治上神社は上下二社に分社になる。以来、当社は宇治神社と号した。
◆菟道稚郎子 古墳時代、4世紀の皇子・菟道稚郎子(うじのわき いらつこ、?-312)。父は第15代・応神天皇、母は和爾氏の女・宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)。異母兄に大山守皇子(おおやまもりのみこ)、第16代・仁徳天皇(大鷦鶺尊<おおさざきのみこと>)がある。幼少より読書を好む。百済より渡来した学者・阿直岐(あちき)、王仁(わに)に学ぶ。応神天皇の寵愛を受け、兄たちを差し置いて立太子された。応神天皇没後、菟道稚郎子は兄・大鷦鶺皇子に皇位を譲り、自らは宇治に離宮・桐原日桁宮(ひげたりみや)を建て移り住んだ。兄・大鷦鶺皇子も皇位を受けず、皇位継承の混乱は3年に及ぶ。この間に、皇位を巡り、兄・大山守皇子は挙兵した。大鷦鶺皇子はこれを菟道稚郎子に知らせ、自らも皇位を譲りを受けない意志を示した。菟道稚郎子は、菟道川(うじがわ、宇治川)で兄・大山守皇子を討った。菟道稚郎子は入水して自らの命を絶つ。313年、兄・大鷦鶺皇子は仁徳天皇として即位したという。
 菟道稚郎子は、『源氏物語』の『宇治十帖』、第45帖「橋姫」巻、第46帖「椎本」巻で登場する宇治八宮のモデルともいう。
 墓は宇治川右岸に宇治墓としてある。1889年に宮内省が治定した。
◆神像 「木造神像」(重文)は本殿内中央に安置されている。平安時代中期作という。菟道稚郎子命の等身大像になる。
◆建築 拝殿、本殿、客殿、神楽舎、絵馬舎、参集館、神輿倉などが建つ。
 ◈「本殿」(重文)は、鎌倉時代初期に建立された。軒に裏面二垂木、正面三垂木。妻飾は豕扠首式、流れ破風、懸魚は鰭なしの猪の目になる。正面3間の向拝両端に繋虹梁、向拝・斗栱間に宝相華唐草の蟇股がある。屋根の流れは緩やかで妻入も深い。3間2間、三間社流造、檜皮葺。
 ◈「桐原殿(拝殿)」は、3間3間、入母屋造、檜皮葺、軒唐破風。
◆平等院 宇治神社は、かつて平等院の地主神として祀られていた。同様な社に宇治上神社、縣神社があり、これらは平等院、宇治川を挟んでほぼ一直線上に建つ。かつて、平等院の参詣者は、まず宇治神社(宇治上神社)に参詣した後に、参道の意味もあった宇治川を舟で渡り、平等院へと向かっていた。
◆みかえり兎 菟道稚郎子は河内国から宇治に入る途中で道に迷う。その際に、一匹の兎が道案内したとの伝承がある。「みかえり兎」と呼ばれ、神使として境内各所に兎像が祀られている。
◆文化財 ◈「菟道雅郎子命坐像」(重文)は、等身大の男神像で衣冠、笏を持つ坐像俗体像になる。彩色木造。
 ◈「木造狛犬」(宇治市指定重要文化財)は、鎌倉時代前期作になる。阿形、吽形の一対で、矧ぎつけ、口の周辺に植毛痕がある。阿形は上体を後方に反り、胴を立て気味の姿勢をとる。現存する木造狛犬最古の例という。2体は別の作者によるものという。それぞれ80.9㎝、87.7㎝。檜材、一木造、彫眼、内刳はない。歴史資料館寄託。
 ◈「白色尉面(じょうめん)」(宇治市指定重要文化財)は、安土・桃山時代作になる。有鬚面の能面作者・喜兵衛(きひょうえ)作であり、面裏に「叶」の刻銘がある。「雪掻きの面」と呼ばれる。伝承があり、かつて雪の降った朝、境内の雪を掻いている際に現れたものという。以前は、翁舞「長者のたらり」の際に用いられていた。縦19㎝、横15㎝。檜材。
 当社は中世(鎌倉時代-室町時代)には、猿楽の拠点になっていた。 
◆石造物 「石灯籠」は拝殿後方右手に立つ。四角形をしており、江戸時代、「慶長十八年(1613年)」と刻まれている。
離宮祭 平安時代、「離宮祭(宇治祭)」では競馬、田楽が行われていた。13世紀後半には、田楽に代わり猿楽が演じられた。16世紀中頃には、大和猿楽に取って代わられる。
 現在は、神幸祭(5月8日)-還幸祭(6月8日)まで1カ月まで催されている。祭礼は猿田彦神、正一位神符、将軍家献上の破魔弓、古太刀、神職、神輿1基が続く。近代以前に分社になるまでは、上社2基、下社1基の3基が渡御していた。
 「大幣神事」(6月8日)は、「からかさ祭」、「ぎんかり祭」とも呼ばれる。最初に縣神社前の大幣殿で儀式を行う。宇治橋畔で祝詞奏上の後、大幣殿に戻り、梅と和布の神供がある。大幣は大きな幣の上に布張りの笠3枚に松の小枝が差され、幣にはさらに小幣1000枚余りが付けられている。これを数人で棒持ちする。大幣は倒され、地上を引き摺られて、宇治橋より宇治川に投じられる。
 疫神祭であり、平安時代の道饗祭(みちあえのまつり/ちあえのまつり)に由来するという。6月、12月に行われていた。都の四隅に八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)、久那斗(くなど)の三神を祀り、魑魅(ちみ)、妖気が都に入りこまないように祈念した。
◆年間行事 神幸祭(5月8日)、幣渡祭(6月5日)、還幸祭(離宮祭)(御輿巡幸)(6月8日)、名水汲上式(10月第1日曜日)など。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古寺巡礼 京都 13 平等院』『京都・山城寺院神社大事典』『京都・世界遺産手帳 15 平等院・宇治上神社』『宇治の文化財 宇治市指定文化財』『私の古寺巡礼』『京都府の歴史散歩 下』『昭和京都名所図会 7 南山城』『京都の寺社505を歩く 下』『週刊 仏教新発見 14 平等院』『週刊 古寺を巡る  13 平等院』『週刊 京都を歩く 34 宇治1 平等院/宇治川』『京都のご利益手帖』


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map 宇治神社 〒611-0021 宇治市宇治山田1  0774-21-3041
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