隠元橋 (宇治市)
Ingen-bashi(bridge)
隠元橋 隠元橋 
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隠元橋、宇治川に架かる。




橋の東側には「岡屋の津」「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の石碑が立てられている。


「渡岸之地」の石材は隠元の出身地である中国福建省から取り寄せられた。亀の形をした碑の台石の亀趺(きふ)の形になっている。中国では隋(581- 618)、唐(618- 690、705- 907)の時代に盛んになり、日本では江戸時代になって多く用いられた。


宇治川
 宇治川に架かる隠元橋は4車線あり、府道245号線(宇治市五ヶ庄-宇治市槇島)が通る。近年、新しく架け替えられた。
 黄檗宗を開いた隠元に関わる橋になる。橋の東詰に「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の碑が立つ。
歴史年表 平安時代以来、この地には、「岡屋の津」という港があり、交通の要衝として栄えた。
 平安時代中期以降、藤原摂関家の領地になる。
 平将門の乱(935‐940)で、この地の藤原忠文の所領「冨家殿ふけどの)」を譲られ、近衛家の所領になる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、この地に別業の「冨家殿」、「羽戸院(はどいん)」が営まれたという。(『雑事要録』)。別行の詳細は不明、別業は江戸時代まで続いた。
 江戸時代、中国の渡来僧・隠元は、幕府から寺領地(近衛家所領)を得て、新寺の候補地を探す。淀川を遡り宇治川のこの付近で下船したという。萬福寺を開くために資材を陸揚げし、以後、「隠元浜」「隠元の渡し」とも呼ばれた。
 1949年、橋が架けられている。
 現代、1953年、橋は南山城大水害で流失した。
 1956年、橋は架け替えられている。
 2008年、橋は工事着工以来7年の歳月をかけて新しく架け替えられた。
◆隠元 安土・桃山時代-江戸時代の明僧・隠元(いんげん、1592-1673)。隠元隆琦(りゅうき)。中国福建省に生まれる。 6歳の時、父が行方不明になり母を助けて働いたという。1611年、父を探す旅に出る。1620年、黄檗山の鑑源興寿により出家。1624年、広慧寺・密雲円悟に禅を学び、1626年、大悟を得る。1633年、臨済宗・費隠通容禅師の法嗣。1631年、獅子巌に住した。1637年、臨済正伝32世、中国の黄檗山萬福寺(古黄檗、福建省福州府福清県)の住持となり復興に努めた。1644年、浙江省・福巌寺、1645年、福州府・竜泉寺、1646年、古黄檗に再住。日本仏教界の4度の招請、長崎・興福寺の逸然性融の請により、1654年、63歳で厦門(あもい)を出帆、僧侶11人、職人など総勢30人とともに長崎に着く。興福寺(南京寺)に入り、1655年、崇福寺(福州寺)、摂津・普門寺に移る。妙心寺の龍渓(性潜)らによる妙心寺住持就任は成功しなかった。龍渓、龍華院の竺印らによる慰留が行われる。1658年、隠元は江戸で4代将軍・徳川家綱に謁見、大老・酒井忠勝の勧めもあり日本永住を決意する。後水尾法皇、幕府により、宇治大和田五ヶ庄の近衛家領に約9万坪の寺地を得、400石の援助により、1661年、隠元は萬福寺を開創した。1664年、萬福寺・松隠堂に退隠した。遺骸は、遺言により3年間棺のまま止め置かれ、1675年、境内の開山塔に埋葬された。黄檗宗の宗祖。諡号は大光普照国師など5つの号を贈られた。
 隠元は中国の一部知識階級に普及した禅と、庶民の念仏を融合した念仏禅を説き広く布教した。叢林の規則を定め、制度や財政の規範を厳格にした。黄檗三筆「隠木即」(ほかに木庵、即非)のひとり。美術、医術、建築、音楽、史学、文学、印刷、煎茶式茶礼、普茶料理など、広く江戸時代の文化に影響を及ぼした。隠元豆、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚、明風の書体なども日本に伝えたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『日本の名僧』『京都の地名検証 3』


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