久我神社・大宮の森 (京都市北区) 
Kuga-jinja Shrine
久我神社  久我神社
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 久我神社(くが/くか じんしゃ)は、旧大宮通に面する。かつて氏神(うじがみ)社、大宮とも呼ばれた。賀茂氏との関わりが深く、上賀茂神社の境外摂社になる。境内は「京都市指定史跡」になる。
 祭神は賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)。賀茂県主(かもあがたぬし)の氏神社であり、航空交通安全の守護神でもある。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座 大八座 小十三座」の「久我神社」に比定されている。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 かつて、地主神社が祀られていたとみられている。また、上賀茂神社造営の後に、祖神・賀茂建角身命を祀り、創建されたともいう。
 平安時代、859年、久我神は正六位より従五位下に神階が進む。文献の初出になる。(『三代実録』)
 927年、愛宕郡の「久我(くか)神社」とある。(『延喜式』神名帳)
 平安時代末期、賀茂社の末社になったとみられている。
 鎌倉時代以降、「氏神社(うじがみしゃ)」といわれた。賀茂社の末社になる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃したとみられている。
 江戸時代、氏神社と呼ばれた。
 1628年、現在の社殿が再建される。
 近代、1872年、氏神社から久我神社に改称されている。
◆久我の里 賀茂川上流部のこの地に、久我(こが)の里があったとされる。古代氏族・賀茂県主(かもあがたぬし)の祖神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られている。
 賀茂建角身命は、初代・神武天皇の東征の際に、八咫烏になり皇軍を導き、勧降神として平定に功をなした。この地の開発に当たったという伝承がある。賀茂社の旧社地も、この久我の里にあったといわれている。
 『山城国風土記』逸文などの伝承によれば、賀茂氏(鴨氏、カモ氏)は、賀茂建角身命を奉じて、日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)峯より、大倭葛木(やまとかつらぎ)山に来た。さらに、淀川を遡り、山代(やましろ)国岡田、久我(こが)国北山の基(もと)に到った。その時期は、4世紀中頃までと考えられている。その娘・玉依日売(たまよりひめ)は、小川の辺で得た丹塗矢(にぬりや、火雷神<ほのいかづちのかみ>)に感じ、賀茂別雷神(かもわけいかづちのみこと、天神御子<あまつかのみこ>)を産む。この天神御子は、一端天に上がり、御祖神(みおやのかみ、祖父神・賀茂建角身命、生母神・玉依日売)の願いに応え山本(やまもと)に鎮座したという。
 豪族の賀茂氏(鴨氏)は、かつて大和葛城にあり、大和政権(大和朝廷)の京都への伸張に伴い古代の京都の北部へ進出した。愛宕郡賀茂郷を本拠地とし、上賀茂神社、下鴨神社の神事に奉仕した。なお、伏見区にも同記異音の久我(こが)神社があり、この地も賀茂氏北上の痕跡地として関連があるとみられている。
◆大宮の森 かつては、広大な社殿と「大宮の森」が繁茂していたという。境内西は旧大宮通に面している。(『雍州府志』)
 現在、境内にかつての森の面影はなく、樹齢600年だったというケヤキ巨木の切株と、わずかな森が残されている。なお、境内東南ある境外末社・小森社が祀られている。
◆建築 江戸時代、1628年に現在の社殿が再建された。
 「本殿」は、上賀茂神社本殿と同形同規模になる。一間社流造。
 「拝殿」は、妻側を正面とする、左右に庇が付く珍しい造りという。切妻造。
◆年間行事 例祭(4月1日)、例祭(11月1日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『京都市文化財ブックス第10集』『京都・山城寺院神社大事典』『京都市の指定文化財 第5集』『京都の地名検証』『京都の寺社505を歩く 下』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都 神社と寺院の森』


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手水舎

手水舎

フタバアオイ
 

拝殿

拝殿

拝殿

拝殿
 本殿

本殿
 
 
拝殿(下)、本殿の平面図、説明板より
 

境内の森
 

ご神木だったう樹齢600年の巨木の切り株

神幸祭(11月3日)
 久我神社 〒603-8412 京都市北区紫竹下竹殿町47  075-491-6800
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