欣浄寺 (京都市伏見区) 
Gonjo-ji
 Temple
欣浄寺 欣浄寺 
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本堂




「深草少将姿見の井戸(涙の水)」


「小野小町供養塔」(左)、「深草少将供養塔」


「少将の通い道」?


「深草少将姿見の池(小野小町姿見の池)」




道元の詩碑
 欣浄寺(ごんじょうじ)は、伏見大仏欣浄寺ともいわれている。鎌倉時代の僧・道元ゆかりの地であり、道元の「深草閑居の史跡」ともいわれる。山号は清凉山という。
 曹洞宗。本尊は毘廬遮那仏(伏見の大仏)を安置する。 
 京の通称寺霊場元札所、伏見大仏。
歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代初期、第50代・桓武天皇は深草少将義宣に邸宅を贈ったという。(『欣浄寺略記』)
 813年、深草少将が亡くなり、この地に埋葬されたという。(『欣浄寺略記』)
 かつて深草にあった興聖寺(現在は宇治市)山内にあったという。
 鎌倉時代、1230年、日本曹洞宗の開祖・道元は、深草の極楽寺境内、安養院(現在の宝塔寺付近、伏見区)に閑居したという。興聖宝林寺(後に興聖寺として再興)を建立したことに始まるという。
 1230年-1233年、道元はこの地で教化に努め『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著したという。(寺伝)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、真言宗より曹洞宗に改める。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、興聖寺内の安養院(深草寺)が現在地に移り、清涼山欣浄寺と号したともいう。当初は真言宗だったという。
 江戸時代中期、天正・文禄年間(1573-1595)、僧・告厭(こくえん)により中興され、浄土宗に改宗したという。
 天明年間(1781-1788)、山門、仏殿、法堂、大書院、小方丈、雲堂、鐘楼、庫裏、経蔵、東司、浴室、少将社などが存在し、大伽藍を有する寺院だった。(「欣浄寺絵図」)
 文化年間(1804-1818)、再び曹洞宗に改められる。永平寺に属したともいう。
 現代、1974年、1973年とも、現在の鉄筋コンクリート造の本堂が建立される。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘といわれている。その後、久我の地に引き取られたとみられている。幼くして両親を喪った後、1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもと菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・無際了派、後に曹洞宗・長翁如浄に師事し、曹洞禅を学んだ。1225年、明全が亡くなる。1227年、帰国し、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草の極楽寺に観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。だが、天台宗からの圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1252年、病となり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。著書に仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』を著した。 
◆深草少将 寺地は説話上の人物、深草少将(ふかくさ の しょうしょう)の邸宅跡ともいわれる。僧正遍昭、大納言義平の子・義宣(?-812?)がもとになったともいわれる。謡曲「通(かよい)小町」、猿楽「四位少将」が題材とした。
 深草少将は、室町時代に世阿弥ら能作者が創作した「百夜(ももよ)通い」の伝説に登場する。少将は、小野・随心院近くに住む絶世の美女・小野小町を見初める。少将は小町のもとへ100か日通い続けようとする。だが、満願成就の夜、大雪に倒れ亡くなる。 
◆小町小町 平安時代の女流歌人・小野小町(生おの の こまち、没年不詳、815?/826?-898?)。詳細は不詳。小野氏の出身ともいう。出羽郡司・小野良真の娘で小野篁の孫(娘とも)ともいわれる。小町とは禁中の局の名称であり、本名は小野比右姫ともいう。第58代・仁明天皇(在位833-850)に仕え、寵幸を受け更衣(こうい、後宮の女官)となったという。天皇亡き後、852年、この地に移り隠棲したという。六歌仙、三十六歌仙のひとり。
◆仏像・石像 本堂の本尊、丈六の「毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)」は、江戸時代中期以降の作による。胎内銘により、頭部は、江戸時代1774-1776年、胴部は1791-1796年の作とされる。「伏見の大仏(伏見大仏)」とも呼ばれている。釈迦、弥陀、大日の合体仏ともいう。発願は天明義民一揆で犠牲になった9人を供養するものともいう。木造としては日本一の大きさという。木造、寄木造、像高5.3m。
 「清凉寺式阿弥陀如来像」は、平安時代の第54代・仁明天皇の念持仏という。
 自刻という「道元禅師石像」、「深草少将張文像」が安置されている。
◆建築 本堂は、1973年に建てられた。コンクリート造。
◆小野小町・深草少将の伝承の遺物 境内の池は巨椋池の名残りといわれている。池畔に、「小野小町供養塔」と並び「深草少将供養塔」が立つ。
 本堂に、深草少将が小野小町への文を焼き、その灰を捏ねて作ったという「深草少将張文像」が安置されている。
 「深草少将姿見の井戸・池(涙の水)(墨染井、小町姿見の池とも)」がある。
 池の東の薮中に、かつて「少将の通い道」があったという。訴訟を抱える者が通るとかなわなくなったという。
◆道元の詩碑 天照卍瑞(てんしょう まんずい)筆の道元の詩碑が立つ。「生死可憐雲変更、迷途覚路夢中行、唯留一事醒猶記、深草閑居夜雨聲」。
 江戸時代、1812年、文化年間(1804-1818)に天照卍瑞が建立した。「生死憐れむべし 雲の変更 迷途覚路 夢中に行く ただ一事を留めて 醒めてなほ記するが如し 深草閑居 夜雨の声」。
◆石塔 深草少将、小野小町の供養塔、安養寺に関し、平安時代前期の公卿・藤原基経(836-891)の供養塔が立つ。
◆新撰組 1868年の鳥羽・伏見の戦いに加わり、戦死した新撰組の六番隊組長・井上源三郎(1829-1868)の首塚と伝えられるものがある。
 1月5日(旧暦)、淀千両松の戦いでは官軍との間で激戦になり、多数の隊士が戦死した。井上も銃弾を受けて亡くなる。甥の井上泰助がその首を持ち帰ろうとしたがあまりに重く、近くの寺境内に首と刀を埋葬したともいう。その寺が欣浄寺ともいう。井上の墓は宝泉寺(日野市)にある。
◆巨椋池 境内の池は巨椋池(おぐらいけ)の名残りといわれている。池は、1941年に干拓事業により埋め立てられ消滅した。池にあった蓮が移植されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・宗祖の旅 道元』『京都 道元禅師を歩く』『京都・山城寺院神社大事典』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 中』『おんなの史跡を歩く』『京の寺 不思議見聞録』『京都大事典』『続・京都史跡事典』『新版 京・伏見 歴史の旅』『京都発見三 洛北の夢』



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 欣浄寺 〒604-8356 京都市伏見区西桝屋町  075-642-2147
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