瑞光寺 (元政庵瑞光寺) (京都市伏見区)
Zuiko-ji Temple
瑞光寺 瑞光寺 
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本堂、江戸時代、1661年建立。茅葺屋根の仏殿、寂音堂


本堂


本堂



本堂



本堂



本堂



庫裏
 深草の地にある瑞光寺(ずいこうじ)は、元政庵(げんせいあん)瑞光寺ともいう。開祖・元政上人の名に因む。また、元政が竹を好んだことから竹葉庵ともいう。山号は、深草山(じんそうざん)になる。 
 日蓮宗身延山久遠寺派。本尊は釈迦如来坐像。
 元政上人が出家に際して女性、すべての欲を断ち切ったとされ、縁切寺とも呼ばれる。縁切りの信仰篤い。銭洗弁財天は金運・財運向上などの信仰があり、お金を洗い御守に入れる。
歴史年表 平安時代前期、この地には公卿・藤原基経(836-891)により、極楽寺の薬師堂が建立された。寺は、藤原氏の氏寺になる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃した。
 江戸時代、1655年、1657年とも、日蓮宗の元政が小庵「称心庵(竹葉庵、元政庵)」を結んだ。称心庵の名は、中国天台宗僧・章安大師(章安灌頂、561- 632)の故事に因む。
 寛文年間(1661-1673)、堂舎を建立する。 
 1661年、堂舎を建立した。庵を「深草山瑞光寺」と改め、法華道場とした。
 近代、1895年、奈良鉄道(現JR、京都-伏見線)開通にともない、境内の西の部分が分断されている。
◆藤原基経 平安時代前期の公卿・藤原基経(ふじわら の もとつね、836-891)。堀川太政大臣。長良と藤原総継の娘・乙春の3男に生まれる。叔父・藤原良房の養子になり、その後継者になった。参議、中納言、右大臣、第57代・陽成天皇の摂政、太政大臣、第58代・光孝天皇の事実上の人臣(臣下)最初の関白になる。887年、第59代・宇多天皇即位の際に、基経を関白に任じた勅書に対して政務を怠業、天皇を譲歩させ、勅書を改めた阿衡(あこう)事件を起こした。
元政 江戸時代の日蓮宗の僧・元政(げんせい、1623-1668)。俗名を石井吉兵衛。京都の武士の家に生まれた。13歳で彦根藩井伊直孝に仕える。19歳で病により帰郷する。泉涌寺の周律師に出家を断られ、江戸に赴く。江戸詰めの頃、吉原二代目三浦屋・高尾太夫と恋仲となる。だが、仙台藩主・伊達綱宗の太夫への横恋慕により、太夫は操を立て抗し惨殺(自死とも)されたともいう。1648年(1649年とも)、京都の法華宗妙顕寺の日豊(隠元とも)により出家する。深草に庵を結び、慧明日燈など子弟が多く集まり寺に改めた。
 俳諧、和歌、漢詩文、紀行文をよくし、熊沢蕃山、北村季吟、石川丈山、明の陳元贇(ちんげんぴん)とも交流した。詩文に『草山集』30巻がある。作風は石川丈山と対比された。瑞光寺の傍らに両親のために家を建て、孝子として知られた。遺骸は瑞光寺の称心庵に葬られ、墓は小竹三竿を植えた。
章安大師 中国僧・章安大師灌頂(しょうあん だいし かんじょう、561-632)。中国浙江省・臨海県章安に生まれた。7歳で出家、20代の初めに天台山修禅寺に登り、智ギに天台を学ぶ。金陵の光宅寺の智ギに仕える。天台山国清寺、晩年は、会稽の称心精舎に移り法華経を講じた。
 伝教大師最澄(767-822)は、章安自筆の「摩訶止観」を日本に持ち帰ったという。
◆中山日護 江戸時代の僧・仏師の中山日護(生没年不詳)。36歳の時、壇林を辞し、諸国遍歴、41歳で霊夢により彫刻を始めた。生涯に一万の仏を刻んだという。1627年、三宝寺開山となる。1637年、西賀茂に隠棲し、一坪の移動可能な庵「蝸室」に住し、法華経と刻刀のみで造仏を続けたという。このため、蝸牛法師と呼ばれた。読誦、戒律を重んじ、弟子に日映がいる。
 仏像は、三宝寺、本圀寺、妙顕寺、身延山、本遠寺などにもある。
◆台厳 江戸時代末-近代の僧・台巌(たいごん、1829-1909)。毘尼薩(びにさつ)台巌 。1891-1892年、身延山座主を辞して瑞光寺住持。短歌の香川景恒門下、歌人・青山霞村(1874-1940)の師。
仏像 堂内に安置の本尊「釈迦如来坐像」は、中正院日護(中正日護)作で、胎内に法華経一巻、五臓六腑を形作ったものが納められている。金箔。
 「聖観音立像」(70㎝)は、平安時代後期作という。定朝系譜の仏師によるとみられる。詳細は不明ながら、藤原基経の極楽寺伝来ともいう。背面銘により、江戸時代、1825年に当寺に奉納されている。木造漆箔。
 奥段に、元政、両親、歴代上人を祀る。
 「釈迦如来像」(10㎝)は、坐して左膝に両手を置く。頬はこけ全身は痩せ、手足は細く、胸にはあばら骨が浮き出している。頭をやや前に傾け、理知的な顔は、僅かに微笑んでいるかのように見える。制作年代、作者不詳。金銅製。
建築 本堂の「寂音堂(じゃくおんどう)」は、萱葺屋根の建物で、江戸時代、1661年に建立された。
文化財 「南蛮人蒔絵交椅」(重文)は、安土・桃山時代(16世紀)作であり、南蛮様式になる。交椅とは南蛮風の脚を交差させた折畳み式の椅子をいう。床に革を張り、後脚上部の持送りをわずかに湾曲させる。横木腕の先端を巻き、足置台板を付ける。背もたれ板の上部、変形菱形内に象の透し彫がある。表裏に黒漆塗の黒地に、金銀の平蒔絵による南蛮人(南蛮笠、襞衿、外套、劍、足首までの長い脚衣)が描かれている。表側は南蛮人の立ち姿が描かれている。犬を連れた下僕を従える。裏側は剣を持った南蛮人の図になる。表裏上部に葡萄、南蛮唐草を配している。高さ116.7㎝、幅50.9㎝。
 「大般若経(和銅経、長屋王願経)」巻第246(重文)は、奈良時代、712年、長屋王(684? -729)が、707年に亡くなった従兄の第42代・文武天皇を悼み発願、書写させた。巻末願文に「長屋」とあり、「長屋王願経」と呼ばれている。本来は600巻あり、現存は220巻ほどになる。当寺にはそのうちの1巻のみが伝わる。本来は巻子装だが、現在は折本装になっている。書写年が明らかな大般若経のうちで最古、奈良時代初期作になる。行を仕切る界線がなく、日本の写経としては珍しい。字体は随-唐代初期の写経を手本にしている。保存状態が良いのは、防虫効果のある黄檗(キハダ)などで染めた黄麻紙(おうまし)が用いられていることによる。箱書によれば、江戸時代、1849年に、檀家で大坂の豪商・長田均が当寺に寄進した。横23.8㎝、縦8.5㎝。
◆深草団扇 江戸時代前期、1660年頃、親孝行の元政は、両親のために団扇で扇いであげたいという思いがあり、団扇を考案したという。京都岡崎の老舗団扇屋「小丸屋住井」が製作した。なつめ形であり、「元政型深草うちわ」と呼ばれた。団扇に元政が歌を書いたことから、江戸時代には京土産として人気を博していた。
 明治期(1868-1912)末には失われた。完全な形で残っているものがない中、2000年に復元される。かつて、瑞光寺に参詣した江戸の家に代々伝わっていた団扇が参照された。
 元政の墓(御廟、三本竹の墓)は、JRの線路を隔てた境内の西にある。遺命により、封土の上に元政が好んだ竹を三本だけ植えた。三本の竹の意味は法華経広宣流布のため、衆生救済のため、両親のためであったという。
 墓の傍らに、江戸時代前期の常陸国水戸藩主・水戸光圀(1628-1701)の「嗚呼孝子元政之墓」の碑が立つ。「明月や 竹三竿の 墓の主」(俳人・高浜虚子、1874-1959)は詠んだ。
 なお、身延山(山梨県)には、「元政上人埋髪の塚」がある。
年間行事 元政忌(元政上人御忌法華懺法会・遺宝展(3月18日)、除夜の鐘(12月31日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『京都の明治文学』『伏見学ことはじめ』『新版 京・伏見 歴史の旅』『拝観の手引 平成28年度春期』『京都大事典』『京都ご利益手帖』『京都のご利益手帖』


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鐘楼

三十番神社、法華守護の三十番神と大黒天の三十一体を祀る。元は旧極楽寺薬師堂に番神山として祀られていた。三十番神は神仏習合の神で、天照大神、八幡大菩薩、伏見稲荷、松尾大明神、北野天満自在天祗園大神など30柱からなり、毎日交代で国家、民を守護する。


帝釈天王、白龍大弁財天

白龍銭洗弁財天

元政の墓(御廟、三本竹の墓)


水戸光圀の「嗚呼孝子元政之墓」の碑(1969)、元政は、母のために養寿庵を建て住まわせた。元政没後、水戸光圀は元政の孝行について、「鷲の山わけて得がたき道ぞとは、ふみみていまぞ思いしらるる」と記し、墓碑の建立を申し出たが、元政の遺志によりを辞退された。現在の碑は、近年建立された。


三本竹の墓、三本の細い竹が、墳墓の上に植えられている。元政の出家は、江戸吉原の高尾太夫の死に起因したことから、この墓前での縁切り祈願の信仰がある。
 

境内の桜
瑞光寺  〒612-0871 京都市伏見区深草坊町4  075-641-1704  10:00-16:00
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