小川通・百々ノ辻・百々橋 (京都市上京区)
 
Ogawa-dori Street
小川通・百々ノ辻・百々橋  小川通・百々ノ辻・百々橋
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小川通


百々橋の礎石遺構。ここに百々橋が架けられていた。長さは7.3m、幅3.7m。百々橋が石橋になったのは近代、1907年の改築の際という。1963年小川の下水道整備の際に埋め立てられた。その後、10年ほど室町小学校に置かれる。1975年に竹林公園(西京区)に移されている。


本法寺(ほんぽうじ)仁王門、かつての「小川」(こかわ)は寺の門前を流れており、今は水はない。当時の石橋はそのままに残されている。


裏千家家元の茶室(今日庵)の表門、兜門とも呼ばれる。非公開。
少庵と宗旦は、当初現在の不審庵の地に住む。少庵は宗旦に「不審庵」を譲ったのち、江戸時代、「今日庵」(1646)を建て隠居してこの地に住んだ。さらに、宗旦の建てた利休茶室の復元「又隠」(1653)に再び隠居している。
 露地内にはわずか二畳(正しくは一畳台目という一回り小さな畳)の茶室・今日庵のほか、多くの茶室がある。今日庵もまた利休茶室の復元であり、極限の狭さが具現されている。


千家家系
利休-少庵-宗旦-②次男・宗守(武者小路千家) ③三男・宗左(表千家) ④四男・宗室(裏千家)


今日庵の南にある表千家家元の茶室(不審庵)の表門、もとは紀州家の門だったといわれている。1822年竣工。9代了々斎が仕えた紀州・徳川治宝により贈られた。
 少庵がこの地に、もとは大徳寺門前にあった利休遺跡の茶室「不審庵」と「残月亭」を復興した。不審庵は、表千家、邸も意味する。その名は、大徳寺117世・古渓宗陳禅師の漢詩「不審花開今日春」による。江戸時代、1788年、近代に入り1905年と焼失し、現在の不審庵は1913年に、残月亭は1909年に再建されている。古渓禅師は、堺の南宗寺住職時代に千利休と出会い、参禅の師となる。また禅師は利休から茶道を学んだ。
 露地は東西に長く伸びている。不審庵は外露地から内露地、さらに不審庵の露地からなり、三畳台目の茶室・不審庵へと辿る趣向と成っている。北東の内路地に不審庵、その西隣に残月亭、向かいに梅見門を挟んで、利休の坐像が祀られている祖堂(1788)と隣接する反古張りの席がある。祖堂と残月亭の間には萱門がある。なお、利休が露地に据えた梟形手水鉢は、清水寺仁王門前の手水を支えていた台柱を豊臣秀吉に願い出て譲り受けたものという。



本法寺の石橋、かつて小川が流れていた。


小川跡


小川通の西の通・堀川通に面した本法寺と隣接する裏千家茶道センター、茶道資料館、今日庵文庫、茶道関係の史資料が展示されている。
 小川通(おがわ どおり)周辺には、本法寺などの寺院、裏千家家元の茶室(今日庵)などの屋敷が点在している。通り名の由来は、かつて北から南へ河川の小川(こかわ)が流れていたことによる。 
◆歴史年表 平安時代、11世紀(1001-1100)、一条小川付近には革聖行円の開いた行願寺(革堂)があった。吉田兼好の『徒然草』には、この寺の近くに住ん連歌師の「猫また」にまつわる話が登場する。小川の対岸に、石置き板葺屋根の町家が、川にせり出すように建てられていた。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、川上に「水上町家」が建てられていた。
 室町時代、この地は、足利将軍家邸宅花の御所(室町御所)に近く、幕府関連の屋敷や寺院などが建ち、政治の中枢になる。宝鏡寺は、足利義政・日野富子夫妻の小川御所跡とされている。
 中期以降、小川の東側に幕府管領・細川氏の家臣屋敷、西側の堀川周辺には、山名氏の家臣の屋敷が多くあった。
 応仁・文明の乱(1467-1477)の乱で、一帯が戦場になり焼失している。
 1571年、周辺10町で町組「小川組」を組織した。(「立入宗継文書」)
 現代、1963年、下水道整備工事の際に小川も暗渠化され、小川は消滅した。
◆小川・小川通 小川通は、紫明通から錦小路通までの南北の通り名をいう。豊臣秀吉による地割で生まれた。かつては、通りに沿い小川(こかわ)という細い川が流れていたことからこの通り名がある。
 小川は、かつては堀川の一部だったという。北山、東山を源とする賀茂二股川であり、小川通に沿い南流し、上立売通で東進、小川通で再び南下し、一条で西に折れて更科川となり、一条戻橋付近で堀川に合流していた。
 川の途中には、北より、本法寺、宝鏡寺、報恩寺、誓願寺、革堂(行願寺)、百万遍(知恩寺)などの寺院が建てられていた。橋は百々橋(どどばし)(寺之内町)、水落橋(上立売橋)、羅漢橋(今出川橋、今出川通)などが架けられていた。
 近代以降、琵琶湖疏水の完成により、1820年、疏水が小川にも通され、一条戻橋で堀川に注ぐようになった。1945年、軍命令により高野川以西の疏水は埋め立てられる。1963年、下水道整備工事の際に小川も暗渠化され、川は消滅した。
◆小町 平安時代の歌人・小野小町にまつわる「雙紙洗水遺跡」(堀川の東、松下通北西角)が、堀川に注ぐかつての小川の傍らにある。かつてこの地に「小町の井戸」が湧いていたという。
 謡曲「草子洗い」では、大伴黒主と宮中の歌合で対決する。小町が勝つが、黒主は「万葉集」にある古歌だと難癖をつけた。小町は歌の墨付きを怪しみ、御遣水(みかわみず)を注ぐと、黒主により加えられた文字は消され、小町は面目を保った。
◆名水・茶の湯 名水・名井が湧き、応仁文明の乱(1467-1477)後に、この地に酒屋が軒を並べた。酒屋は土倉(金融)も兼業していた。
 茶の湯も生まれた。茶の湯に適した硬度、一時硬水が最適とされた。通りの北、寺之内通小川には、裏千家の「今日庵」、表千家の「不審菴」、千家十職などの屋敷が建ち並んでいる。
 京の三名水の一つ「梅の井」は、裏千家の邸内にある。名の由来は、井戸車の側面にある梅花文による。茶室「咄々斎」の五葉松の床柱、横に渡した丸竹により松・竹・梅の趣向もある。家元により、毎朝午前4時半に梅の井が汲まれ、湯が沸され点てられる。利休像に供えられる大福茶では、この井水が使われてきた。
◆千利休 室町時代-安土・桃山時代の茶人・千利休(1522/1521-1591)。堺の魚問屋田中与兵衛の子に生まれた。書院台子の茶を北向道陳に、1540年頃10歳代で武野紹鴎に茶の湯を学ぶ。1544年初の茶会記録が残る。1574年織田信長の茶頭の一人となる。1582年豊臣秀吉の茶頭となり側近政治に関与する。1586年秀吉の関白就任御礼の禁中献茶に秀吉の後見として茶を点てた。正親町天皇より「利休」の号を賜る。1587年北野大茶湯にも演出に関わる。1590年秀吉の小田原攻略に従軍した。小田原より古田織部に自作の竹花入、書状を送る。1591年大徳寺山門事件の責任をとり、秀吉に切腹を命じられ、京都葭屋町聚楽の屋敷内で自刃した。
 村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などに創意を凝らし、茶の湯の典型を示した。墓所は大徳寺聚光院にある。
◆千家 紹おう(「おう」は區+鳥)の弟子・千利休(1522-1591)切腹後、豊臣秀吉(1536-1598)から千家復興を許された養子・少庵宗淳(1546-1614)は、息子の元伯宗旦(1578-1658)に「不審庵」を譲った。
 宗旦は、1646年、三男・江岑宗左(1613-1672)に不審庵を譲り、自らは北隣に「今日庵」を建てて隠居した。その後宗左は、新たに不審庵を建て直している。今日庵は、後に四男・仙叟宗室(せんそうそうしつ)が継いだ。裏干家の名は、表千家(不審庵)の北裏に位置することから付けられた。
 なお、宗旦の次男・宗守が開いたのが武者小路千家(官休庵)であり、江戸時代中期、この三つが「三千家」「上流(かみりゅう)」といわれている。利休の孫・宗旦の長男は家を継がず、次男が武者小路家、三男が表千家、四男が裏千家をそれぞれ継いだ。
 また、同じく紹おうの弟子、剣仲紹智を始祖とする「下流」(しもりゅう)薮内家の流れがある。
◆百々の辻・百々橋 近くの宝鏡寺は百々(どど)御所とも呼ばれる。百々は百々氏という豪族が住んだ地のためともいう。境内の南の寺之内通の一部を百々の辻と呼んだ。江戸時代、1753年、森幸安が応仁乱以後120年間の荒廃した京都の様子を図にした「中昔京師絵地図」にもその名がある。
 付近に、小川が流れ百々橋が架けられていた。橋の長さは4間1分(7.5m)、幅は2間2分(4m)あった。夜更けに橋上で、青い着物を着た妖女に出会ったという逸話がある。(『今昔物語』)。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)では、細川勝元と山名宗全の両軍が、この橋を挟み数度にわたって戦を繰り広げた。1507年、足利管領・細川政元の家督争いでは、養子・澄元、澄之が対立した。澄之、香西又六元長・薬師寺長忠は、義父・正元を暗殺した。さらに、澄元の小川宿所に向かい、橋を挟んで戦になる。香西又六は戦死、本拠の嵐山城も落城した。澄之は城に火を放ち自害した。
 小川は、1963年頃から埋め立てられ、その後、百々橋も取り払われている。橋は現在、竹林公園内に移され復元されている。


*参考文献 『京の橋ものがたり』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』『京都まちかど遺産めぐり』『昭和京都名所図会 5 洛中』

 
    大徳寺     総見院〔大徳寺〕     本法寺     宝鏡寺     白峰神社     応仁・文明の乱戦跡・西陣              


【参照】官休庵、千宗守居士遺蹟、上京区武者小路通小川東入ル613、三千家の一つ武者小路千家の祖・一翁宗守は、江戸時代、1667年に讃岐高松藩松平家茶堂を辞しこの地に庵を営んだ。その後、建物は三度焼失し、現在のものは近代、1881年に再建された。官休庵は、一畳台目の極限の空間だが、それを感じさせない工夫が各所に施されている。ほかに半宝庵、環翠園、祖堂、弘道庵などの茶室、茶座敷がある。


【参照】樂家・樂美術館、樂焼家元吉左衛門宅、上京区油小路中立売上ル613樂焼美術館は1978年設立。北隣に樂家が位置している。

【参照】百々橋(京都市洛西竹林公園)

【参照】百々橋(京都市洛西竹林公園)
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 小川通 京都市上京区

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