蟹満寺 (木津市) 
Kaniman-ji Temple
蟹満寺 蟹満寺
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本堂


本堂、扁額


本堂、蟇股


本堂、蟹と蛇が彫られた額


本堂


香炉






普門庵


庫裏


地蔵菩薩


地蔵菩薩



手水


蟹供養塔 


弘法大師像


水子供養塔 


水子供養塔 


納骨塔


七重石塔
 南山城の綺田(かばた)にある蟹満寺(かにまんじ)は、綺幡寺、蟹幡(かむはた/かんはた/かにはた)寺、加波多寺、紙幡(かみはた/かむはた)寺、蟹満多寺(かにまたでら)ともいわれた。山号は普門山という。
 智積院末寺、真言宗智山派。本尊は釈迦如来坐像。 
 かくれ古寺南山城六山めぐりの一つ、京都南山城古寺の会。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、7世紀後半、680年前後、白鳳時代(7世紀後半-8世紀初頭)とも、建立されたという。秦氏の一族・秦和賀により創建されたともいう。境内は北の天神川を越え、方二町(218.1㎡)の境内を有した。太秦・広隆寺の末寺だったともいう。
 奈良時代、行基(668-749)により、民衆の信仰を集めたともいう。
 長岡京期(784-794)、創建時の金堂が修復される。
 平安時代、創建時の金堂が焼失した。その際に釈迦如来座像も罹災したともいう。
 平安時代中期、1043年頃、「蟹満多寺」「紙幡寺」の寺名初出例となる。(「大日本国法華経験記」)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、東大寺別所の光明山寺の庇護の下に置かれたという。
 江戸時代、1711年、智積院の亮範(りょうはん)が中興した。
 1759年、本堂が建て替えられた。真言宗智山派として復興する。
 近代、明治期(1888-1912)初期、近隣の三寺(地蔵院、東光寺、薬師堂?)が合併したとされる。
 1944年、地震により観音堂が崩壊する。
 現代、1953年、山城大洪水により観音堂を除いて被災する。
 1990年-1994年、山城町教育委員会による庫裏建て替えに伴う発掘調査が行われ、7世紀(601-700)末の大規模な寺院建築遺構が発掘された。
 2005年、発掘再調査が行われる。
 2010年、本堂が再建された。
◆秦和賀 飛鳥時代の秦和賀(生没年不詳)。渡来系豪族秦氏の秦丹照の二男という。朝原忌寸、時原忌寸とも称した。飛鳥時代、広隆寺を創建した秦河勝の弟とされる。秦熊(はだのくま、生没年不詳)はその子という。蟹満寺は一時期、広隆寺の末寺だったともいう。
行基 奈良時代の僧・行基(ぎょうき/ぎょうぎ、668/667-749)。河内国の人。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。681年/682年、出家、官大寺で法相宗などを学ぶ。691年、高宮寺で具足戒を受ける。畿内に道場、寺を建立、溜池、溝・堀、架橋、困窮者の布施屋建設などの社会事業を行う。704年、生家を家原寺とし住した。717年、民衆煽動と僧尼令に反した寺外活動の咎で詔により弾圧を受ける。731年、弾圧を解かれる。732年、河内国狭山下池の築造に関わる。734年、東大寺大仏建立の詔が発布、勧進の任を務めた。736年、インド出身の僧・菩提僊那一行来日に際し大宰府で迎えた。738年、朝廷より行基大徳の称号が授与される。740年以降、東大寺大仏建立に協力する。741年、聖武天皇と恭仁京郊外の泉橋院で会見する。743年、東大寺大仏造営の勧進になる。745年、朝廷より日本初の大僧正位を授けられる。菅原寺(喜光寺)で亡くなる。地図の行基図を作成したという。東大寺「四聖」の一人。
◆仏像・木像 本堂には、白鳳時代(7世紀後半)作の丈六の金銅仏鍍金、「釈迦如来坐像」(国宝)(248㎝/240.3cm、2.2t)が安置されている。制作年代の白鳳説の根拠は、薬師寺の薬師如来坐像との類似による。天平説もあり、飛鳥時代、737年の国分寺創建の詔にある釈迦如来像の造立例にあたるとする。古代の金銅仏としては、奈良・薬師寺金堂の薬師三尊像と並ぶ最高傑作といわれている。金銅の金鍍金は、現在、ほとんど残っていない。左足上の結跏趺坐、右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶ。頭部は身体に比較して大きく、顔は四角い。三十二相のうちの頭に螺髪がない。これは、白鳳仏の名残りという。また、額には白毫がない。切れ長の目、引き締まった口は天平初期の特徴に近く、鼻の造型は白鳳期の特徴がある。左肩より流れる納衣の衣紋は美しく、ほぼ平行(等間隔)になる。これは、薬師寺金堂本尊に酷似しているという。足の衣文は同心円で左右対称になる。双方の手、指の間に、第一関節まで三十二相のひとつ、手足指曼網相(縵網相、まんもうそう)という水掻きのような膜があり、一切衆生もらさずに救済するという意味を持つとされる。目、頬などに「鋳かけ」という、細い帯状の鋳造時の補修跡がみられる。蝋型鋳造により造られ、中型の上に蝋で成形し、外型で覆い、熱してできた空洞に銅を流し込んだ。
 近年の発掘により瓦積重成基壇跡、白鳳期の瓦が出土し、寺は白鳳期に創建されたとみられる。像の安置位置は、創建当初から動かされていないといわれている。ただ、造仏について、丈六金銅仏は国家的な事業であり、一地方寺院でそれほどの有力施主の介在は考えられないともされ、他寺より遷されたともいう。光明山寺、高麗寺、井手寺(井堤寺)、山城国分寺、また、栗原(おばら)寺、光明山寺とは別の光明寺より遷されたともいう。確定していない。台座は江戸時代作による。銅像、鍍金。
 本堂右脇壇に、平安時代の「聖観音菩薩坐像」(141㎝、77㎝とも)が安置されている。旧本尊であり、『今昔物語』に登場する仏像という。かつては観音堂に安置されていた。頭部は11世紀に造られているが、胴以下は後補による。頭に化仏が載る。右手は説法印、左手に蓮蕾を持つ。木造、金漆。
 奈良時代後期-平安時代初期の「如来型坐像」(木津川市指定文化財)は、奈良時代に流行った乾漆像を木彫で表現した類例の少ない作風になっている。右手は施無畏印、左手は与願印を結ぶ。木造。
 平安時代(11世紀)の「木造釈迦如来坐像」、鎌倉時代(12世紀)の「木造地蔵菩薩立像」2体、鎌倉時代-南北朝時代(14世紀)の「阿弥陀如来立像」、曲ロクに坐る「弘法大師坐像」がある。
◆綺田 飛鳥時代、701年の大宝律令により、現在の山城町域は、蟹幡(かむはた)郷と大狛郷に分割されている。一帯は相楽郡蟹幡郷と呼ばれた。その範囲は、北は井手町の玉川周辺から南は町内の鳴子川周辺に及ぶ広大なものだった。蟹満寺がある綺田(かばた)の「綺」もまた「かむはた/かにはた/かんはた」と呼ばれた。この綺は、錦に似た薄い絹織物を意味した。「かむはた」は、神の「美称(かむ)」と「織物(はた)」に由来し、渡来系豪族の秦氏がこの地に住していたともいう。
 伝承として、開花天皇の皇子・日子坐(ひこいます)王の妻・山代荏名津(やましろのえなつ)比売は、別名を苅幡戸弁(かりはたとべ、苅羽田刀弁)といい、この地の出身とされた。(『古事記』)
 また、「紙織(かむはた)」、「神織(かむはた)」とも呼ばれ、神に献ずる衣服を織る人々か、養蚕に携わった綺(かば)氏(秦氏)が住していたともいう。
 蟹幡は「綺幡」、「加波多」、「加無波多」、「紙幡」、「蟹満多」とも記された。また、この付近は天井川が多いことから、天井川の被害を受ける河端の稲田の意味の「河庭田(かにはた、河庭)」が「蟹幡」・「紙幡」に転訛し、さらに「蟹満多」・「蟹満」と「綺田」・「綺原」に分かれ、寺名と地名の由来になったともいう。(『京都滋賀古代地名を歩く』『木津川歴史散歩』)。蟹満寺も当初は蟹幡寺、紙幡寺と記されたともいう。
◆秦氏 蟹満寺と秦氏の関係については確定していないが、秦氏により建立されたとの伝承がある。
 秦川勝の弟で、秦和賀という阿津見長者が建立し、薬上寺、蟹幡寺と称したという。この頃、広隆寺の末寺となっていたともいう。(広隆寺文書『末寺別院記』)。また、川勝自身が建立し、蝦蟆寺と称されたともいう。(『太子伝古今目録鈔』)
◆蟹満寺論争 「釈迦如来坐像」(国宝)については、経緯と時代を巡り多くの議論が重ねられ、「蟹満寺論争」と呼ばれてきた。
 近年の発掘調査により、創建時の瓦積基壇の版築層上に台座内の土があり、焼失以後の土砂の流入はないとされ、台座と釈迦如来坐像は、1300年間、一度も動かされていないともいう。
 蟹満寺とその東にかつて存在した光明山寺とは関係があったといわれている。蟹満寺は、光明山懺悔堂と号したとされている。(平安時代後期の静誉の伝、『伝燈広録』、江戸時代、『山城名勝志』)
 ①飛鳥時代、狛氏建立の高麗寺で造仏され、廃寺に伴い、平安時代の光明山寺、その後、その懺悔堂としての蟹満寺に遷されたとし、白鳳期の仏像とされた。(角田文衛)
 ②薬上寺(蟹満寺)を創建したという長者・秦和賀により秦氏の氏寺とされた。白鳳期に造仏されたという。(田中重久)
 ③奈良時代に橘諸兄造営の井手寺(円堤寺、光明寺)より遷された天平期の仏像とされた。(足立康)
 ④光明山寺とは奈良時代創建の金光明寺(山城国分寺)をいい、国分寺本尊は高麗鋳物師と造仏所工人の造仏により遷されたものとされた。(杉山二郎)
 ⑤近年の有力説として、飛鳥時代創建の第41代・持統天皇の、草壁皇子ゆかりの奈良桜井市の栗原(おばら)寺より遷されたともいう。(松山鐡夫)
◆建築 1990年より1994年まで、境内での発掘調査が行われ、7世紀末の大規模な寺院建築の遺構が発掘された。創建時の金堂、東西棟の瓦積基壇建物跡が現在の本堂、庫裏付近に発掘された。その規模は、南北17.8m、東西28.5mあり、梁行4間、桁行7間あったとみられている。藤原京・本薬師寺、平城京・薬師寺金堂に匹敵したとみられている。瓦は川原式、高麗寺創建瓦と同笵になる。
 2005年の発掘調査では、室町時代の石積基壇建物跡、その下にさらに鎌倉時代初頭以前の石列が発掘されている。
◆今昔物語集 いくつかの「蟹の恩返し(報恩潭)」の話が残る。『今昔物語集』巻16第16話(12世紀初頭)、『大日本国法華経験記』下(11世紀後半)では「蟹満多寺」「紙幡寺」として登場する。『日本霊異記』中巻第12話(9世紀)には、聖武天皇の頃、山背国紀伊郡の話として、深長寺の行基に教えを乞うて蟹が救われた話になる。蟹満寺の寺名より、11世紀に民話、法華経の功徳譚を逆に縁起の中に取り込んだとみられている。久世神社(城陽市)の蟹池の伝承がもとになっているともいう。
 説話にはいくつかの変化があり、大まかな筋は次のようになる。
 夫婦と娘の三人の家族があった。娘は幼少より観音菩薩を篤く信仰し、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」を読誦していた。ある時、蟹を苛めている村人を見つけ、村人に金を与えて蟹を逃がしてやった。また、蟹を捕えて食べようとした人があり、娘は魚と交換して川に逃がしたともいう。後日、父は、蝦蟇を呑み込もうとしている蛇を見つけ、思わず娘の婿にすると言って蝦蟇の命を救った。父は、自らの軽率な約束を後悔する。後日、貴族に変じた蛇が夜な夜な家にやってきた。娘は約束の婚姻を拒否し、板倉に籠り三日間の観音経を誦した。蛇は怒り、ついに本性を表す。蛇は蔵に巻き付き、尾で戸を叩いた。嵐の夜が去り、明け方に辺りは静まり返る。父が雨戸を開けると、切り殺された蛇と共に、息絶えた多くの蟹も死んでいた。夜半に、かつて娘が助けた蟹がその恩返しにと、一族を引き連れてやってきた。幾千の蟹と蛇とが死闘を繰り広げたのだった。蟹と蛇の死骸は共に埋葬され、塚の上に寺を建て仏像を祀り、経巻を写して供養したという。なお、『今昔物語』では、死んだのは蛇のみであり、蛇が葬られ、蟹は無事に帰って行く。
 以後、寺は蟹満多寺、紙幡寺と呼ばれ、娘が観音経の普門品を読誦していたので山号を普門山としたという。物語に登場した観音菩薩が、旧本尊で現在も本堂に安置されている聖観世音菩薩坐像といわれている。
◆文化財 蟹を描いた野村第一筆「風詩画」、「蟹満寺縁起図」。室町時代の紙本著色「十二天屏図」などがある。
◆石塔 境内に鎌倉時代の七重石塔が立つ。
◆年間行事 修正会・御護摩修行(1月1日-3日)、節分星祭(2月3日)、釈迦如来涅槃会(3月15日)、春彼岸会(3月彼岸)、蟹供養放生会(蟹を扱う料理店や旅館関係者が参列し、泉にサワガニを放流する。)(4月18日)、釈迦如来降誕会・脚気腰足痛の封じ祈祷大会(5月8日)、納骨塔終日廻向(8月7日)、お盆棚経(8月13日-15日)、地蔵盆会(8月24日)、秋彼岸会(9月彼岸)、派祖興教大師陀羅尼会(12月12日)。


*本堂内の撮影は禁止。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『山城町史 本文編』『蟹満寺』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『南山城の古寺』『京都・山城寺院神社大事典』「特別展 南山城の寺社縁起」『京都の寺社505を歩く 下』『京都滋賀古代地名を歩く』『木津川歴史散歩』『京都の地名 検証2』『仏像』『京都の仏像』『京都の仏像 入門』『絶対に訪ねたい!京都の仏像』『日本の名僧』『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来 (京都)』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』


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