妙覚寺 (京都市上京区) 
Myokaku-ji Temple
妙覚寺 妙覚寺
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大門聚楽第遺構、裏門の数少ない遺構のひとつという。


城門に見られる大門両潜(りょうくぐり)扉


大門、梁上の空間は、伏兵が潜むためのものという。












祖師堂





祖師堂、日蓮、日朗、日像の坐像を安置する。



祖師堂







唐門、奥に本堂、「狩野元信之墓」の石標が立つ。




玄関

  妙覚寺 (みょうかくじ)は、北竜華(きたりゅうげ)ともいわれる。山号は具足山(ぐそくざん)といい、日蓮の孫弟子・日像(龍華樹院)により開山された「京都の三具足山(龍華の三具足山)」(ほかに妙顕寺、立本寺)のひとつに数えられる。 
 日蓮宗不受不施派の中心寺院、本尊は十界大曼荼羅。
 日蓮宗京都十六本山の一つ。
◆歴史年表 室町時代、1378年、日像の法孫・日実(にちじつ)により創建された。開基は豪商・小野妙覚尼で、その邸内(四条大宮)に建立された。妙顕寺3世・朗源没後、4世の後住選定に際し、弟子・日実は分立した。
 1483年、室町幕府9代将軍・足利義尚により、二条南小路衣棚(衣棚押小路、中京区妙覚寺町)に移される。
 1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件、「天文法華の乱」(天文法乱)により破却、焼失した。堺に一時逃れた。この際に、12世・円頓院日兆は殉死した。
 1548年、旧地(二条南小路衣棚)に再興されている。
 1572年、織田信長は、上洛の際に当寺に止宿している。信長と反目した室町幕府15代将軍・足利義昭を、信長は当寺の本陣より攻めた。一時、足利義輝の御所にもなる。翌1573年に室町幕府は崩壊する。
 室町時代末期、後藤家の祐乗、光乗、徳乗らの外護を受けた。
 安土・桃山時代、1582年、本能寺の変の際に、信長の嫡男・信忠が当寺に宿泊し、手勢500人により本能寺に向かった。当寺も焼失したという。
 1591年、1590年頃とも、羽柴(豊臣)秀吉の洛中寺院整理令(1583)後の都市街地改造により、現在地に移転になった。
 1595年、秀吉の方広寺大仏殿千僧供養会 への出仕を、21世・日奥一人は不受不施により拒否している。
 江戸時代、1745年、直末120か寺、孫末28か寺があった。(「身延久遠寺触下本末帳」)
 1788年、天明の大火により焼失、その後、再建された。
◆日実 鎌倉時代の日蓮宗の僧・竜華院日実(にちじつ、生没年不詳)。紀州に生まれた。妙顕寺の大覚に師事し、備前、備中に布教を行った。真言宗津島福輪寺を改宗させ、妙善寺を開く。1378年、実弟・日成とともに妙顕寺を出て、妙覚寺を開く。
◆日兆 室町時代の日蓮宗の僧・日兆(にっちょう、生没年不詳)。円頓院日兆。詳細不明。妙覚寺12世。1536年、天文法華の乱により妙覚寺は破却、焼失した。日兆は軍中に割腹した。
日奥 安土・桃山時代-江戸時代の日蓮宗の僧・日奥(にちおう、1565‐1630)。京都の豪商・辻藤兵衛の子。妙覚寺の20世・日典に師事、1592年、妙覚寺21世。日蓮宗不受不施派の祖。1596年、豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養会への出仕を拒否、強義折伏主義、不受不施を主張した。寺を去り、丹波小泉に隠せいした。本圀寺の日禛のみは日奥を支持した。1599年、徳川家康は大坂城で日乾らと対論させ、日奥は再び不受不施を貫く。千僧会もひとり拒否し対馬流罪になる。1612年、赦免され、1616年、妙覚寺に戻る。家康はその信念に感銘を受けていたといわれ、1623年京都所司代は不受不施について折紙を出した。
 没後、1630年、身延久遠寺との宗門内部対立により、日樹、日奥は「再犯」となり不受不施派は禁制になる。日奥の遺骨は対馬流罪(死後の流罪)にされた。『宗義制法論』など著す。
◆斎藤道三 戦国時代の武将・斎藤道三(さいとう どうさん/としまさ、1494/1504-1556)。山城に生まれた。大山崎の油商人とも、長井豊後守利隆の嫡子であるともいう。1534年、美濃守護土岐氏の家臣・長井景弘を討ち、1537年頃、守護代斎藤氏の名跡を継ぐ。1542年、土岐頼芸から美濃を奪取した。1548年、娘の濃姫を織田信長の妻とする。家督争いから、1556年、道三愛妾の子・斎藤義竜と戦い長良川河畔で敗死した。
 道三は青年期に妙覚寺で修行し、学匠・常光院日諦に帰依したという。道三の子・観照院日饒はその関係から妙覚寺19世貫首に就く。1556年4月19日、長良川での戦いの前日、死を覚悟した道三は、日饒に遺言状「斎藤道三公遺言状」を送っている。
◆織田信忠 安土桃山時代の武将・織田信忠(おだ のぶただ、1555-1557)。尾張国生まれ。父は織田信長の長男。母は久庵慶珠。1567年、武田信玄・五女・松姫と婚約、1572年、信長が信玄と敵対し、婚約解消した。父に従い、石山合戦、1574年、岩村城の戦い、伊勢長島攻めと転戦。1574年、長篠の戦い、岩村城攻めで総大将として勝利。1576年、父より家督、美濃東部、尾張国の一部を譲られ岐阜城主となった。正五位下に叙せられ、出羽介、秋田城介に任じられる。1577年、雑賀攻めで中野城を落とした。信貴山城の戦いの功により従三位左近衛権中将に叙される。この頃より信長に代わり総帥として兵を率いる。1578年、上月城の戦い、1582年、甲州征伐で総大将として戦勝する。
 1582年6月2日、本能寺の変で、信忠は備中高松城を包囲の羽柴秀吉への援軍のため、妙覚寺に宿泊した。信長の宿所・本能寺を明智光秀が急襲し、信忠は本能寺へ向かう。信長自害の報で二条新御所に移動、異母弟・津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと篭城した。誠仁親王を脱出させ、明智軍・伊勢貞興の攻めにより自害した。
◆狩野元信
 室町時代後期の画家・狩野元信(かのう もとのぶ、1476?-1559)。山城国の人。狩野派 始祖・正信の子。大炊助、越前守、法眼に叙せられる。作品に「鞍馬寺縁起」(1513)、同年頃、大徳寺大仙院客殿障壁画を一門と相阿弥とともに制作し た。石山本願寺(大坂本願寺)障壁画(1539-1553)、妙心寺霊雲院旧方丈障壁画(1543)がある。
 分業による制作を確立し、中国絵画、室町水墨画、やまと絵の技法も取り入れ、狩野派の基礎を築いた。
◆狩野永徳 室町時代-安土・桃山時代の画家・狩野永徳(かのう えいとく、1543-1590)。源四郎。狩野松栄の長男。1552年、祖父・元信とともに室町幕府将軍・足利義輝へ正月参賀に赴く。1566年、創建の大徳寺・聚光院の障壁画を父と制作する。1576年、織田信長の安土城、1583年、総見院、1585年、豊臣秀吉の大坂城、1586年、正親町院御所、1587年、秀吉の聚楽第、1588年、大徳寺・天瑞寺、1589年、後陽成天皇の内裏、1590年、京都御所などの障壁画を一門ととも に手掛ける。東福寺法堂天井の龍図制作中に急逝した。龍図は弟子・山楽が引き継ぐ。
◆仏像 本堂に日蓮、日朗、日像の坐像が安置されている。日蓮は「村鏡自刻宗祖像(厄除けの御霊像)」といわれている。日蓮は自ら首を刻み日朗を経て日像に渡った。日像は自ら体の部分を刻み、胎内に舎利と法華経の一部を納めたという。
◆建築 大門、本堂、祖師堂、華芳塔堂(掛堂、華芳堂)、大門がいずれも京都府指定有形文化財に指定されている。1788年の天明の大火後の再建による。
 「表門」は、安土・桃山時代、秀吉の聚楽第(1590)の裏門を、江戸時代、1663年に移築したとされる。城門特有という両潜(りょうくぐり)扉、梁上の空間は伏兵を潜ませるためのものという。
 「本堂」、「祖師堂」がある。
 安土・桃山時代の山内で最も古い「華芳塔堂」には、日蓮が比叡山華芳谷定光院で修行中に書写した法華経を納めた。
◆文化財 鎌倉時代の日蓮真筆「盂蘭盆御書」6幅(重文)。
 室町時代、1556年、斎藤道三が子・日饒に宛てた遺言状「斎藤道三公遺言状」がある。
 狩野元信筆「大涅槃図」、狩野光信・岸駒筆「日蓮聖人画像」。
 華芳堂(かほうどう)(京都府指定有形文化財)には、木造多宝塔(華芳宝塔)(京都府指定有形文化財)内に、石塔が納められている。日蓮は、比叡山・横川の定光院に住まい、法華経を写経した。これを石造の塔に納め、宗旨建立を誓願した。1571年の織田信長による比叡山焼討に際して、付近に住む山本修理亮(しゅりのすけ)が石塔を見つけ当寺に納めたという。石塔胴の背面には法華経を納めたとみられる空間がある。後に、石塔を納めるための木造多宝塔(華芳宝塔)が造られた。多宝塔には、江戸時代の亀田窮楽筆の扁額が掛かる。扉絵は、檀越の狩野派による。さらに、掛堂(華芳堂)も建てられた。
◆庭園 春は桜、夏は青葉、秋は紅葉の「法姿園」がある。当寺では苔地に楓を植えただけの「自然庭園」と呼ぶ。法華経にある「諸法実相」を意味し、この世の出来事、本当の姿、「あるがまま素晴らしい」世界を表すという。
◆遺跡 室町時代、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした天文法華の乱に備えた構え跡の遺跡がある。
◆映画 境内で映画が撮影されている。時代劇映画「西鶴一代女」(監督・溝口健二、1952年、新東宝、児井プロ)では、身を落としたお春(田中絹代)が客引きをする。ヴェネチア国際映画祭国際賞を受賞した。
 時代劇映画「雨月物語」(監督・溝口健二、1953年、大映京都)では、境内に城下町のセットが作られ、若狭姫(京マチ子)と陶工・源十郎(森雅之)がやり取りする。ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞、イタリア批評家賞を受賞している。
◆京の七口 妙覚寺近く、新町通と鞍馬口通の交差点付近は、新町頭鞍馬口(清蔵口、西蔵口)と呼ばれ、「京の七口」の一つになる。丹波へ向かう街道の起点であり、蓮台野を経て北東の鷹ヶ峯の北丹波口(長坂口)につながる。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
 三菩薩卒塔婆、日蓮の墓は比叡山西谷の定光院より遷されたという。日朗、日兆は1931年建立による。日像、日典、日奥の墓がある。
 室町時代後期の画家・狩野元信(1476-1559)、永徳(1543-1590)、重信(1543-1590)、高信(1742-1794)、永賢泰信(1767-1798)、永悳立信(1814-1891)など狩野一族の墓がある。
 楠正虎(1520-1596)の墓がある。
 茶わん屋楽屋の墓がある。楽焼は、天正年間(1573-1593)、瓦職人・長次郎が、千利休の指導により、聚楽第建造の材の土で焼いた「聚楽焼」が始まりという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都の寺社505を歩く 上』『秀吉の京をゆく』『事典 日本の名僧』『京都歴史案内』『京都の地名検証 3』『京都絵になる風景』『史跡探訪 京の七口』『京都・観光文化 時代MAP』


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本堂

本堂庭園

本堂庭園

本堂庭園

本堂庭園

華芳堂

華芳堂、石塔

華芳堂内

木造多宝塔(華芳宝塔)、説明板より

庫裏

殉教碑、1536年の「天文法華の乱」(天文法乱)の犠牲者6万人を弔う。

参考資料 『京都・観光文化 時代MAP』
 妙覚寺 〒602-0007 京都市上京区下清蔵口町135,上御霊前通小川東入る北側   075-441-2802
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