本隆寺 (京都市上京区) 
Honryu-ji Temple
本隆寺 本隆寺
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東門
 





南門




本堂(京都府指定有形文化財)


本堂


祖師堂(京都府指定有形文化財)



経蔵



経蔵



鐘楼
 本隆寺(ほんりゅうじ)は、3300坪の境内を有している。正式には慧光無量山本妙興隆寺、慧光山本隆寺とも呼ばれる。山号は慧光山になる。 
 法華宗真門流の総本山。本尊は、十階曼荼羅。
 日蓮宗京都16本山の一つ。洛内法華二十一本山(洛中二十一箇本山)の一つ。
 夜泣き止め松は、子どもの夜泣きを治すとされる。
◆歴史年表 室町時代、1488年、日真は、本勝迹劣(ほんしょう じゃくれつ)を唱えた。師・日具のもとを去る。妙顕寺(妙本寺)より分かれ、六角西洞院(中京区)に草庵を結んだ。
 1489年、四条大宮坊城に移り、「慧光無量山本妙興隆寺」が開創された。第104代・後柏原天皇(在位1500-1526)などの外護を得て隆盛した。日真門流の拠点になり、洛内法華二十一本山の一つになる。
 1536年、4世・日映の時、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件、「天文法華の乱」により焼失した。堺に避難している。寺域は幕府に公収された。
 1542年、4世・日映の時、現在地の西にあったとみられる杉若若狭守邸跡(上京区杉若町付近、一条堀川とも)に再建された。
 安土・桃山時代、1584年、羽柴(豊臣)秀吉の都市改造により、現在地に移された。第105代・後奈良天皇の外護を得た。
 江戸時代、1633年、末寺50か寺があった。(『本隆寺之帳』)
 1654年、1653年とも、大火により焼失している。
 1657年、1658年とも、10世・日尊の時、名匠・坂上作左衛門により再建された。
 1730年、西陣焼けにより、一部焼失している。
 1788年、天明の大火の際に本堂、祖師堂、宝庫以外が焼けている。
 1792年、再興した。
◆日真 室町時代中期の日蓮宗の僧・日真(にちしん、1444-1528)。常不軽院。但馬国に中山大納言親通の子として生まれた。昌福阿闍梨日全に師事し、妙顕寺の日具に師事する。本隆寺創建後、北陸を中心に布教した。本隆寺派(法華宗真門流)の祖。
◆黒川道祐 江戸時代の医史家者・黒川道祐(くろかわ どうゆう、1691-1691)。安芸の広島藩医の家に生まれた。医学を父・寿閑に、儒学を林羅山・鵞峰父子、堀正意にも学び、広島藩医として仕えた。1673年以来、京都新在家上ノ町に住み本草家・儒学者の貝原益軒を知る。地理、歴史に通じ、京都の地誌『雍州府志』10巻、医史学書『本朝医考』3巻などを著した。
◆無外如大 鎌倉時代後期の臨済宗の尼・無外如大(むげ にょだい/むがい にょだい、1223-1298)。詳細不明。幼名は千代野ともいう。鎌倉幕府の御家人・安達泰盛の娘。武将・金沢(北条)顕時の妻のひとりだったという。鎌倉の中国明州よりの臨在僧・無学祖元に師事、1285年、鎌倉幕府の政変、霜月騒動で安達一族が滅亡、夫の配流にともない得度したという。師没後、尼寺・正脈庵(のちの真如寺)を開く。景愛寺の開山とされ、臨済宗最初の正規の尼という。
 景愛寺は、本隆寺境内にあったともいう。宝慈院に頂相、坐像が残されている。東福寺で修業をしている時、ほかの僧が如大が美しすぎて修業に専念できないと抗議したため、自ら焼火箸で頬を傷つけたという。坐像にもその傷跡がある。 
◆不焼寺 江戸時代、1730年の西陣焼けでは本堂が、1788年の天明の大火では、本堂と祖師堂などが焼失を免れた。以来、「不焼寺(焼けずの寺)」と称されるようになった。
 また、これらは本堂に祀る鬼子母神の加護により難を逃れたとされた。以来、鬼子母神は「火伏の鬼子母神」といわれ信仰を集めている。本堂南東角に、不焼寺止跡の石碑がある。 
◆建築 江戸時代、1657年建立の「本堂」(京都府文化財指定)は、日蓮宗16本山の中で最も古いという。17間4面。
 「祖師堂」(京都府文化財指定)は、江戸時代、1657年建立による。
夜泣止松 祖師堂の手前にある松は、「夜泣止松(夜泣き止め松)」と呼ばれている。樹皮、また、松の葉を床の下に敷くと夜泣きが止むといわれている。また、松の周りを廻ると夜泣きが止むともいう。
 室町時代、1532年の元旦の朝、5世・日諦が昇堂すると、一人の婦人が赤子を託し養育を乞うた。寺で預った嬰児は、夜中に母を慕って泣いたという。日諦は、題目を唱えながら赤子を抱いて松の周りを廻ると、夜泣きがやんだという。子は後に7世・日脩となった。
 現在の松は、3代目という。
◆千代の井 本堂の前に、「千代の井(ちよのい)」が残されている。西陣五井一の名井・名水という。
 千代野姫(無着尼、無外如大尼)は、坐禅修行を続けていた。満月の夜、この井戸で水を汲んだ際に、桶の底が抜けた。水に映っていた月影が水とともに消えてしまう。この時、悟りが開け、仏道に入ったとされている。「とにかくにたくみし桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず」
 ただ、井泉は美濃の国松見寺の誤りともいう。この寺での修行中の逸話ともいう。(『雍州府志』)
 井戸は、本堂を大火から守ったとも伝えられている。江戸時代、1730年の西陣焼けでは本堂の巽柱に火が移った。すると、異形の婦人が手桶を持って現れた。婦人が、千代の井の水を汲んで柱にかけると鎮火した。婦人は鬼子母神が化身したものという。神像の被衣が焦げていたからという。
◆文化財 平安時代の「法華玄論」10巻(重文)、平安時代の「法華経」(重文)。ともに京都国立博物館保管。
 日蓮筆という「大曼陀羅」、「法華経七万字版木」。「十六羅漢絵像」(重文)。
 安土・桃山時代、16世紀の長谷川等伯(信春)筆の紙本淡彩「西王母国(せいおうぼず)」(159.1×104.4㎝)は中国の仙女図になる。
◆支院 宣妙、慶成、本法、玉峰、正寿、是好、玉樹、本城。  
◆遺跡 室町時代、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ち、天文法華の乱に備えた構え跡の遺跡がある。
◆景愛寺 この地には、無外如大尼(むげ にょだいに、1223-1298)が創建した景愛寺の故地ともいう。
◆墓 江戸時代の医師・歴史家の黒川道祐(1691-1691)、その父で江戸時代の儒者、医師・黒川寿閑(?‐1660)など黒川一族の墓がある。
 江戸時代前期の茶道具師、千家十職の黒田正玄(1578‐1653)の墓がある。
◆花暦 桜(4月)、百日紅(9月)、秋の紅葉が知られている。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都歴史案内』『京都の寺社505を歩く 上』『別冊太陽 長谷川等伯』『京都のご利益手帖』『増補版 京都の医史跡探訪』


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