頂妙寺 (京都市左京区) 
Chomyo-ji Temple
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表門(総門)








仁王門


仁王門


仁王門、豊臣秀吉による宗門布教の許状の扁額







 頂妙寺(ちょうみょうじ)は、鴨川の東、仁王門通に面してある。通り名は当寺の仁王門に由来するという。山号は聞法山(もんほうざん)という。 
 日蓮宗本山。本尊は十界大曼荼羅。
 日蓮宗京都16本山の一つ。上方三か寺(ほかに京都・本法寺、堺・妙国寺)の一つ。
◆歴史年表 室町時代、1469年、日祝(日常8世)が上洛し、1471年、壇越の武将・細川勝益(?-1502)より四条錦、万里小路富小路の寺地寄進を受けた。
 1473年、創建された。聞法山の山号は、第113代・東山天皇により贈られ、寺号は勝益の法号の頂妙院殿による。以後、足利将軍家祈願所となる。
 1495年、さらに勝益の土地寄進(中京区、四条通柳馬場付近)により寺域拡大する。この年に日祝により創建されたともいう。
 1509年、10代将軍・足利義稙の命により新町通長者町(上京区)に移転する。
 1523年、12代将軍・足利義晴の命により、高倉中御門(高倉椹木町、左京区)に移転し、法華宗洛内21法華本山の一つになる。
 1536年、比叡山衆徒が洛中洛外の日蓮宗寺院21本山を焼打ちした、天文法華の乱により洛中を追われる。
 1542年、勅許により洛内還住が認められる。
 1546年、高倉中御門(左京区)の旧地に再興された。この際に、蓮池平右衛門尉秀明が旧地を買戻し寄進した。
 安土・桃山時代、1573年、織田信長による焼討ちにより、鷹司新町(上京区)に移転する。
 1580年、織田信長の命により、浄土宗と法華宗(日蓮宗)の間で行われた安土宗論には、当寺の3世・日珖が臨み敗れた。安土法難には、信長の策謀があったとされ、日蓮宗は詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられる。
 安土・桃山時代-江戸時代初期、寺地は高倉下立売(上京区)にあったとみられている。
 豊臣秀吉(1536/1538-1598)の命により、高倉中御門(左京区)の旧地に移ったともいう。
 江戸時代、1673年、御所の整備に伴い、現在地(左京区)に移転した。
 1675年、延宝の大火により焼失する。また、14世・日相の時、延宝の大火後に現在地に移転したともいう。
 1788年、天明の大火により焼失し、その後、再建された。
 1837年、本堂が再建になる。
◆日祝 室町時代-安土・桃山時代の日蓮宗の僧・日祝(にっしゅう、1427-1513)。妙国院。下総国に生まれた。下総中山・法華経寺の日薩に師事し、京都の頂妙寺、土佐に妙国寺などを開いた。
◆日珖 室町時代-安土・桃山時代の日蓮宗の僧・日珖(にちこう、1532-1598)。和泉国に生まれた。堺・頂源寺の日沾(にちでん)に師事、1555年、頂妙寺3世になる。堺・妙国寺を開いた。安土宗論に敗れた。後、下総中山・法華経寺の住持となる。
◆安土宗論 安土・桃山時代、1579年、織田信長の命により、安土城下浄厳院で、浄土宗と日蓮宗の宗論「安土宗論(安土問答)」が行われた。浄土宗側の勝ちとなる。宗論は信長による日蓮宗弾圧のためともいう。現在、仁王門に掲げられている豊臣秀吉の扁額「許状」は、それ解き、日蓮宗の布教が許された際の許状になる。 
◆仏像 本堂に一塔両尊(いっとうりょうそん)四士像、文殊・普賢菩薩像、四天王像、日蓮聖人像を安置している。
 仁王門に安置された持国天、多聞天(毘沙門天)はかつて和泉国にあったものを日珖が遷したともいう。仁王尊は、平安時代末期-鎌倉時代初期の仏師・運慶(?-1224)、鎌倉時代の仏師・快慶(生没年不詳)作とされる。だが、度重なる火災で罹災し、頭のみが当時のものという。
◆建築 総門(表門)、仁王門、祖師堂、宝蔵、大黒天堂、妙見宮・洗地蔵、鬼子母神堂、本堂、鐘楼、書院、威徳善神社、庫裡、納骨堂などが建つ。
 「仁王門」は、仁王門通の通名のもとになったという。
 「表門」は、江戸時代、1836年に建立された。
 
「本堂」は、江戸時代、1840年に建立される。
 
「祖師堂」は、江戸時代、1801年に建立による。
◆文化財 江戸時代、17世紀、俵屋宗達筆、公卿・歌人の烏丸光広賛の紙本墨画「牛図」2幅(京都国立博物館寄託)は、没後、寄進された。墨のたらし込みの技法(下地が乾かないうちに次の色を落す)による。牛は頭を持ち上げており、墨の濃淡により逞しい筋肉を表現している。彫り塗り、白で描く線などの筆法も用いる。光広は、右幅に和歌、左幅に漢詩を入れた。牛という繋がれない生き物の自由を讃え、江戸幕府による縛りに対して抗した。
 近年発見された室町時代-近代までの「京都十六本山会合文書」(府指定文化財)がある。「京都十六本山会合文書箱」は、複雑な構造をしており、落し蓋の底に文書を隠せるようになっている。
 江戸時代後期「頂妙寺版法華経」版木。「三十番神像」。
 朝鮮時代の「蓮紙織画(はすししょくが)」は、蓮の絵が描かれている。縦に一定の幅で裁断した絵に、同じ幅で白紙を横に織り込んでいる。
 仁王門に豊臣秀吉の許状扁額が掲げられている。織田信長の命により行われた日蓮宗、浄土宗の宗教論争「安土宗論(安土問答)」により、日蓮宗が処罰された。(安土法難)。安土・桃山時代、1580年、秀吉は布教再開を許した際の宗門布教の許状になる。「豊臣太閤秀吉公台命 先年安土に於ける法問以来、逼塞の由侯、早々の上洛尤候、諸事前々如く、与に仰出され候間、其の意を得らる可く候。此旨法花宗中へ申渡候、猶諸事自り申し入れられるべく候、恐々謹言 民部卿法印 玄以(花押) 七月廿日 日珖上人 玉床下」。
◆塔頭 山内に8院ある。真如院、法輪院、大乗院、善性院、妙雲院、本立院、善立院、真浄院。
◆遺跡 室町時代、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした天文法華の乱に備えた構え跡がある。
◆墓 室町時代の壇越の武将・細川勝益、室町時代の連歌師・里村昌休(1510-1552)、室町時代-安土・桃山時代の連歌師・里村昌叱(1539-1603)、安土・桃山時代-江戸時代の連歌作者・里村昌琢(1574-1636)、また、江戸時代初期の絵師・俵屋宗達の墓と伝えられるものがある。江戸時代の茶人・鷹司有隣軒(輔信、1680-1741)。
 ほかに久我大納言母堂?、鎌倉時代-南北朝時代の武将・足利直義の妻本光院殿(渋川貞頼の娘)?、王木以斉翁?など。
◆樹木 イチョウがある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『週刊 日本の美をめぐる 2  奇跡の出会い 宗達と光悦』『京都 神社と寺院の森』『第49回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 ガイドブック』



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