酒解神社・天王山宝寺城・天王山 (大山崎町) 
Sakatoke-jinja Shrine
酒解神社・天王山宝寺城・天王山 酒解神社・天王山宝寺城・天王山
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拝殿


拝殿


本殿切妻造


本殿



神輿庫(重文)、鎌倉時代後期建立、切妻造本瓦葺、校倉式、桁行5.45m、梁間4.39m。


三社宮、右より天照大神社(天照大神)、月讀社(月讀大神)、 蛭子社(蛭子神)



後見社(大己貴命)



宮主社(足名稚命、手名稚命)
 大山崎の地は、天王山(270m)と、向かう男山との狭路に、宇治川、木津川、桂川の三川が合流し、淀川になり流れる。さらに、山城国と摂津国をつなぐ西国街道が通じている。 
 山頂にいたる山道の途中、山の東斜面に、酒解神社(さかとけ じんじゃ)がある。正式には、自玉手祭来酒解神社(たまて/たまで より まつりきたる さかとけ じんじゃ)ともいわれる。
 大山祇神(おおやまづみのかみ)を主祭神とし、相殿に素盞嗚尊(すさのおのみこと)、ほか9柱を祀る。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 奈良時代、718年、717年とも、再建されたという。神殿梁の棟札があるとされ、少なくともその頃には、山崎郷の産土神として祀られていたともいう。
 また、山崎寺(宝積寺)が守護した山崎社に、玉手(御所市、井手町とも)より酒解社を勧請したともいう。第52代・嵯峨天皇皇后が橘氏の出のため、木津・鹿背(かせ)山の氏神を勧請したという。かつて、離宮八幡宮(大山崎)の地に祀られ、山崎橋の守護神だったともいう。(『延喜式』)
 平安時代、梅宮(京都市右京区)の橘氏の氏神・酒解神が昇格した際に、当社も正五位下に昇格したという。(『続日本後紀』、839年の条、843年の条)。
 平安時代中期、元名は山崎社として、自玉手祭来酒解神社と記されている。(『延喜式』)
 鎌倉時代、社は廃されたという。この頃、天神八王子社(牛頭天王社とも、東に東天王八王子、西に天神八王子の二座を祀る。また、山崎天王社とも)が祀られ、素盞嗚尊の子・八王子を祭神にしたともいう。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、山崎社は、離宮八幡宮の勢力が強大になったため、山崎山(現在の天王山)に遷座し、やがて天王社と呼ばれたという。
 江戸時代、1753年、酒解神社が3基の神輿を新造した。そのうちの1基を関大明神社(関戸明神)に譲ったという。
 1813年、社殿の大部分を焼失した。
 1820年、再建される。
 近代、1868年、天神八王子社の称号を廃する。祭神・牛頭天王は、神仏分離令にともない素盞嗚尊に改められたという。
 1877年、京都府により式内酒解神社と改称され、主祭神は大山祇神((おおやまづみのかみ)になった。
◆建築 「神輿庫」(重文)は、鎌倉時代後期の建立という。現存最古の倉庫遺構になる。
 古来よりの一般的な工法だった板倉形式(板倉造)といわれ、断面三角形の横木ではなく、厚板(厚さ14㎝)を積み上げている。正面中央に1間の入口、ほかは板壁になる。3間2間、板倉式、切妻造、本瓦葺。
 板倉形式は、倉の壁を木材で造ったものの総称になる。柱に溝を彫り、その間に厚板を落とし込む。「落とし板倉」「板倉」と呼ばれる。板倉の代表例としは伊勢神宮があり、重文指定としてはほかに、江戸時代の春日大社にもある。関東や東北地方の山間部には、今もこの形式が見られるという。
 強度があり、通気性、調湿機能、防音効果も高いため、古来より神社では穀物や書物を保管する蔵として使われてきた。鎌倉時代以降は、西日本の都市部を中心に、次第に耐火性に優れた土蔵に代わっていった。 
 なお、校倉(あぜくら)形式は、校木(あぜき)を井楼組(せいろうぐみ)という井桁状に組み上げて壁をつくり、柱を用いない構造をいう。
◆神輿 神輿庫の庫内には室町時代以前作という神輿2基が納められている。
◆宝寺城 天王山山頂一帯、酒解神社の西に、かつて山城の天王山宝寺城(ほうじじょう、鳥取尾山城)が築かれていた。標高270mの山頂の南斜面に、300m、500mの規模で、自然地形を利用した山城だったとみられている。
 南北朝時代、1338年に城の記述が残っている。南朝方の防御のため、摂津守護・赤松範資が入城した。室町時代、室町時代、1467年、東軍・山名是豊、1470年に山城国人・野田泰忠、1482年に細川政元が入った。1527年、細川晴元党・柳本賢治が出撃、その後、三好本長、柳本賢治、法華一揆、一向一揆が相次いで入る。1538年に細川晴元が修造する。1539年、晴元は三好長慶の軍に対して城を使う。
 安土・桃山時代、1582年、山崎の合戦では、明智光秀は一時城に入る。その後、1583年より、豊臣秀吉は一時、城(山崎城、財寺城)を本拠とした。普請奉行・杉原家次により築城された。天守も備えていたという。4月、城より秀吉は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに出陣した。1583年6月、秀吉はすでに大阪城に移っており、1584年3月、山崎城の天守は破却された。
 遺構としては、時代による変遷を経て、最後の秀吉時代の縄張りが残されている。秀吉の時には、天守が存在したという。現在は、土塁、登り土塁、空堀、堅堀、天守台、櫓台、虎口、枡形、井戸などが遺されている。
◆蛤御門の変 参道脇に「真木保臣(まき やすおみ)等十七士墓(禁門の変十七烈士の墓)」が立つ。維新後に有志により立てられた。
 幕末、1864年7月19日(旧暦)、蛤御門の変(禁門の変)が起きる。1864年6月5日の池田屋事件後、長州藩では会津藩、薩摩藩への報復の声が高まる。7月19日、長州藩福原越後の一隊は藤森で、国司信濃の一隊は、京都御所の会津、薩摩藩兵と戦闘を開始した。長州藩は完敗し、遊撃隊・来島又兵衛は討死、首謀・久坂玄瑞は御所内鷹司邸で自刃した。
 また、天王山に布陣していた首謀の神官・真木和泉ら一隊17人は、新撰組の近藤勇、永倉新八、会津藩兵に攻められ山中で自爆、自刃した。土方歳三らは麓の街道を固めた。長州藩が落ち延びる際に藩邸などに火を放ったことから、京中は「どんどん焼け」という大火に見舞われる。この地の、観音寺、大念寺、離宮八幡宮、社家、農家なども焼失した。以後、朝敵になった長州藩に対して、二次の征長令が出された。
◆天王山 現在の天王山(270m)は、かつて山崎山と呼ばれた。天神八王子社の遷座にともない、その称号に因み、天王山の山名に変わった。
 天王山の頂上付近は、かつて旗振山の一つだった。江戸時代中期-大正期(1912-1926)初期に、大坂堂島、伏見の米相場を、旗か松明による火振り(火の旗)で相互に伝達し、投機的な空米取引を行っていた。この旗振り通信は、4分で伝達していたという。村人は、翌日、相場の高かった取引所に米を出していた。
 旗振山は、京都側から山科区の二石山(にこくさん、稲荷山頂上の三等三角点、西野山付近)、伏見の米取引所、天王山、京田辺市の千鉾山(せんぼこやま、311m)、交野の旗振山(345m)、堂島の米取引所に置かれていた。
◆自然 天王山の東斜面にはシイなどの自然林が広がる。1997年、京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「天王山」として選定された。
◆年間行事  例祭(隔年の5月5日には神輿が山を下り巡行する。)( 5月3日-5日)、年越祭(12月31日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都の寺社505を歩く 下』『京都おとくに歴史を歩く』『幕末京都 新選組と龍馬たち』『秀吉の京をゆく』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『京都の地名検証』『水無瀬神宮と周辺の史跡』


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厳島社(市杵嶌姫命)

【参照】天王山山頂

【参照】天王山にある禁門の変十七烈士の墓

天王山山頂へ向かう登山道途中から見た三川合流点(宇治川、桂川、木津川)、右手が淀川となる。
 酒解神社 〒618-0071 乙訓郡大山崎町大山崎天王46 
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