西雲院 〔金戒光明寺〕 (京都市左京区)
Saiun-in Temple
西雲院  西雲院
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本堂


本堂扁額「西雲院」







ウメ


ハス



ネムノキ



「紫雲石」が祀られている堂


扁額は、照高印道晃による。
 金戒光明寺の塔頭・西雲院(さいうんいん)は、境内東の高台、文殊塔の北に位置している。寺名は、「万日寺(まんにちじ)」「紫雲石(しうんせき)」ともいう。山号は紫雲山という。 
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来。
 京の通称寺霊場23番、紫雲石万日寺。
◆歴史年表 江戸時代、1616年、宗厳(そうごん)が、金戒光明寺より法然縁の「紫雲石」を贈られ、この地に開創したのが始まりという。宗厳は庵を結び、千日の別時念仏(千日念仏惣回向)を修した。その後も、一万日(28年)の別時念仏(万日念仏惣回向)を発願した。寺には、多くの念仏者が集い、寄進も集まり、念仏道場として栄えたという。
 1628年、宗厳没後、弟子たちが引き継ぎ、3万日(80年)、4万日(100年)の別時念仏(3万日、4万日念仏惣回向)を達成し、「万日寺」とも呼ばれた。
◆法然
 平安時代末期-鎌時代前期の浄土宗の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。勢至丸。美作国に生まれた。父は押領使・漆間時国、母は秦氏。1141年、9歳の時、父は夜襲により目前で殺される。父は出家を遺言する。天台宗菩提寺の叔父・観覚のもとに預けられた。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法(宝)房源光に師事、1147年、皇円の下で出家受戒。1150年、西塔黒谷慈眼坊叡空の庵室に入り、浄土宗に傾く。法然房源空と名乗る。1156年比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。善導は、阿弥陀仏の誓った本願を信じひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができるとした。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。東山吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となる。1186年(1189年とも)、天台僧らとの大原談義(大原問答)で専修念仏を説く。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1201年、親鸞が入門した。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した「元久の法難」が起きる。「七箇条制誡」を定め、弟子190人の連署得て天台座主に提出する。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止(ちょうじ)となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移る。翌1212年、ここで亡くなった。『選択本願念仏集』(1198)、『一枚起草文』(1212)などを著す。
◆宗厳 安土・桃山時代-江戸時代の僧・宗厳(そうごん、1575? -1628)。朝鮮に生まれた。豊臣秀吉による朝鮮侵略の文禄・慶長の役(1592-1598、壬辰・丁酉の倭乱)の際では、1593年(1592年とも)、福知山城主・小野木縫殿助により捕らえられた。17歳の時であり、平壌近郊より姉とともに日本に連行された。1593年、北政所、後に滝川下総守雄利の息女に仕えた。1605年、息女死後、知恩院・満誉上人により得度した。1616年、息女の墓があった黒谷の了的上人(金戒光明寺第27世)に認められ西雲院の開祖になる。
 浄土宗の七つの掟を定めた。念仏を唱え諸国行脚したという。宗厳の下に、多くの僧侶が集まったという。境内に墓がある。
◆王鞬南 安土・桃山時代-江戸時代の医者・王鞬南(おう けんなん、?-1645)。明国福建道生まれ。1596年、渡来し、元和年間(1615-1624)、西雲院・基宗厳法師を頼りに落髪し、住した。詩文、筆法に秀でた。
◆池玉瀾 江戸時代中期の画家・池玉瀾(いけのぎょくらん、1727?-1784)。祇園下河原通りの茶屋・松屋の女亭主・百合の娘。本姓は徳山氏、名は町、号を松風など。歌人の母より和歌、書を学び、柳沢淇園より南画を学ぶ。のちに池大雅にも南画を学ぶ。大雅と結婚後、真葛原で同居し、徳山玉瀾の名で書画を描く。母とともに八坂神社鳥居前で茶屋を営み、青木木米、頼山陽らも出入りした。作品に「滝山水図」(出光美術館蔵)。墓は黒谷の西雲院に母と共に眠る。
◆会津小鉄 江戸時代末-近代の侠客・会津小鉄(1833-1885)。上坂仙吉。生国は不明。父は水戸藩士・上田友之進とも、源之助ともいう。母は大坂の太物屋由兵衛の娘・ユウともいう。4歳の仙吉は母と水戸の父のもとを訪ねたが玄関払いとなる。母は6歳の仙吉を残して病死した。11歳で江戸で中間になり、また12歳で福知山で剣術を学び、16歳で免許皆伝になったともいう。17歳で関西に戻る。日本橋で喧嘩の上、殺め五畿内お構いとなり江戸に移る。1862年、会津藩兵入京とともに会津部屋に入り、神田・千葉道場で北辰一刀流を修める。会津部屋頭となり、常に虎徹を手挟んでいたことから「会津の小鉄」と呼ばれた。1862年、会津藩主・松平容保の京都守護職に同行し、黒谷本陣の京都会津部屋頭になる。新選組の密偵として活躍した。池田屋事件(1864)、禁門の変(1864)、鳥羽・伏見の戦い(1868)などに協力した。1867年、喧嘩により人を殺し、1868年、徳川慶喜の上洛により処刑前に特赦、上坂音吉より盃をもらい一家を構えた。1883年、博徒狩りで捕縛され翌年出獄した。
 鳥羽・伏見の戦いで、「賊軍」として放置されていた会津藩士の400もの遺体を恩義に感じ放置できないとして、子分200人により黒谷墓地に葬る。遺品は会津若松に届けた。だが、報復により自宅を焼かれたという。架橋、河川整備など社会事業も行う。生涯、会津藩士の墓地を西雲院とともに守り、整備も行ったという。西雲院境内に墓がある。
◆紫雲石 平安時代、1175年、比叡山黒谷で念仏修行していた法然は山を下りた。真如堂に詣でた後、この地の半畳程の岩根の白河石で休んだという。
 念仏を唱えていると、紫雲光明を目にし、薫香漂ったという。そのため、この地、白河禅坊旧地に浄土宗の道場となる庵、白河禅房を結んだ。その際に腰掛た石が「紫雲石(しうんせき)」という。法然は、吉水の庵室に移ってからもこの地を訪れ、修行をしたという。
 江戸時代、1624年、中坊長兵衛が祠堂を建立する。後に荒廃し、1681年、宗信法師が再建した。
◆墓 境内に、宗厳の墓がある。
 侠客・会津小鉄、江戸時代中期の画家・池玉瀾の墓がある。
 「石造観音像」が立つ。右手に蓮華を持つ。明国人の医師・王鞬南の墓石になる。参詣すると小児の百日咳に効あるとされた。
 境内東に隣接して、会津藩殉難者墓所がある。江戸時代末期、1862年、会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、金戒光明寺を本拠地とした。鳥羽・伏見の戦い(1868)で犠牲になった藩士352人の墓所になっている。会津藩殉難者追悼法要(6月第2日曜日)が執り行われている。
◆傀儡塚 境内の南に傀儡(くぐつ)塚がある。傀儡師、傀儡女は、技芸を披露し諸国行脚した芸能集団だった。古くより散楽などを演じた集団としてあり、平安時代には雑芸を演じた。9世紀以来、特に人形を操った。
 住持・家田隆現が人形劇団「ゆりかご」を主宰しており、その縁で塚は建立された。1989年以来、「くぐつ祭り」が営まれている。
◆花暦 春の牡丹、夏の40種の蓮(西湖蓮、神光院蓮、大賀蓮)、芙蓉、サルスベリ、秋の紅葉が見られる。
墓 
◆年間行事 くぐつ祭(1989年以来、傀儡塚に、人形劇関係者が先人を供養する。)(6月13日)。會津藩殉難者追悼法要(京都會津会主催)(6月第2日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『くろ谷金戒光明寺に眠る人びと』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『朝鮮通信使と京都』『京都隠れた史跡100選』『古都歩きの愉しみ』『週刊 日本の美をめぐる 29 与謝蕪村 池大雅と文人画』


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法然上人古跡の碑
 

堂内

法然が腰を下ろしたという「紫雲石」

法然(1133-1212)

庫裏



開山宗厳の墓

王鞬南の墓石

「会津小鉄之墓」の石標

会津小鉄の墓

二代目会津小鉄 上坂卯之松の墓

傀儡塚

会津藩殉難者墓所

会津藩殉難者墓所

会津藩殉難者墓所

文殊塔付近からの市街地の眺望
西雲院 〒606-8331 京都市左京区黒谷町121  075-771-3175
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