聚光院 〔大徳寺〕 (京都市北区)
Juko-in Temple
聚光院 聚光院  
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門前の参道














雪の朝


庫裏














本堂、松


門前の参道
 大徳寺本坊西に塔頭・聚光院(じゅこういん)がある。千利休の墓があることで知られている。
 臨済宗大徳寺派。大徳寺北派。 
◆歴史年表 安土・桃山時代、1565年、笑嶺宗訴の師・大体宗套は、大徳寺内の庵「裁松軒」の土地を現在地(聚光院境内)に移している。
 1566年、戦国武将・三好義継は、養父で武将の三好長慶の菩提を弔うために建立した。開山は大徳寺107世・笑嶺宗訴により、寺名も長慶の院号「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」に由った。
 1573年、織田信長により三好氏本宗が滅亡し、檀越を失う。
 1583年、現在の本堂が建立されたともいう。(棟札)
 1589年、千利休が菩提所とする。
 江戸時代、1741年、表千家7世・如心斎が茶室「閑隠の席(閑隠席)」を建てた。
 現代、1978年-1980年、本堂の解体修理が行われる。
◆三好義継 室町時代-安土桃山時代の武将・三好義継(みよし よしつぐ、?-1573)。讃岐十河城城主・十河一存の子に生まれた。嫡男・義興が早世したため、1563年、家督を継ぐ。だが、三好三人衆と松永久秀が後見し、その傀儡となる。以後、両者の内紛により、その間を揺れ動いた。1565年、室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺事件、永禄の変に加担した。松永が織田信長に降り、義継も従い織田家臣となる。1569年、足利義昭の妹を室に迎える。信長に抗した義昭を匿ったことから信長の反感を買う。最期は、佐久間信盛の攻撃により自刃し、三好宗家は滅亡した。
◆三好長慶 室町時代の大名・三好長慶(みよし ながよし、1522-1564)。阿波・山城守護代三好元長の子。1534年、父の仇・細川晴元に帰参、1539年、一時晴元に背くが、摂津越水城主となり摂津西半国守護代になる。1542年、河内太平寺で木沢長政を敗死させる。1549年、摂津江口の戦で晴元軍を破り、織田信長に先んじて天下人となる。1553年、足利義輝・晴元連合軍を京都霊山に破り、独裁政権を樹立、細川宗家による京兆家専制を終らせた。1558年末まで、旧室町幕府政所執事・伊勢貞孝らを補佐した。1558年、将軍義輝と和し、幕臣最高位相伴衆となる。畿内、四国など11か国を領し、北条氏と並ぶ大大名となる。堺を貿易港とし、安宅水軍を擁し鉄砲の技術を保有、キリシタン布教も許した。その後、家宰松永久秀(弾正)の台頭、弟2人、嫡子義興を失い、義輝との確執もあり病死した。文人、連歌の名手でもあった。墓は当院と堺・南宋寺にある。
◆笑嶺宗訢 室町時代の臨済宗の僧・笑嶺宗訢(しょうれい そうきん、1505-1583)。伊予国に生まれた。伊予・宗昌寺、南禅寺を経て、大徳寺・古嶽宗亘に参じ。大林宗套(1480-1568)の法を嗣ぐ。1558年、大徳寺107世、堺の南宗寺、海眼庵に住した。尼崎の廣徳寺、栖賢寺などを開く。1582年、織田信長の葬儀を行う。利休居士参禅の師の一人、弟子に春屋宗園(1529-1611)、古渓宗陳(1532-1597)などがいる。1569年、祖心本光禅師の号を贈られる。
 逸話が残る。信長葬儀の際に、笑嶺は秉炬(ひんこ)焼香の役を務める。ただ、豊臣秀吉の織田氏嗣子に対する態度に異を感じ、秀吉の態度如何によっては、衣の下に密かに隠した短剣で秀吉を殺めようとしたという。だが、弟子の古渓がそれを知り、笑嶺を退席させ古渓が代替したために事なきを得たという。(『太閤記』)。
◆千利休 室町時代-安土・桃山時代の茶人・千利休(せん の りきゅう/せん りきゅう、1522/1521-1591)。堺の魚問屋田中与兵衛の子に生まれた。書院台子の茶を北向道陳に、1540年頃、10歳代で武野紹鴎に茶の湯を学ぶ。1544年、初の茶会記録が残る。1574年、織田信長の茶頭の一人となる。1582年、豊臣秀吉の茶頭となり側近政治に関与する。1586年、秀吉の関白就任御礼の禁中献茶に秀吉の後見として茶を点てた。正親町天皇より「利休」の号を賜る。1587年、北野大茶湯にも演出に関わる。1590年、秀吉の小田原攻略に従軍した。小田原より古田織部に自作の竹花入、書状を送る。1591年、大徳寺山門事件の責任をとり秀吉に切腹を命じられ、京都葭屋町聚楽の屋敷内で自刃した。
 村田珠光以来の侘び茶を大成し、茶会の形式、点前作法、茶道具、茶室露地、懐石などに創意を凝らし、茶の湯の典型を示した。利休は、当院開山・笑嶺の弟子のひとりであり、参禅し壇越になった。笑嶺が堺の南宗寺から移り、聚光院を開いた際には、多額の寄付をしている。墓所は聚光院にある。
◆狩野松栄 室町時代-安土・桃山時代の画家・狩野松栄(かのう しょうえい、1519-1592)。京都に生まれる。狩野元信の3男。家督を継ぎ、剃髪し松栄と号した。1553年、父の助手として石山本願寺(大坂本願寺)の障壁画、1563年、大徳寺の「大涅槃図」、1566年、大徳寺・聚光院障壁画では子・永徳と制作し、「遊猿図」「瀟湘八景図」襖絵を描く。1569年、厳島神社「羅城門鬼之図扁額」を制作奉納した。
◆狩野永徳 室町時代-安土・桃山時代の画家・狩野永徳(かのう えいとく、1543-1590)。源四郎。狩野松栄の長男。1552年、祖父・元信とともに室町幕府将軍・足利義輝へ正月参賀に赴く。1566年、創建の大徳寺・聚光院の障壁画を父と制作する。1576年、織田信長の安土城、1583年、総見院、1585年、豊臣秀吉の大坂城、1586年、正親町院御所、1587年、秀吉の聚楽第、1588年、大徳寺・天瑞寺、1589年、後陽成天皇の内裏、1590年、京都御所などの障壁画を一門とともに手掛ける。東福寺法堂天井の龍図制作中に急逝した。龍図は弟子・山楽が引き継ぐ。
 1574年、足利義輝の注文により23歳で描いた「上杉本洛中洛外図屏風」は、織田信長から上杉謙信に贈られたといわれている。大徳寺・聚光院には障壁画があり、現存するもので当時のままに鑑賞できる唯一の作品になる。
◆狩野派 方丈(客殿)に安土・桃山時代の絵師・狩野永徳(1543-1590)、室町時代のその父・松栄(1519-1592)の作品がある。
 室町時代、狩野派の祖・狩野正信(1434? -1530?)は、幕府御用の絵師になる。だが、室町幕府の衰微に伴い、正信長男の元信(1476? - 1559)は、内裏、公家屋敷、寺院、豪商宅に活動の場を広げた。作品は、工房で弟子が共同制作する方法で請け負った。作風は、元、明様式にやまと絵の色彩を合わせた、華麗で装飾的なものを確立した。
 元信の三男が松栄、孫が永徳にあたる。永徳は24歳で継ぎ、聚光院障壁画により織田信長に認められ、安土城の装飾一切を任された。以後、豊臣秀吉の聚楽第など多くの大建造物を手がけた。永徳により形作られた狩野派の特徴として、分業体制を取り入れたこと。分業のため、絵画の様式化が図られたこと。宗教色を廃し装飾色を強めたこと。常に時々の為政者の庇護下にあったことなどの特徴がある。現存するものは少なく聚光院の障壁画、上杉本「洛中洛外図屏風」などがある。
 なお、正信の描いた「竹石白鶴図屏風」は、大徳寺塔頭・真珠庵にある。
◆建築 方丈(重文)は、室町時代、永禄年間(1558-1570)の創建という。ただ、安土・桃山時代-江戸時代時代の建立ともいう。六間間取り(桁行15m、梁間11.9m)、方丈形式、一重入母屋造、檜皮葺。玄関は折曲り廊、腰掛は扉口突当り。
 柱面の大きさ、畳割技法(畳寸法を基準にし、部屋を決定する技法、柱割の対)の先駆という。建築様式として、中世と近世の間にあるとされる。室中を挟んで東に礼の間、西に檀那の間、室中の北に仏間、東に大書院、西に衣鉢の間がある。西端部分は1915年に付け加えられている。
 庫裏は総見院より明治期(1868-1912)に移したものという。江戸時代の部材が使われ、移築時のものも使われている。なお、庫裏の戸障子に紙が張られておらず、桟のみであることを茶道研究家・井口海仙、作家・司馬遼太郎が指摘している。
◆茶室 千利休好みの茶室「閑隠の席(閑隠席、かんいんせき)」(重文)は、書院の北西隅にある。江戸時代、1741年に表千家7世・如心斎が建てた。もとは利休が開山・笑嶺宗訴のために建て、その名も笑嶺宗訴がつけたともいう。笑嶺は、利休参禅の師だった。
 西の庇下の躙口より入る。躙口上に格子窓(連子窓)が開く。茶室内は左手に台目床、床柱は赤松皮付きのやや太い真直ぐな柱、墨跡窓が開く。床前に客座(2畳)がある。正面(東)に点前座(1畳)がある。点前座北東隅に茶道口があり、その奥の水屋(3畳)に通じている。点前座には赤松皮付きの真直ぐな中柱を立てる。炉台目切(点前座の外の畳に、点前畳の中心線から上手にかけて炉を切る)、四畳炉向切(点前座の客座寄りの一部を欠いて切る)。客座天井は、野根(のねい)板張り、白竹打上げ平天井、点前座はやや低い蒲の落天井になる。茶室の南に二つの6畳の部屋が隣接しており、開放して使用することができる。席前庭の石灯籠は、利休好みになる。
 表千家6代・覚々斎原叟好みという茶席「桝床席(ますどこせき)」(重文)は、閑隠の席の東、水屋の奥にある。枡形の踏込床(床框を省き、畳と同一面に板・畳を敷き込んだ床)がある。四畳半平面の半畳を床の間とし、炉は床の間に接して向切とする。
◆障壁画 方丈(客殿)の障壁画は、狩野松栄、永徳父子が合作した。
 1566年、1583年とも、初仕事となった24歳の永徳は、室中の複合四方四季障壁画であり、紙本墨画「四季花鳥図」16面(国宝)(各175.5×142.5㎝)になる。このうち、東に「梅花禽鳥図」、西に「芦雁図」、北に「松鶴図」「岩に鶺鴒図」を描いたといわれている。いずれも、部屋を一巡しながら視点移動し鑑賞することを前提にしており、四季折々の花鳥図を動と静の多様さで描いた。東より始まり、巨大な梅の古木は、画面上部に省略することで木の大きさをより強調する。2羽の鳥は樹上にとまり、一羽が羽で左を差し示し、視点の移動を促している。その方向に、水辺が広がる。梅の長い枝があり、一度水を潜り、水から出て枝はさらに長く延びる。その先には、水中に岩があり、水流が打ち寄せている。さらに、北に岩、その先の松の巨木二本、さらに西の松、樹木の下で餌を啄ばむ鶴がいる。松の枝先に飛翔する雁があり、それを迎える地上の雁図で完結する。京都国立博物館寄託。
 檀那の間の永徳筆、紙本墨画着色「琴棋書画図」8面(国宝)(175×142.5㎝)には、琴を奏でる人、囲碁を打つ人、文を読む人などが真体で描写されている。永徳の作品で現存しているものは少ない。
 狩野派4代棟梁だった狩野松栄は、1566年に衣鉢の間に、穏やか筆致で壁貼付「豹虎図」(国宝)、襖絵「遊猿絵図(竹虎遊猿図)」(国宝)。礼の間に「瀟湘(しょうしょう)八景図」(国宝)(175.5×142.5㎝)は柔らかな筆遣いで描く。内陣小襖「蓮池藻魚図(蓮鷺池藻魚図)」も描いたといわれている。
 現代の日本画家・千住博(1958-)の「滝」がある。青地に白い瀑布が描かれている。
◆文化財 絹本著色「三好長慶像」(重文)。
◆庭園 庭は、方丈南庭、茶室「閑隠席」と「桝床席」のそれぞれ露地、中庭の4つがある。
 安土・桃山時代の方丈庭園(名勝)は、長方形で170㎡ある。蓬莱式枯山水式の庭であり、石の数が多いことから「百石の庭」「百積の庭」ともいわれる。狩野永徳の下絵により、千利休(1522-1591)の作庭ともいう。庭と室中の永徳の襖絵は呼応しており、襖絵東面と庭園の西部分の石組みは相似しているといわれている。また、相国寺の子建西堂(是庵)作ともされ、妙心寺・霊雲院との関連も指摘されている。
 生垣を背景とし、現在は杉苔を大海に見立てた苔庭と石組みによるが、100年前は白砂が敷かれていた。南の刈り込み籬(榊、山茶花、梔子)に平行して 東西直線上に石を配している。二つの石は奥に一列で並び、低く据えられている。3つの石組(中島)を並べ、2つに自然石の低い橋が架けられている。石組のうち、平天石の間に2つの立石があり、これらは鶴の羽石といわれている。
 左手に松と右手に利休手植えという沙羅の木(ナツツバキ、3代目)がある。8月中旬から1カ月ほど白い花をつける。初代は、1963年に樹齢380年で枯死した。二世は1997年に倒木した。 露地は、140㎡の広さがある。自然石の蹲踞が据えられている。中庭は露地風で、灯籠、蹲踞、飛び石、井戸などがある。江戸時代、1741年、表千家7世・如心斎が作庭し寄進した。
◆墓・宝塔 千利休墓は、宝塔で、もとは船岡山二条天皇陵にあり、利休遺愛の供養塔ともいう。異説もある。台石は鎌倉時代の十三重石の屋根石を使った。塔身から相輪までは一つの石で造られている。塔身に鳥居型の四方が穿たれ火袋になっている。また、腰回りに半肉彫りの地蔵菩薩仏が刻まれている。これらは後に補われたものという。塔身の両面に利休居士号、妻の宗恩禅定尼の名が刻まれ、利休の父母も眠る。笠石には瓦棒、軒には垂木まである。
 三千家(表千家、裏千家、武者小路千家)の墓があり、菩提寺になっている。花崗岩製、1.9m。
 三好長慶の墓は、五輪石塔(1m)、台に4体の仏像が刻まれている。かつて河内飯盛山下にあり、院の建立後に子・義次が移した。
◆文学 冬、室生犀星(1889-1962)は当院の利休の墓を訪ねた。その印象について記した。「素朴ないかにも利休が好きそうな石塔であった。燈籠として見れば、灯袋の調子もよく、灯袋上に角の彫りがあって、下の佛の彫りを引締めている。併しこの石塔の美しい侘びた気持は相輪にあることは勿論で、その不恰好さの面白さに至っては私も初めて見たほどである。重々しいが鈍重ではなく、寂落とした灰色の淋しさは再び見ることの出来ないものである」(『京洛日記』)
◆年間行事 千利休の月命日の28日には、三千家による法要、呈茶が交代で行われている。


*普段は非公開、建物の大部分、室内、庭園の撮影は禁止。*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『障壁画全集 大徳寺真珠庵・聚光院』『別冊愛蔵版 淡交 大徳寺と茶道 その歴史と大徳寺僧の書』 『障壁画の見方』『紫野大徳寺の歴史と文化』『京都・紫野大徳寺僧の略歴』『京都で建築に出会う』『京都秘蔵の庭』『原色日本の美術15 桂離宮と茶室』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都で日本美術をみる』『週刊 日本の美をめぐる 34 竜安寺石庭と禅の文化』『週刊 日本の美をめぐる 室町5 38 狩野派の流れ 元信 永徳 探幽』


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 聚光院  〒603-8231 京都市北区紫野大徳寺町58  075-492-6880

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