染殿院 (染殿地蔵)・金蓮寺 (京都市中京区) 
Somedono-in Temple
染殿院 染殿院
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新京極通側の狭い門




「染殿院」の碑


「時宗開祖一遍上人念仏賦算遺跡」の石標


四条通側林万昌堂脇に立つ「安産守護染殿地蔵尊」の石標




本堂




本堂


「安産御腹帯授与」の木札


妙見宮



 甘栗和菓子老舗・林万昌堂四条本店の奥に、染殿院(そめどのいん)がある。「染殿地蔵」「そめどのさん」とも呼ばれている。かつて、「十住心院(じゅうじゅうしんいん)」、「敬礼寺(きょうらいじ)」ともいわれた。また、「四条京極釈迦堂」とも呼ばれた。
 時宗四条派大本山金蓮寺(こんれんじ、北区鷹峯)塔頭の一つ、本尊は秘仏の地蔵菩薩。
 江戸時代には、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第36番札所、札所本尊は染殿地蔵。
 子授け、安産祈願の篤い信仰を集める。染色関係の商家にも信仰された。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、808年、空海(774-835)の開基ともいう。空海は、入唐(804-806)の後、当院に留まり、主著『十住心論』(『秘密曼陀羅十住心論』(830頃)を清書調巻したことから、以後、「十住心院」と呼ばれたともいう。
 また、かつては「釈迦院」、「敬禮寺(きょうらいじ)」、「清和院釈迦堂」、「釈迦堂」とも呼ばれていたという。
 第55代・文徳天皇皇后・藤原明子(829-900)は、染殿后(そめどの の きさい)と呼ばれ、この地蔵尊に祈願し、皇子(後の第56代・清和天皇)を産んだ。これより、「染殿地蔵尊」と呼ばれたという。
 また、第62代・村上天皇第4皇子・為平親王(952-1010)は、四条中川付近に殿舎があり、染殿地蔵尊も邸内に祀られ御願寺となっていた。皇子は染殿親王(染殿式部卿)と呼ばれていたともいう。
 987年、東大寺・沙門奝然(ちょうねん、938-1016)は、宗から帰国し、赤栴檀の釈迦像を持ち帰った。後に、仏像は嵯峨野・清凉寺に安置したという。また、自ら三尺余り(0.9m)の釈迦像を造り、当院に奉納したという。以後、「四条京極の釈迦堂」と呼ばれたという。
 鎌倉時代、1284年、時宗の開祖・一遍(1239-1289)は、かつて大津にあった大寺の関寺より入洛し、釈迦堂(染殿院)に7日間滞在し、念仏腑算(南無阿弥陀仏の名号を書いた札を配る)、念仏踊りをしたという。一遍のもとに、貴賤上下皆群れをなして集ったという。(「一遍上人絵」「遊行上人縁起絵」)
 1311年、真観(しんかん)は、第93代・後伏見天皇の女御・広義門院藤原寧子の安産に寄与し、祇陀林寺(ぎだりんじ)と呼ばれていたこの地を贈られる。金蓮寺(こんれんじ、四条道場)と改め染殿院もその一院になる。
 南北朝時代、1354年、足利尊氏は十住心院に紀伊国野上別井村地頭職を寄進する。
 1356年、武将・佐々木高(道誉、1296-1373)は、染殿地蔵院を含む四条京極一帯の土地を、当院北にあった金蓮寺(中京区中之町)に寄進した。足利基氏は十住心院を祈願寺とする。
 1384年、足利義満は十住心院に天下安全の祈祷を命じたともいう。
 1388年、1387年とも、室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)は、その寄進地を安堵(承認)し、外護した。以後、当院は、時宗四条派大本山金蓮寺塔頭(現在は北区に移転)になった。
 室町時代、1422年、足利義持は十住心院を祈願寺とする。
 1438年、足利義政は十住心院を祈願寺とする。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、染殿地蔵は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1788年、大火により焼失した。
 1864年、御所以南の大火時に仮堂(現在の建物)が建てられたという。
 近代、1928年、1926年とも、金蓮寺が北区鷹峯に移転し、当院のみは旧地に残される。
◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。讃岐国に生まれた。15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事、大学に入るが、退学して山林修行を始めた。出家後、四国の大滝岳や室戸崎などで修行した。遣唐使の留学僧(804-806)として唐に渡り、中国から真言密教をもたらし、日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への礎を築いた。空海による真言密教の拠点は、東寺のほかに、高野山、宮中の真言院の三寺ある。第52代・嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆のひとりとして数えられている。東寺境内に日本最初の私立学校「綜芸種智院」も創立している。また、唐で学んだ土木技術により、各所で灌漑、土木工事などを行い、祈雨の伝承も残っている。
◆一遍 鎌倉時代中期の僧で時宗開祖・一遍(いっぺん、1239-1289)。智真。捨聖(すてひじり)、遊行上人と呼ばれた。伊予松山・水軍家系の河野通宏の次男。一族は承久の変(1221)に加わり衰微、父は出家する。10歳で母と死別、1248年、父の勧めで継教寺・絶縁のもとで出家、随縁と称した。幼少より聡明だったという。1251年、13歳で師・善入とともに大宰府の浄土宗西山派証空弟子・聖達(しょうたつ)を訪ね師事、肥前の華台にも学ぶ。智真と改める。1263年、父の死を契機に帰郷し還俗、妻帯し家督を継ぐ。相続に絡み親族に襲われ、1271年頃、再び出家した。1271年、大宰府の聖達を訪ね、信州・善光寺で「二河白道」の喩に感得、阿弥陀仏により救済されると確信する。伊予・窪寺に籠る。1273年、伊予国・菅生の岩屋に参籠。1274年、妻・超一、娘・超二、従者念仏坊とともに遊行の旅に出る。四天王寺、高野山・金剛峯寺、熊野権現の夢告により、賦算の行(念仏札を配る)を始めた。妻子と別れる。1275年、熊野、京都、西海道より伊予に戻る。1279年、京都・因幡堂、善光寺、信濃国の伴野より敬愛する空也に倣い踊り念仏を始めた。奥州、平泉、1282年、鎌倉入府を断られる。1284年、3度目となる京都を訪れた。その後、北国、西国を巡り、1289年、摂津国和田岬の観音堂(後の真光寺)で亡くなる。
 一遍の号は、六字名号一遍法の感得に由る。空也の「捨ててこそ」の教えを実践し、捨聖とも呼ばれた。一遍は粗末な身なりで北は江刺、平泉から南は薩摩・大隅まで15年間諸国遊行し、各所で25万枚ともいう賦算と踊念仏を行なう。生涯にわたり寺を建てず、著作も残さず、死期迫るとわずかな経典も焼き捨てたという。一遍の時衆(時宗)は、日常の生活を臨終の時ととらえた。身辺のあらゆるものを捨て、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば、俗世の人々も阿弥陀仏に救われ往生できると説いた。室町時代中期に阿弥文化が開き、猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)など、同朋衆、仏師、作庭師が輩出した。
 一遍は京都に1274年、1279年、1284年の3回訪れている。3度目に近江・国関寺より、釈迦堂(染殿院)に1週間滞在した。その後、運居寺、六波羅密寺、空也の市屋遺跡に道場を建て、篠村から穴太を経て丹後に向かった。
◆藤原明子 平安時代の第52代・文徳天皇女御・藤原明子(ふじわら の あきらけいこ/めいし、829-900)。染殿后。父は人臣最初の摂政になった藤原良房。明子は美貌の持ち主といい、文徳天皇が東宮の際に入内、女御になった。850年、惟仁親王(第56代・清和天皇)を産む。賀茂の斎院・儀子内親王を産む。858年、皇太夫人、864年、清和天皇から皇太后の号を贈られた。882年、孫の第57代・陽成天皇から太皇太后の号を贈られた。藤原氏 による台頭の基盤を築いた。
◆為平親王
 平安時代の皇族・為平親王(ためひら しんのう、952-1010)。第62代・村上天皇の第4皇子に生まれた。母は皇后安子(右大臣藤原師輔の娘)。三品、一品式部卿となる。967年、実兄・第63代・冷泉天皇即位に際し東宮となる。969年、実弟・守平親王(第64代・天皇円融天皇) にも皇位を奪われた。これは、右大臣・藤原師尹らが他氏排斥し藤原政権確立を謀った安和の変(969)の原因となった。
◆仏像 本尊の「地蔵菩薩」(像高2m余り)は木彫裸形立像で、厨子に納められている。秘仏とされ、50年に一度だけ開帳されている。空海(774-835)作といわれている。平安時代以来、安産祈願の信仰を集めた。
 平安時代、987年、東大寺・沙門奝然(ちょうねん、938-1016)は、自ら三尺余り(像高0.9m)の「釈迦像」を造り、当院に奉納したという。その釈迦像は、現在、金蓮寺霊宝庫(北区)に収蔵されている。 
◆安産祈願 平安時代の第55代・文徳天皇皇后・藤原明子(829-900)、染殿后(そめどののきさい)は、皇子に恵まれなかった。地蔵尊に祈願し、17日の願をかけたところ満願の日に懐妊の兆候があり、惟仁親王(第56代・清和天皇)を産んだ。以来、地蔵尊は染殿后に因み、染殿地蔵と呼ばれるようになった。
◆夢窓国師・西芳寺 鎌倉時代末期-室町時代初期(南北朝時代)の臨済宗僧・夢窓疎石(1275-1351)が、西芳寺(苔寺、西京区)を作庭した際に、この地蔵尊は一旅僧の姿に化身し、夢窓疎石を助けたという伝承がある。
 築山築造の際に大石が重くて動かなかったという。一人の僧が忽然と現れた。僧は、ただ一人で大石を動かし、夢窓疎石の思い通りに庭を造った。夢窓疎石は歓喜し、何か礼をしたいと思う。僧が袈裟を持たなかったため、夢窓疎石は自ら着ていた袈裟を贈った。僧は袈裟を受け取り、錫杖(しゃくじょう)を地に立てたまま消えたという。
 夢窓疎石は後日、四条の辺に托鉢し、偶然に染殿地蔵堂に詣でた。堂の扉を開けて地蔵を拝すると、先の僧に送った袈裟が地蔵菩薩の肩にかかっていた。だが、手に持っているはずの錫杖は見当たらなかった。夢窓疎石は、先だっての僧はこの地蔵の化身であると知り、涙を流したという。
 また、夢窓疎石が作庭していた際に、一人の大男の働きぶりが目に留まった。男は、夢窓疎石に自らの錫杖と、夢窓疎石の袈裟を取り換えてほしいと頼んだ。夢窓疎石がそれに応じ、男は帰って行った。寺男が密かに跡をつけると、四条染殿の地蔵堂に消えたという。堂には、夢窓疎石の袈裟を着た地蔵が座しており、ある筈の錫杖がなかったという。(「都名所図会」)
 その時の錫杖は、西芳寺南の地蔵院にいまも祀られているという。作庭に加わったという地蔵尊の言い伝えは、作庭に関わった時宗の徒か、庭造りに携わっていた山水河原者の象徴ともいう。
 また、錫杖は天龍寺に伝えられているともいう。(『都名所図会』)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼京都 25 六波羅蜜寺』『京都府の歴史散歩 上』『京都 歴史案内』『一遍辞典』『旧版 京のお地蔵さん』『日本の名僧』『事典 日本の名僧』『京都の寺社505を歩く 上』『京都の隠れた御朱印ブック』


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【参照】金蓮寺(北区鷹峯)
染殿院 〒604-8042 京都市中京区中之町562,四条通新京極西入る北側   075-221-3648
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