植髪堂 (京都市東山区)
Uegami-do Temple  
植髪堂 植髪堂
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青蓮院境内に立つ「親鸞聖人得度聖地」の碑


植髪堂



植髪堂


植髪堂、中央に前立の阿弥陀如来像が安置され、その背後に親鸞木像がある。仏間左端に、12歳の親鸞墨染姿の木像が安置されている。


植髪堂


植髪堂



植髪堂

 青蓮院の北に、鎌倉時代の浄土真宗宗祖・親鸞にまつわる植髪堂(うえがみどう)がある。 
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 鎌倉時代、1181年、親鸞は青蓮院第3世門主・慈鎮のもとで得度した。
 親鸞の母(清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女<きっこうにょ>、源義朝の娘とも)は、張子で親鸞の童形像を作ったという。得度の際に剃り落された親鸞の髪を、像の頭上に植え付け、常に自らの傍に置いていたという。親鸞8歳の時、その母は亡くなる。
 像はその後長らく青蓮院に蔵せられていたという。
 像の存在を伝え聞いた人々は礼拝を請い、木像が新たに造られた。法衣を着せ、青蓮院末寺・金蔵寺(こんぞうじ)の御供屋に安置されていたという。
 江戸時代、1759年、信者の一人が御供屋の東にお堂を建て、阿弥陀三尊を安置した。その傍らに像も安置され、堂は阿弥陀堂、また、植髪堂とも称されたという。
 1766年、お堂は華頂山北丘背後(知恩院背後の山?)に移された。だが、寺号「華頂山阿弥陀寺」は江戸幕府に許されなかった。
 1783年、現在地の北、定法寺町(神宮道三条上ル東)に堂を建立する運びとなる。だが、資金難のため各地に植髪像は出開帳したという。
 1811年、1月に立柱、3月に入仏供養が行われた。
 その後も、お堂は二度移築されたという。
 近代、1880年、青蓮寺の現在地に移転した。
 現代、1979年、堂の屋根の一部が抜け落ちたため、修復が施されている。
◆像・仏像 8歳で得度した親鸞の植髪像は、堂の中央厨子内にある。厨子は江戸時代、1763年に造られたものという。
 御前立の阿弥陀如来立像は、模して造られたものという。その階下には納骨壇が置かれている。
 仏間左端に、12歳の親鸞を写したという墨染姿で合掌する漆黒の木像が安置されている。その右に親鸞80数歳の御真影、さらに、厨子の右に戒を授けた慈鎮の絵像が掛けられている。
 左余間には、親鸞得度の儀式の際に使われたという角盥(つのだらい)が置かれている。
◆遺髪塔 堂の北東に、親鸞の髪の一部を納めたという遺髪塔(1940)が立っている。
 その東に、子授観音像(1900)が立てられている。親鸞の母が親鸞を生む前に、観音菩薩の夢告があったという逸話に基づくという。
◆慈円 鎌倉時代初期の天台宗の僧・慈円(じえん、1155-1225)。慈鎮。父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光の娘。1165年、11歳で延暦寺、その後青蓮院・覚快法親王の下で出家した。1192年、天台座主となり、都合4度務めた。1203年、大僧正となり、第82代・後鳥羽上皇の護持僧となった。
 史書・史論書の『愚管抄』を著した。歌人として知られ、『新古今和歌集』にも多くの歌が収められている。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。見真大師。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年、法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年、長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
 1181年、9歳で叔父・日野範綱に伴われ、青蓮院・慈円(慈鎮)のもとで出家得度し、範宴(はんねん)と名乗った。この時、慈鎮は、日が暮れかかっていたため、得度式は明日に延ばそうというと、親鸞は「明日ありと 思ふこころの あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」という古歌を引いた。慈鎮は、親鸞の思いの強さに打たれ、その夜のうちに儀式を行ったという。親鸞が得度した場所は、宸殿の「親鸞聖人得度の間」として遺されている。その後、親鸞は比叡山横川(よかわ)の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で20年間修行を続けた。
◆金蔵寺 近代以前までは青蓮院の西にあり、青蓮院に属した。平安時代末期、永久年中(1113-1118)に天台座主・東陽坊忠尋により開かれたという。近代、1868年に廃寺となる。境内にあった三猿堂(庚申堂)は尊勝院に移された。
◆年間行事 法座(毎月4日、14日)。


*堂内の御仏、御真影などは撮影禁止。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『日本の名僧』『京都・山城寺院神社大事典』


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親鸞の母が親鸞を産んだ際に、観世音菩薩が夢に現れたという。その様が絵に描かれ堂内に飾られている。絵は、絵師・徳力善雪による「八幅絵伝」、親鸞400回忌法要のために描かれた。説明板より。

親鸞(中央)が戒師・慈円(慈鎮)により得度した際の様子。脇に角盥も描かれている。その場所は、青蓮院宸殿の「親鸞聖人得度の間」という。説明板より。

親鸞得度の際に使われたという角盥

親鸞聖人遺髪塔(1940)

親鸞聖人遺髪塔

親鸞聖人遺髪塔、脇に鹿の石像が置かれている。塔が建立された際に一頭の鹿が山から下りてきて、塔の前から離れなかったという。

子授観音像、1900年建立

「西本願寺法主御手植」の碑

「法主御手植」のクスノキ


「東本願寺法主御手植」の碑(1929)

親鸞手植ともいう青蓮院のクスノキの大木、樹齢800年ともいう。
 植髪堂 〒605-0035 京都市東山区粟田口三条坊町 
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