明智光秀之塚(胴塚)・明智藪 (京都市山科区、伏見区)
The grave of AKECHI Mitsuhide
明智光秀之塚(胴塚)・明智藪 明智光秀之塚(胴塚)・明智藪 
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明智光秀之塚(胴塚)


明智藪の碑、本経寺寺領にある。


明智藪の碑から近いところに今も残る竹藪と山道
 勧修寺(山科区)、小栗栖(おぐるす、伏見区)に、安土・桃山時代の武将・明智光秀終焉の地が残されている。
 ただ、江戸時代の軍記物の記述であり確定はされていない。場所についても「山科薮中」「醍醐の辺」「歓修寺在所」など諸説あり特定されていない。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1582年、6月2日、明智光秀が織田信長を急襲した本能寺の変後、中国地方から引き返した羽柴秀吉は、12日、天王山を占拠し、明智光秀の居城・勝龍寺付近を焼いた。
 13日、夕方、山崎の戦いが始まる。光秀の軍は敗北し、その日に光秀は、勝龍寺城(長岡京市)に入った。
 光秀は、夜陰に乗じ、家臣十数名と近江坂本城へ向かう。大亀谷(伏見区深草)から東へ向かい、小栗栖道(明智越え)に入った。だが、小栗栖(伏見区)の竹薮道で、残党狩りの土民(信長近臣、小栗栖の武士集団とも)・飯田一党の襲撃を受けた。光秀は深い傷を負い、その場で自刃したという。
 その際に、家臣・溝尾庄兵衛尉が光秀の命により介錯し、首は隠されたという。また、溝尾により坂本城に持ち帰られたともいう。また、本能寺に晒されたともいう。胴部分だけはこの地に埋められたともいう。
◆明智光秀 安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582)。美濃の土岐一族とされる。越前の朝倉義景、織田信長に仕え、足利義昭にも奉仕した。1568年、信長入京にも関わる。信長と義昭対立の際にも斡旋した。1570年、信長の摂津、近江の出陣以来、各所での戦に関わる。1571年、信長により坂本城を与えられる。1575年、九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。1575年、信長に丹波攻略を命じられ、口丹波、亀山、八木、山国を攻略一国支配を認められた。1580年、備中、1581年、因幡鳥取城攻撃の秀吉を助ける。1582年、信長の命による中国攻略中の秀吉支援に反した。1万3000の明智軍は備中に向かわず、亀山城から老ノ坂を経て本能寺を急襲した。信長は自刃、二条御所の信忠も自滅させた。取って返した秀吉との山崎の合戦に敗れ、一旦、勝竜寺城に入る。江州・坂本城に落ち延びる途中の小栗栖(おぐるす)で、土民の襲撃によって負傷し自刃したといわれる。
◆溝尾庄兵衛尉 安土・桃山時代の武将・溝尾庄兵衛尉(1538-1582)。溝尾茂朝、勝兵衛、庄兵衛。古くから明智光秀の重臣として仕えた。明智五宿老の1人。本能寺の変、山崎の戦いにも参加した。
 1582年、敗走中の小栗栖で、光秀の命令で介錯を務めた。首は坂本城にまで持ち帰ったともいう。その後、自害した。
◆光秀の首 明智光秀(1528-1582)は、小栗栖で溝尾勝兵衛の介錯により絶命し、首は路傍に隠されたという。光秀は自らの首を知恩院に持参するように言い残していたという。ただ、すでに落武者狩りが始まっており、首は竹薮に隠された。
 その後、光秀の首と胴は、土民に掘り返され、織田信長の配下に持ち去られ、秀吉の元に届けられたという。本能寺の「信長はたられ候跡」に晒された。さらに、六条河原で晒されていた光秀家臣・斎藤利三の遺体とともに、各首、胴が縫合されたともいう。6月14日、日ノ岡の粟田口刑場まで運ばれ、この地でも晒されたともいう。また、粟田口より、西小物座町(山科区)の人家背後に埋められ、その後、光秀子孫・明田某により梅宮町(東山区)の自宅に移され葬られたともいう。
 現在、光秀の胴塚といわれる「明智光秀之塚」(山科区勧修寺御所内町)、その地から南に、光秀終焉の地になったという「明智藪」(伏見区小栗栖小坂町)がある。 


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『洛中洛外』『秀吉の京をゆく』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都歩きの愉しみ』


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明智光秀之塚(胴塚) 京都市山科区勧修寺御所内町 
    明智藪 京都市伏見区小栗栖小坂町 

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