道元生誕の地・松殿山荘茶道会 (宇治市)
The birthplace of Dogen,Shoden Sansokai
道元生誕の地・松殿山荘茶道会 道元生誕の地・松殿山荘茶道会 
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松殿山荘










敷地北東の土塁


土塁の断面



敷地北西の土塁遺構の断面


ピンクの部分が現在の建物群、茶色線の部分が土塁遺構。上の青い四角部分の土塁2か所が発掘された。


敷地内にある「松」の字を記した杭


敷地内の宇治陵
 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元生誕地は、宇治木幡(こはた)にあった母方祖父・藤原(松殿)基房の別業、松殿(まつどの)荘といわれている。
 現在は、松殿山荘茶道会の15haの山林に松殿山荘(しょうでんさんそう)があり、十数棟の和風建築、日本庭園がある。
◆歴史年表 鎌倉時代、1200年、道元は母方の祖父・藤原基房の別業、松殿荘に生まれたともいわれている。(『伝光録』『建撕記』)。
 1202年、父・源通親が亡くなる。道元はほどなくして久我に引き取られ、幼少期を過ごしたという。
 1227年、基房が木幡の逆修所で詩歌会を開く。(藤原定家 『明月記』)。
 1230年、藤原基房がこの地で亡くなる。
 江戸時代、1754年、「木幡に別業二つ有、一 は松殿屋敷と称す」と記されている。(『山城名跡名勝巡行志』)
 近代、1918年、大阪の高谷宗範(恒太郎)は松殿山荘(敷地33万㎡)を建てる。小間の茶のみならず広間の茶、書院式の茶道を復興するために、以後10年あまりの歳月をかけて建物、庭園造営を続ける。
 1928年、財団「松殿山荘茶道会」となる。
 太平洋戦争中(1941-1945)、陸軍に敷地の半分を接収されている。
 現代、2012年より、宇治市の発掘調査が始まる。
 2013年、宇治市の調査により敷地を囲む土塁の遺構が発掘された。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
◆藤原基房
 平安時代末期の公卿・藤原(松殿)基房(1145-1231)。摂政・関白藤原忠通の次男に生まれた。松殿、菩提院、中山と号した。1157年、従三位・権中納言、1160年、権大納言から内大臣、1164年、左大臣となる。1166年、嫡子基通の摂政・氏長者となる。1170年、平重盛の子・資盛との殿下乗合事件では、力を持ち始めた清盛と対立し、資盛と牛車で鉢合わせした際にその無礼をとがめた。後白河上皇と結び平家と対立した。だが、1179年、清盛の権力奪取により太宰権帥に左遷される。その後出家し、赴任を拒否した。1183年、木曾義仲の入京後は義仲と結び、三女・伊子を差し出した。子・師家の摂政が一時実現するが、翌1184年、義仲の戦死後は菩提院に隠棲した。源(久我)通親台頭後、再び娘の伊子を差し出している。
◆源通親 平安時代末期-鎌倉時代初期の公卿、歌人の源(久我)通親(1149-1202)。村上源氏・久我(こが)雅通の子。号は久我、土御門。
 1180年、参議、内大臣となり、土御門内大臣と号した。後白河法皇の死後、法皇の寵姫・丹後局高階栄子と結んで勢力を築く。1196年、政変により、源頼朝と提携する親幕派の九条兼実を廟堂から追放する。養女在子が産んだ土御門天皇の外祖父として権勢を振るう。松殿基房の三女・伊子を側室とした。文、和歌に優れた。
◆藤原伊子 平安時代末期-鎌倉時代の女性・藤原伊子(いし、1167? - 1207?)。松殿伊子、冬姫。藤原北家嫡流の一人で関白・藤原(松殿)基房の三女、母は関白・藤原基房の娘。道元の母。1183年、源義仲が後白河法皇の御所法住寺殿襲撃後、義仲は失権していた父・基房と接近した。義仲は伊子を正室とする。1184年、義仲は源頼朝が遣した義経に攻められ戦死する。戦の最中、義仲は伊子との別れを惜しんだため、部下2人は切腹して義仲を諌めたという。基房は伊子を公卿・源通親の側室にする。1200年、伊子は宇治木幡松殿家山荘(久我の通親別邸とも)で道元を生む。1202年、通親亡き後、母子で隠れ住んだという。道元を仏道に導いたという。葬儀は高尾・神護寺で行われ、道元は無常を感じ発心したという。
◆高谷宗範 高谷宗範(たかやそうはん、恒太郎、1851-1933)。中津藩に生まれた。大蔵省・司法省の役人、東京控訴院検事を経て弁護士を開業した。茶の湯は遠州流の小堀宗舟に学んだ。
 「茶道経国」を唱え「茶道による昭和維新」を目指し、茶道により皇室中心の国家体制護持を主張した。茶の湯の儀礼性、道徳を重んじ、教化のための「茶道大学」の設立を唱えた。
 茶道道場「松殿山荘」を建て、義政、一休、利休ら36人を奉る「聖賢堂」を造る。
◆遺構調査 宇治市は2012年より5年計画で、平安時代末期の関白・藤原基房(1145-1230)の別荘「松殿跡」とみられる現在の松殿山荘茶道会敷地内の発掘調査を行っている。2013年、敷地を囲む土手(400m)が、緊急に築造された土塁とみられると発表した。また、奈良時代中頃 -後半の土師器・須恵器片、土坑より奈良時代後半の土師器も出土している。
 土塁跡は、現在の敷地を囲む400mの土手2か所にあり、最大部分の高さ1.7m、幅2.5mあった。これらは、周囲の土を盛り上げた土塁とみられ、堀は確認されなかった。当初の土塁は、高さ2m以上、幅3m以上が推定されている。その後、風化や破壊により低くなった。当時の貴族の邸宅は木枠で土を固め、それに屋根を付けた築地塀が一般的たったという。
 現地は丘陵地にあり、北西に愛宕山、南西に男山の眺望もきく。本来は軍事、防御的な土塁が、このように貴族の邸宅跡で見つかることは珍しといい、当時は源平兵乱期でもあることから、土塁が急遽築造された可能性があるとみられている。
◆古墳 周辺の遺跡木幡地区は、平安時代に 藤原氏の墳墓が相次いで築造された。松殿跡の北700mに、1005年に藤原道長が一門の菩提のために建立した頂妙寺(現在の木幡小学校内)がある。 松殿跡内には宇治陵墓30-1号墳、3号墳、31号墳が存在している。山荘の北西すぐ近くに、小規模の宇治陵32号墳、33号墳があり、33号墳は道元母・藤原(松殿)伊子の墓ともいう。また、かつて東側の丘陵には、頼通6男・藤原師実(1042-1101)の邸宅「京極殿」があったとみられている。


*松殿山荘は普段は非公開。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 「宇治市都市整備部歴史まちづく り推進課資料」『京都・宗祖の旅 道元』『京都 道元禅師を歩く』『京都府の地名』『日本の名僧』『京に燃えたおんな』『京に燃えた女』


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北西には、小規模の宇治陵、32号墳、33号墳が遺されている。

宇治陵33号墳、道元母・藤原(松殿)伊子の墓ともいう。

宇治陵32号墳

近くの茶畑

【参照】平安時代、1005年に藤原道長が一門の菩提のために建立した頂妙寺跡(木幡小学校内)。
map 松殿山荘茶道会  〒611-0002 宇治市木幡南山18番地  0774-31-8043
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