道元荼毘の地・曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔 (京都市東山区) 
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道元荼毘の地  道元荼毘の地
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高台寺境内北にある道元荼毘の地


傍らに「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔」の石標が立っている。永平寺71世・高階瓏仙(たかしなろうせん、1876-1968)書。


宝篋印塔
 西行庵南、高台寺境内北の墓地内に、道元荼毘の地がある。かつてこの地は、建仁寺三味処であったという。現在は、「曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔」の石標、宝篋印塔が立てられ、日本曹洞宗開祖・道元ゆかりの地になっている。 
◆歴史年表 鎌倉時代、1252年、道元は永平寺で病となる。
 1253年8月5日、波多野義重の勧めにより、療養のため弟子・懐奘を伴い俗弟子・覚念の屋敷(高辻西洞院)を訪れた。
 8月28日、この邸で亡くなったという。同日、東山赤辻(現在地付近)で荼毘に付される。
 9月6日、道元の遺骨は、懐奘により永平寺に持ち帰られた。
 9月10日、遺骨が永平寺に着く。
 9月12日、入涅槃の儀式を行い永平寺山内西北に埋葬された。
 1254年、道元弟子・詮慧は荼毘の跡地(現在地付近)に永興庵(ようこうあん)を建立し、道元等身大の木像を安置した。(『建撕記』『高台寺旧記』)
 1325年頃、永興庵は廃絶する。
 近代、1905年、村上素道が東山鹿ヶ谷(獅谷)の自炊林に承陽大師御霊場を開き、また荼毘所蹟を顕彰した。(村上素道『略年譜』)
 現代、1952年、高祖大師700回忌を記念し、荼毘所蹟は改修・整備された。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
詮慧 鎌倉時代の僧・詮慧(生没年不詳)。江州に生まれた。比叡山学僧となり、顕密に通じた。道元の弟子になり、首座、侍者。道元荼毘の地に留まり永興庵を建てる。寺は1325年頃廃絶する。『正法眼蔵』の注釈を行う。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・宗祖の旅 道元』『京都 道元禅師を歩く』『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』


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 道元荼毘の地 京都市東山区下河原町 

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