妙堯寺 (京都市上京区)
Myogyo-ji Temple

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民家風の本堂、ほかに堂舎はない。


天王寺屋浄本・妙蓮墓


南無日蓮大聖人
 七本松通丸太町上った寺町の一角に、妙堯寺(みょうぎょうじ)がある。鎌倉時代の日蓮宗宗祖・日蓮(1222- 1282)ゆかりの、京中の数少ない寺のひとつ。山号は神力山という。
 日蓮宗。
◆歴史年表 鎌倉時代、1248年以降、日蓮(蓮長)は、比叡山での籠山後、山を下りて各所で修行を重ねた。その際に、五条油小路(下京区後に上京区)にあった書店「天王寺屋」の浄本という家に一時寄宿したという。儒学と歌道を修めたという。本屋は、浄本と妙蓮という夫妻が営んでいた。
 1253年以降、日蓮が開宗した後、夫妻は信者となり、家を精舎にしたという。
 後に、夫妻の名を一字ずつ取り、本蓮寺と称した。
 室町時代、1536年、京都の日蓮宗二十一本山を比叡山衆徒が焼き討ちした天文法華の乱により焼失した。
 1555年頃(1559年とも)、妙堯禅尼が別邸を寄進し、宗祖旧蹟の復興のため、また、子の菩提のために現在地に再興し、妙堯寺と称したという。
◆日蓮 鎌倉時代の日蓮宗(法華宗)開祖・日蓮(にちれん、1222-1282)。日蓮大菩薩、立正大師。安房国の漁師の子に生まれた。1233年、12歳で天台系の安房の清澄山、道善房の弟子となり薬王丸と称した。1237年、16歳で出家、是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗る。1239年鎌倉の浄土宗蓮華寺、禅宗の寿福寺、京都、高野山、四天王寺、興福寺、1242年、比叡山に上り俊範法印につく。東塔・無動寺円頓房、1245年横川香芳谷・華光(けこう)房(後の定光院)で12年間修行した。1245年、臨済禅の円爾と親交する。1248年、泉涌寺の道隆、園城寺の智証に学ぶ。奈良七大寺、高野山、四天王寺、1251年、東寺に遊学した。1252年、比叡山を下り、清澄寺に戻る。1253年「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、立教開宗し日蓮と名乗る。国は法華経のみにより護られるとし、天台仏教が密教化、浄土化したことを批判した。1257年、地頭・東条景信により清澄山を追われ、鎌倉・松葉谷の草庵に逃れる。1260年、鎌倉幕府の前執権・北条時頼に法華経を正宗とする『立正安国論』を建白する。浄土宗、禅宗などの他宗、政治批判とみなされ草庵を焼打ちされる。(松葉谷法難)。1261年、幕府に捕えられ伊豆に流される。(伊豆法難)。1263年、赦免され鎌倉に戻る。1264年、安房・小松原で地頭による襲撃を受け重傷を負う。(小松原法難)。1268年、執権北条時宗に『立正安国論』を上申する。1271年、再び幕府に捕えられ片瀬龍口で斬首されそうになり、後に佐渡に流された。(龍口法難)。1272年、『開目抄』、1273年、『観心本尊抄』を著す。1274年、赦免後、身延山に隠棲、久遠寺を開山する。以後は著述と後身の養成をする。1282年、経一丸(日像)に京都弘通の使命を託した。日蓮は常陸への療養の旅の途中、武蔵の池上で亡くなり、身延に葬られた。
 日蓮は、念仏信仰を批判、他宗を邪宗とした。法華経を唯一の正法、絶対真理と説いた。本門の法華経が末法の人々を救うものとし、実践的な事の一念三千仏法と王法の一致、王仏冥合を説いた。4度の法難、相次ぐ迫害について、法華経弘通(ぐつう)の行者の証と説いた。
◆妙堯禅尼 室町時代-安土桃山時代の日蓮宗の尼僧・妙堯禅尼(?-1583)。京都に生まれた。御所に仕える少納言だった。本蓮寺の檀越であり、寺が焼失した後に移転し再興した。
◆墓 境内に浄本・妙蓮の夫婦墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・宗祖の旅 日蓮』『日本の名僧』


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 妙堯寺 京都市上京区西東町 399   075-841-2225

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