安倍晴明墓所(陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所) (京都市右京区) 
The grave of ABE no Seimei
安倍晴明墓所 安倍晴明墓所
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「陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所」の石碑


墓所は御陵、角倉稲荷神社に隣接している。






五芒星
 南北朝時代の第98代・南朝第3代・長慶天皇(ちょうけい、1343-1394)の嵯峨東陵の南に隣接し、平安時代の陰陽師・安倍晴明の墓所がある。晴明にまつわる塚の一つになっている。 
◆歴史年表 平安時代、1005年9月26日、安倍晴明は85歳で亡くなり、嵯峨の地に葬られたという。ただ、実際には、室町時代に数多く造られた「晴明塚」のひとつとみられている。墓所は天龍寺が所管し、塔頭・寿寧院の境内にあった。
 その後、荒廃する。
 現代、1972年、晴明神社、天社土御門神道の協力の下、晴明神社奉賛会により神道式に改修、建立された。現在は晴明神社の飛び地境内になっている。
◆安倍晴明 平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべの せいめい/ はるあきら/ はれあき、921-1005)。摂津国阿倍野、また、大和国桜井の安倍に生まれたともいう。大膳大夫・安倍益材、また、淡路守・安倍春材の子ともいい、諸説ある。鎌倉時代から近代、1870年まで、陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖。
 陰陽師・賀茂家の忠行・保憲父子に陰陽道、天文道を伝授されたという。948年、大舎人。第61代・朱雀天皇の信を得て以来、960年、天文得業生として第62代・村上天皇に占いを命ぜられた。972年、天文博士に任ぜられる。979年、皇太子師・貞親王(後の第65代・花山天皇)の信を得、その命により那智山の天狗を封ずる儀式を行った。その後も、第66代・一条天皇など6代の天皇に仕え、また藤原道長の信も得る。官職として主計寮の主計権助、左京権大夫、穀倉院別当、播磨守などを歴任した。
 安倍氏は、賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となる。
◆臥雲日件録 室町時代、相国寺僧・瑞渓周鳳(1392-1473)が書いた日記『臥雲日件録』、1467年の条に、この地(嵯峨野の東北)が安倍晴明の晴明廟であると記されているという。
 ただ、現存する文献は、相国寺の惟高妙安が室町時代、1562年に抄録した『臥雲日件録拔尤(ばつゆう)』になる。
◆晴明墓所 晴明の墓所とされている地は京都市内だけでも複数ある。
 五条大橋の東北の中州にあった法城寺(大黒堂)に葬られたともいう。少なくとも室町時代には存在した。鴨川の洪水を防ぐために晴明本人が建てたともいう。墓は晴明塚といわれ、松が植えられていた。その後、晴明祠が建てられ、木像が祀られた。
 晴明没後、東山区松原通宮川筋入ルに埋葬されたという。遺骨は、鬼門封じのためであったともいう。
 室町時代、この付近は、「大黒信仰」の中心地となり、下級芸能者の拠点になっていた。その後、寺も墓も、度重なる鴨川の氾濫、あるいは安土・桃山時代、豊臣秀吉による新しい五条大橋替え工事などにより消失した。また、秀吉による弾圧で消えたともいう。
 現在、法城寺の名は、法城山晴明堂心光寺(三条大橋東にある)の寺名に残されている。法城寺の後身とされ、かつては境内に晴明塚があったという。
 晴明は、東福寺門前の本町通に屋敷(一橋小学校南、本町通11丁と12丁の間、旧一ノ橋の南東付近)を構えていたともいう。また、墓所は、その近くの遣迎院南の竹藪の中にかつて存在したともいう。
◆年間行事 嵯峨墓所祭(命日には、晴明神社の神官により神事が行われている。)(9月26日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『陰陽道と平安京 安倍晴明の世界』『安倍晴明・紫式部を歩く』『陰陽師 安倍晴明に出会う旅』『安倍晴明読本』『京都・山城寺院神社大事典』『京のしあわせめぐり55』『京の寺 不思議見聞録』


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安倍晴明墓所 〒616-8382 京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町7-14 
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