繁昌神社・班女塚 (京都市下京区) 
Hanjo-jinja Shrine
繁昌神社・班女塚 繁昌神社・班女塚 
 Home

繁昌神社


繁昌宮の扁額








末社・班女塚(はんじょつか)、境内の北西すぐ近くにあり境内飛地になっている。この付近一帯に寝殿造の屋敷があったとみられている。



班女塚、岩の下に井戸があったともいう。かつては、縁談事で神社の前を通ると破談になるといわれていた。今は良縁成就の社になっている。


地蔵尊


住吉姫松
 繁昌町にある繁昌神社(はんじょう じんじゃ)は、「繁昌の宮」「京の弁財天」「班女(はんにょ)ノ社」「半女社」ともいわれている。祖霊稲荷、御霊稲荷になる。班女とは弁財天の別名(牛頭天王の妃とも)・針才女(はりさいじょ)の転訛によるという。 
 祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三姫神を祀る。
 古くは縁切り、破談の稲荷神だった。いまは、商売繁盛、良縁成就、悪縁消滅、芸能上達などの信仰を集める。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 平安時代、第56代・清和天皇の在位中(858-876)に、この地には藤原繁成の邸宅があったという。
 延暦年間(901-922)、邸内の庭・功徳池(くどくいけ)の中島に、安芸宮島より市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神を勧請したという。
 鎌倉時代、長門前司の亡くなった娘を現在地の北西(班女塚付近)に祀ったという。
 以後、神仏習合となり、真言宗の神宮寺・功徳院により管理され、本尊に毘沙門天像も祀った。
 安土・桃山時代、豊臣秀吉はその霊験にあやかり、社殿を佐女牛八幡宮社(東山五条)の近くに一度遷した。だが、祟りがあったとして現在地に戻されたという。
 江戸時代、1689年、「繁昌の社」と記されている。針才女よりの転訛によるとしている。(『京羽二重織留』)
 18世紀(1701-1800)に入り、周辺の町は繁昌町と呼ばれるようになる。社もまた「繁昌町の神社」とも呼ばれた。
 1864年、蛤御門の変、「どんどん焼け」により焼失している。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、本尊の毘沙門天像は廃された。祭神も弁財天を廃し、市杵島姫命に変わる。
◆祭神 祭神の三姫神は、天照大神の勅命を受け、弁財天の元になった神という。また、三女神はかつて安芸・宮島より勧請したもので、宮島、神泉苑の祭神と同体という。
 鎌倉時代には長門前司の娘を祀った。やがて牛頭天王の妻・針才女(はりさいじょ、婆利采女とも)に変わり、仏教色の強い弁財天になった。近代、神仏分離令後の廃仏毀釈により弁財天を廃し、市杵島姫命を祭神としたとみられる。
繁昌神社 全国で唯一という繁昌神社の社名について、当初は弁財天の別称「針才女(はりさいじょ)」で呼ばれた。やがて転訛し、中世後期-近世初期に「班女(はんにょ)」となったという。
 近世以前、周辺の町は「はんちよ町」と呼ばれていたという。近世初め、「はんじょ」「おはんじょ」ともいわれた。安土・桃山時代に周辺の町が商いで栄え、「繁昌(はんじょう)町」と呼ばれるようになる。町名に倣い、社もまた「繁昌町の神社」と呼ばれた。やがて神社も、「繁昌神社」と称されたともいう。(『怪異学の技法』)
◆班女塚 現在境内北西にある旧社地の班女(はんじょ)塚、班女神社について鎌倉時代の伝承がある。
 長門前司(ながとのぜんじ)に二人の姉妹があった。姉は結婚し、妹は宮仕の後に辞して家に居た。やがて、父母も亡くなり、家の奥の方に姉が、妹は南西の妻戸口(寝殿造の両開の戸)を、時折、男との逢瀬に使っていた。妹は、結婚しないまま、27、28歳頃に病により亡くなる。
 その遺体は妻戸口に横たえられた。遺族は鳥部野へ遺骸を送る。だが、墓地では櫃の蓋がわずかに開いており、妹の遺体が見当たらない。皆が急いで家に戻ると、妹は妻戸口に横たわっている。親しい人々が集まり相談し、夜明けに再び遺体を櫃に戻した。だが、夕方になると妹は再び妻戸口に臥している。櫃に戻そうとするが、今度は遺体が持ちあがらない。人々は、妹がこの地にどうしても留まりたいのだろうと推察した。やむなく、妻戸口の板敷を外し下に遺体を埋め、高い塚を築いて葬った。
 歳月を経て、家族も越して寝殿も朽ちた。高辻より北、室町より西、高辻表の地の6、7間ほどには小家もなく、草も生えず、人も寄りつかない処になった。ただ塚一つが残されていた。やがて塚の上に神の社を祀ったという。(鎌倉時代初期、1200年頃の説話集、『宇治拾遺物語』巻三ノ十五「長門前司の娘が葬送の時、本所に帰る事」)
 この社が班女神社であり、班女塚の起源ともいう。なお、班女とは「半女(はんじょ)」ともされ、未婚女性を意味するともいう。未婚のままに病死した女性の遺体に怪異があり、慰霊のために祀ったという。また、妹は未婚のままに亡くなり、怨霊と化した。結婚に強い執念を燃やし、塚の傍を縁談ごとなどで女性が通ると怨霊が祟り、必ず破談にしたという。当初は、縁切り、破談の稲荷として知られ、いまは、逆転して縁結びの神としても信仰されている。
◆班女 室町時代の世阿弥作という能(謡曲)の「班女(はんじょ)」と当社の関わりはないとみられている。
 美濃の宿「野上」の遊女・花子は、幼い頃より扇が好きで「班女」と呼ばれていた。花子は、都より来た客の吉田少将と一夜の契りを交わす。二人は互いに扇を交換した。少将が都に帰った後、花子はほかの客を取らず、少将の残した扇ばかりを眺め入る。やがて、女主人に廓を追われる。少将は、都に帰る途中に野上に立ち寄る。だが、花子の姿はすでになかった。少将は下鴨神社に参詣した際に、夕暮れの糺の森に、一人の狂女を見かける。女は、扇を手にして激しく舞っていた。少将は、自らが花子に贈った花の絵がある扇であることに気づく。花子は恋慕が募り狂していた。花子は自分の扇を出し、少将と互いに扇を確かめ合う。
 班女とは「班婕妤(はんしょうよ)」の略であり、前漢の成帝の妃をいう。帝の寵愛を失い、趙飛燕にその座を奪われる。班婕妤は、秋になると捨てられる夏の扇に我が身をたとえ、「班婕妤怨歌行」を作詩した。
◆祭礼 江戸時代には、祭礼(9月20日)があり神輿と犀の鉾が出ていたという。隆盛期には祭礼の際に、黄金の神輿が半裸の若衆により担がれ、周辺の町を練り歩いていたという。
◆年間行事 祭礼(隔年ごとに本殿に神輿を飾る)(5月20日前後)。
 月嘗祭(1日、15日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『怪異学の技法』『お稲荷さんの起源と信仰のすべて 稲荷大神』『稲荷信仰と宗教民俗』『京都 歴史案内』『京都の地名検証 3』『知られざる京のミステリースポット 巻の一 洛東編』『京都のご利益徹底ガイド』


   関連・周辺     周辺     関連      
 繁昌神社 〒600-8433 京都市下京区繁昌町308,高辻通室町西入る北側    075-371-4615  8:00-日没

より大きな地図で 繁昌神社 を表示
 Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp